日本キリスト教団   葉山教会 240-0112 神奈川県
三浦郡葉山町堀内1882
046-875-0648

Hayama Presbyterian Church

汽謄汽蹈縫噂3章6〜13節

「ところが今テモテが、あなたがたの所からわたしたちのもとに帰ってき
て、あなたがたの信仰と愛とについて知らせ、また、あなたがたがいつも
わたしたちのことを覚え、わたしたちがあなたがたに会いたく思っている
と同じように、わたしたちにしきりに会いたがっているという吉報をもた
らした。兄弟たちよ。それによって、わたしたちはあらゆる苦難と患難と
の中にありながら、あなたがたの信仰によって慰められた。なぜなら、あ
なたがたが主にあって堅く立ってくれるなら、わたしたちはいま生きるこ
とになるからである。ほんとうに、わたしたちの神のみまえで、あなたが
たのことで喜ぶ大きな喜びのために、どんな感謝を神にささげたらよいだ
ろうか。わたしたちは、あなたがたの顔を見、あなたがたの信仰の足りな
いところを補いたいと、日夜しきりに願っているのである。どうか、わた
したちの父なる神ご自身と、わたしたちの主イエスとが、あなたがたの所
へ行く道を、わたしたちに開いて下さるように。どうか、主があなたがた
相互の愛とすべての人に対する愛とを、わたしたちがあなたがたを愛する
愛と同じように、増し加えて豊かにして下さるように、そして、どうか、
わたしたちの主イエスが、そのすべての聖なる者と共にこられる時、神の
みまえに、あなたがたの心を強め、清く、責められるところのない者にし
て下さるように」

〔講解〕
 ここにこそ、パウロの絶えざる祈りがありました。テサロニケの教会の
人々が神の言葉(福音)に堅く立って生きるようになることです。私たち
は存在の根拠を偶然性や自然性の中にではなく、永遠に変わることのない
神の愛の中に持つ存在なのです。だからアウグスティヌスは「告白」にお
いて「我らは神の御手のうちに安らうまでは決して平安を得ない」と語っ
ています。人間は責任ある存在であり、その責任性は神の愛に対する応答
(信仰)によって成り立ちます。私たちの人生は自分の主とはなりえませ
ん。逆に、私たちの人生がまことの主を必要としているのです。

使徒行伝22章1〜5節

「兄弟たち、父たちよ、いま申し上げるわたしの弁明を聞いていただきた
い」。パウロが、ヘブル語でこう語りかけるのを聞いて、人々はますます
静粛になった。そこで彼は言葉をついで言った、「わたしはキリキヤのタ
ルソで生まれたユダヤ人であるか、この都で育てられ、ガマリエルのひざ
もとで先祖伝来の律法について、きびしい薫陶を受け、今日の皆さんと同
じく神に対して熱心な者であった。そして、この道を迫害し、男であれ女
であれ、縛りあげて獄に投じ、彼らを死に至らせた。このことは、大祭司
も長老たちも一同も、証明するところである。さらにわたしは、この人た
ちからダマスコの同志たちへあてた手紙をもらって、その地にいる者たち
を縛り上げ、エルサレムにひっぱってきて、処罰するため、出かけて行っ
た。

〔講解〕
  パウロはもとの名をサウロと言い、キリキヤのタルソ生まれのユダヤ人
で、律法に最も熱心なパリサイ人としての教育を受けた人でした。将来は
エルサレムの大祭司となる地位と名誉が約束されていました。しかしサウ
ロの心は空虚であり、真の救いを求め続けていたのです。
  そんなサウロに大転機が訪れます。ダマスコにあるキリスト教会を迫害
するために出かける途中で、復活の主イエスにお会いしたことでした。そ
こで主イエスはサウロに「立って、ダマスコに行きなさい」とお告げにな
ります。サウロはこの言葉に打ち砕かれたのです。主イエスはサウロの過
去の行状を問いたまわず、ただ彼がいまなすべきことをお命じになったか
らです。
  サウロはダマスコで主の弟子アナニヤから洗礼を受け、そこに新しいキ
リストの僕・使徒パウロとしての歩みが始まってゆきました。

