日本キリスト教団   葉山教会 240-0112 神奈川県
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Hayama Presbyterian Church

祈祷会「雅歌」講解8

中村健一牧師

雅歌1章13〜14節

わが愛する者は、わたしにとっては、わたしの乳ぶさの間にある没薬の袋のようです。 わが愛する者は、わたしにとっては、エンゲデのぶどう園にあるヘンナ樹の花ぶさのようです。

雅歌のことをラテン語でカンテクム、カンテコールムといいます。 これは歌の中の歌という意味で、神へのほめ歌、讃美歌のことを指しています。 英語でもソング・オブ・ソングズ、歌の中の歌、讃美歌の言葉が雅歌のタイトルとして用いられているわけです。 日本語では雅やかの歌と書きますが、 この雅やかというのはキリストをほめたたえるという意味においての雅やかさなのです。 そのことが今夕の御言葉ほどよく表れたところはないのではないかと思います。

「わが愛する者は」というのは、主なる神が私達にではなく、 私達が主なる神の遣わし給いし独り子主イエス・キリストに対して申し上げている言葉です。 「私共の愛しまつる主イエス・キリストは、私にとっては」というのであります。 ここで、あのピリポ・カイザリアにおけるペテロの信仰告白を思い起こします。 主イエスは「人々は私を何者と言っているか」と問われました。 弟子たちは、ある者は、バプテスマのヨハネがよみがえったのだと言っています。 ある者はエレミヤかエリヤが再来したのだと言っています、と答えます。 主イエスは、それでは「あなたがたは私をだれというか」と問われました。 その時、ペテロが代表して「あなたこそ生ける神の子キリストです」と答えました。 ここに主イエスは「この信仰告白の上に私はわが教会を建つるべし」と宣言をされたのです。 そして黄泉の門これに勝たざるべし。 永遠の生命、主なる神との真の交わり、永遠の交わりにおける本当の生命がそこにあると、 すべての人を救う唯一の真の救いが教会において世にあらわされているのだと 主イエス自らが約束をして下さったわけです。 私たちはこの時のペテロのようにお答えをするわけでありますけれども、 それは雅歌が語るこの御言葉に耳を傾けることによってより明らかになるのではないでしょうか。 それは「私の乳ぶさの間にある没薬の袋のようです」と言われていることです。 心臓の場所に置かれている没薬の袋を肌身離さずもっている。 私共の心、生命がここにある、と告白しているのです。 没薬は葬りの備えのために用いられました。没薬と聞いてすぐに思い起こす場面が三つあります。 第一には、主イエスのご降誕の場面です。東方から来た博士たちが黄金、乳香、没薬をささげました。 それは葬りの三点セットでした。 二番目の場面は、主イエスが十字架におかかりになったとき 、兵卒の一人が没薬をまぜたぶどう酒を海綿にふくませて主イエスにのませようとした。 しかし主イエスはそれをお受けにならなかったと書いてあります。もう一つは、主イエスの葬りの場面です。 十字架から下ろされた主イエスの遺体はアリマタヤのヨセフが引き取って、 自分のために備えてあった墓に葬りました。 ヨセフは翌日、没薬をもって主イエスの墓に行って葬りの備えをしたと書いてある。 つまり主イエスのご降誕と十字架と葬りにおいて用いられたものが没薬であった。 私たちはここに、私たちのために人となられ、十字架におかかりになり、 私たちのために墓に葬られ給いし十字架の主イエス・キリストに対する信仰告白を見るのです。 「没薬」という言葉に言い表されているキリスト告白です。

エンゲデのぶどう園にあるヘンナ樹の花ぶさも、没薬と意味は同じです。 エンゲデのぶどう園は、イスラエルでもっとも豊饒なよいぶどうのとれるぶどう園でした。 そこにヘンナの大木がありました。とてもよい香りがするのです。 インドあたりでは葬儀の際にヘンナの花束をささげる習慣があります。 これも葬儀のときに用いられたということがわかります。 私たちの罪の贖いとして死に給うた神の独り子、 この方に対する私共のゆるぎなき信仰がここに告げられているのです。 私たち教会に連なる者のさし出すところの心そのものである。歌のなかの歌である。 そのように言わなくてはなりません。