日本キリスト教団   葉山教会 240-0112 神奈川県
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Hayama Presbyterian Church

祈祷会「雅歌」講解7

中村健一牧師

雅歌1章12節

王がその席に着かれたとき、わたしのナルドはそのかおりを放った。

私達はこの御言葉を読む時に一つの場面を思い浮かべるのではないでしょうか。それは、ルカによる福音書7章36〜50節にある出来事です。シモンというパリサイ人の家に主イエスが招かれた時に、その町で罪の女というレッテルを張られた女性が無断で入ってきて、主イエスのうしろから足元により、涙で主イエスの足をぬらし、自分の髪の毛でそれをぬぐい、そして足に接吻をして、ナルドの香油を惜しげもなく注いだ。それで部屋の中も外も香油の香で満ち溢れた。で、シモンは思いました。この方が本物のキリストならば、自分にさわっている女が罪の女だということがわからないはずがない。そう思って、どういう反応を示されるか、主イエスが立ち上がって「けがれた女、私にふれるな」そういうふうに言うだろう。そう言わないならば、この人はキリストではない、というふうに見ていたんですね。

主イエスは、彼の心を見抜かれて、一つのたとえ話をなさいました。「あるところに、金貸しに金を借りた人が二人いた。一人は500デナリを借り、もう一人は50デナリ。どちらも借金を返すことができないことは同じでしたから、金貸しは二人とも借金を帳消しにしてやった。帳消しにしてもらったこの二人のうち、どちらが多く金貸しに感謝するだろうか。」「多くの金額を帳消しにしてもらったほうです。」こう答えたわけです。あなたの答えは正しい、と主は言われたのです。それから、この罪の女というレッテルをはられた女性のほうを振りむいて、あなたはこの女を見ていないのか。私があなたの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかった。この女性は涙で私の足をぬらし、自分の髪の毛でふいてくれた。あなたは私に祝福の接吻をしてくれなかったが、彼女は私の足に接吻して止まなかった。あなたは私の頭ににおい油をぬってくれなかったけれども、彼女は自分の全財産であろうナルドの香油をすべて私の足に注いで、自分の髪の毛でぬってくれた。「あなたに言う」と主は宣言された。彼女の大きな罪が赦されていることは彼女の愛の大きさでわかる。つまり、主イエスの救いに与っていた女性であった。その救いの喜びを感謝し、主イエスに対する信仰を、愛を表したいがために、命の危険をかえりみず、パリサイ人の家に無断で入ってきて、ナルドの香油を全部ささげて、主イエスに感謝、愛を示した。

しかし、シモンは「罪の女」というレッテルしか見ていませんでした。主イエスは言われます。あなたは私に対してなんの感謝も愛も示してくれなかった。それはあなたが神から罪を赦していただかなければならないということを忘れている。自分には罪がないと思っているのだ。こう宣言をされたのです。あなたと彼女の違いはどこにあるのか。自分は正しい、清い人間だとうぬぼれている。しかし、彼女は、自分は赦されたけれども、神によって贖っていただかなければ生き得ない。神の御前に立ち得ない人間であることを知っていた。少しだけ赦された者は少しだけしか愛さない。自分が罪人ではなく義人だとうぬぼれている。罪の赦しなどいらないと思っている人間は神を愛さない。このように主イエスは言われたのです。彼女に対して主はやさしく、毅然として言われた。「女よ、あなたの罪は赦された」「汝の信仰、汝を救えり」「心やすらかに行くべし」と。これは、私が永遠にあなたと共にいる。私があなたのために十字架の道を歩む。だから心やすらかにあなたの人生を神と共に歩む者となりなさい。このように主は宣言してくださり、彼女の全存在を祝福をもっておおってくださったのです。

まことの王の王であられる救い主、主イエス・キリストが、その席にお着きになったとき、私のナルドはその香りを放った。 「あなたのナルドは、王の王たる救い主イエス・キリストに対してささげられていますか」そのように私たち一人一人に、いつも問われているのではないでしょうか。