ルカ福音書12章22〜24節

『それから弟子たちに言われた、「それだから、あなたがたに言っておく。
何を食べようとかと、命のことで思いわずらい、何を着ようかとからだの
ことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさっている。
からすのことを考えて見よ。まくことも、刈ることもせず、また、納屋も
なく倉もない。それだのに、神は彼らを養っていて下さる。あなたがたは
鳥よりも、はるかにすぐれているではないか。
〔講解〕
 私たちにはいろいろな「思いわずらい」があります。人間として生きる
かぎり、仕方のないことだと割り切ってしまうのは簡単です。大切なこと
は、何が私たち人間を生かすものであるか、なにが私たちにとって最も大
切なものであるかを知ることではないでしょうか。
 主イエス・キリストは、それは主なる神が与えて下さる「養い」だと言
われます。「からす」は嫌われものですが、聖書では神に祝福された鳥と
して出てきます。神は一羽のカラスさえも養い育てて下さる、それなら、
まして「鳥よりも、はるかにすぐれている」私たちには、それ以上に良き
ものを与えて下さるはずではないかと言われるのです。
 "万物の霊長"だからと言って、自然のままで神を知っているわけではあ
りません。実はカラスのほうが神の恵みに応えて、喜んで生きているのか
もしれません。私たちは、神の限りない愛を戴いているのです。その愛が、
いつもあなたと共にあるのです。神を知ることを求めようではありません
か。

ヨハネ福音書8章31〜32節

イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、「もしわたしの言葉のう
ちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なので
ある。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得さ
せるであろう」。
〔講解〕
 私たちは聖書の言葉に「とどまって」いることができるでしょうか?。
もし自分にそのような能力があると考えるのなら、私たちは自分を偽って
いることになるでしょう。なぜなら、私たちはどんなに努力しても神の言
葉に叛くほかはない罪なる存在だからです。もしそうでないのなら、なぜ
この世界には分裂や憎しみや戦争が絶えないのでしょうか。
  聖書の言葉に「とどまって」いるということは、私たちを招きたもうキ
リストの愛の招きにあるがままに従うことです。キリストはいつも、私た
ちに信仰を求めておられるのです。そのとき「あなたがたは、ほんとうに
わたしの弟子なのである」と主は言われます。私たちは誰でもあるがまま
に、キリストに従う者とならせて戴けるのです。
 そしてそのとき、私たちは「真理」を知る者とされます。そして「真理
は、あなたがたに自由を得させるであろう」と主は告げられます。これは
国立国会図書館の壁にギリシヤ語の原文のままに刻まれている言葉でもあ
ります(館員のかたはこれが聖書の言葉だということを知りませんでした
が)。この「真理」とはキリストの贖いの御業です。私たち全ての者の罪
のために、主が十字架にかかって死んで下さったことです。
 この十字架の主キリストを知ることによってこそ、私たちは本当の自由
を得るのです。

第一コリント書1章5〜13節

アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰
に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主が与えられた分に応じて仕え
ているのである。わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させ
て下さるのは、神である。だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取
るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。植える者と
水をそそぐ者とは一つであって、それぞれの働きに応じて報酬を得るであ
ろう。わたしたちは神の同労者である。あなたがたは神の畑であり、神の
建物である。神から賜った恵みによって、わたしたちは熟練した建築士の
ように、土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てるのである。し
かし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。なぜなら、
すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。
そして、この土台はイエス・キリストである。この土台の上に、だれかが
金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、それぞれの
仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、
それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるか
を、ためすであろう。

コロサイ人への手紙4章1〜18節

主人たる者よ、僕を正しく公平に扱いなさい。あなたがたにも主が天にい
ますことが、わかっているのだから。目をさまして、感謝のうちに祈り、
ひたすら祈り続けなさい。同時にわたしたちのためにも、神の御言のため
に門を開いて下さって、わたしたちがキリストの奥義を語れるように(わ
たしは、実は、そのために獄につながれているのである)、また、わたし
が語るべきことはっきりと語れるように、祈ってほしい。今の時を生かし
て用い、そとの人に対して賢く行動しなさい。いつも、塩で味つけられた、
やさしい言葉を使いなさい。そうすれば、ひとりびとりに対してどう答え
るべきか、わかるであろう。わたしの様子については、主にあって共に僕
であり、また忠実に仕えている愛する兄弟テキコが、あなたがたにいっさ
いのことを報告するであろう。わたしが彼をあなたがたのもとに送るのは、
わたしたちの様子を知り、また彼によって心の励ましを受けるためなので
ある。あなたがたのひとり、忠実な愛する兄弟オネシモをも、彼と共に送
る。彼はあなたがたに、こちらのいっさいの事情を知らせるであろう。わ
たしと一緒に捕らわれの身となっているアリスタルコと、バルナバのいと
このマルコとが、あなたがたによろしくと言っている。このマルコについ
ては、もし彼があなたがたのもとに行くなら、迎えてやるようにとのさし
ずを、あなたがたはすでに受けているはずである。また、ユストと呼ばれ
ているイエスからもよろしく、割礼の者の中で、この三人だけが神の国の
ために働く同労者であって、わたしの慰めとなった者である。あなたがた
のうちのひとり、キリスト・イエスの僕エパフラスから、よろしく。彼は
いつも、祈りのうちであなたがたを覚え、あなたがたが全き人となり、神
の御旨をことごとく確信して立つようにと、熱心に祈っている。わたしは、
彼があなたがたのため、またラオデキヤとヒエラポリスの人のために、ひ
じょうに心労していることを、証言する。愛する医者ルカとデマスとが、
あなたがたによろしく。ラオデキヤの兄弟たちに、またヌンパとさの家に
ある教会とに、よろしく。この手紙があなたがたの所で朗読されたら、ラ
オデキヤの教会でも朗読されるように、取り計らってほしい。またラオデ
キヤからまわって来る手紙を、あなたがたも朗読してほしい。アルキポに、
「主にあって受けた努めをよく果たすように」と伝えてほしい。パウロ自
身が、手ずからこのあいさつを書く。わたしが獄につながれていることを、
覚えていてほしい。恵みが、あなたがたと共にあるように。

ルカによる福音書15章1〜24節

さて、収税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。
するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎
えて一緒に食事をしている」と言った。そこでイエスは彼らに、この譬を
お話になった、「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたと
する。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野に残しておいて、いなく
なった一匹を見つけるまでは捜しに歩かないであろうか。そして見つけた
ら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集
め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたか
ら』と言うであろう。よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとり
でも悔い改めるなら、悔い改めが必要としない九十九人の正しい人のため
にもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう」。また、ある女が銀貨
十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつ
けて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。そ
して見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一
緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろ
う。よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるな
ら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。また言われた、「あ
る人に、ふたりのむすこがあった。ところが、弟が父親に言った、『父よ、
あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はそ
の身代をふたりに分けてやった。それから幾日もたたないうちに、弟は自
分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずし
て財産を使い果たした。何もかも浪費してしまったのち、その地方にひど
いききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。そこで、その
地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑に
やって豚を飼わせた。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思う
ほどであったが、何もくれる人はなかった。そこで彼は本心に立ちかえっ
て言った『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、
わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰って、
こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯
しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。ぞうぞ、
雇人のひとり同様にしてください』。そこで立って、父のところへ出かけ
た。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、
その首をだいて接吻した。むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対
しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたの息子と呼ば
れる資格はありません』。しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、
最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足に
はかせなさい。また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽し
もうではないか。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなってい
たのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。

ヨハネの第三の手紙1〜15節

長老のわたしから、真実に愛している親愛なるガイオへ。愛する者よ。あ
なたのたましいがいつも恵まれていると同じく、あなたがすべてのことに
恵まれ、またすこやかであるようにと、わたしは祈っている。兄弟たちが
きて、あなたが真理に生きていることを、あかししてくれたので、ひじょ
うに喜んでいる。事実、あなたは真理のうちを歩いているのである。わた
しの子供たちが真理のうちを歩いていることを聞く以上に、大きい喜びは
ない。愛する者よ。あなたが、兄弟たち、しかも旅先にある者につくして
いることは、みな真実なわざである。彼らは、諸教会で、あなたの愛につ
いてあかしをした。それらの人々を、神のみこころにかなうように送り出
してくれたら、それは願わしいことである。彼らは、御名のために旅立っ
た者であって、異邦人からは何も受けていない。それだから。わたしたち
は、真理のための同労者となるように、こういう人々を助けねばならない。
わたしは少しばかり教会に書きおくっておいたが、みんなのかしらになり
たがっているデオテレペスが、わたしたちを受けいれてくれない。だから、
わたしがそちらへ行った時、彼のしわざを指摘しようと思う。彼は口ぎた
なくわたしたちをののしり、そればかりか、兄弟たちを受けいれようとも
せず、受けいれようとする人たちを妨げて、教会から追い出している。愛
する者よ。悪にならないで、善にならいなさい。善を行う者は神から出た
者であり、悪を行う者は神を見たことのない者である。デメテリオについ
ては、あらゆる人も、また真理そのものも、証明している。わたしたちも
証明している。そして、あなたが知っているとおり、わたしたちの証明は
真実である。あなたに書きおくりたいことはたくさんあるが、墨と筆で書
くことはすまい。すぐにでもあなたに会って、直接はなし合いたいもので
ある。平安が、あなたにあるように。友人たちから、あなたによろしく。
友人たちひとりびとりに、よろしく。

コロサイ人への手紙2章1〜12節

わたしが、あなたがたとラオデキヤにいる人たちのため、また、直接には
まだ会ったことのない人々のために、どんなに苦闘しているか、わかって
もらいたい、それは彼らが、心を励まされ、愛によって結び会わされ、豊
かな理解力を十分に与えられ、神の奥義なるキリストを知るに至るためで
ある。キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。
わたしがこう言うのは、あなたがたが、だれも巧みな言葉で迷わされるこ
とのないためである。たとい、わたしは肉体においては離れていても、霊
においてはあなたがたと一緒にいて、あなたがたの秩序正しい様子とキリ
ストに対するあなたがたの強固な信仰とを見て、喜んでいる。このように、
あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩き
なさい。また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたよう
に、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。あなたがたは、む
なしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさ
い。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言い伝え
に基づくものにすぎない。キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神
の徳が、かたちをとって宿っており、そしてあなたがたは、キリストにあ
って、それに満たされているのである。彼はすべての支配と権威とのかし
らであり、あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、
キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。あなたがた
はバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみが
えらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのであ
る。

第一コリント書1章1〜31節

神の御旨により召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟
ソステネから、コリントにある神の教会、すなわち、わたしたちの主イエ
ス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての人々と共に、キリ
スト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがたへ。この
キリストは、わたしたちの主であり、また彼らの主であられる。わたした
ちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたに
あるように。わたしは、あなたがたがキリスト・イエスにあって与えられ
た神の恵みを思って、いつも神に感謝している。あなたがたはキリストに
あって、すべてのことに、すなわち、すべての言葉にもすべての知識にも
恵まれ、キリストのためのあかしが、あなたがたのうちに確かなものとさ
れ、こうして、あなたがたは恵みの賜物にいささかも欠けることがなく、
わたしたちの主イエス・キリストの現れるのを待ち望んでいる。主もまた、
あなたがたを最後まで堅くささえて、わたしたちの主イエス・キリストの
日に、責められるところのない者にして下さるであろう。神は真実なかた
である。あなたがたは神によって召され、御子、わたしたちの主イエス・
キリストとの交わりに、はいらせていただいたのである。さて、兄弟たち
よ。わたしたちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧める。
みな語ることを一つにし、お互の間に分争がないようにし、同じ心、同じ
思いになって、堅く結び合ってほしい。わたしの兄弟たちよ。実は、クロ
エの家の者たちから、あなたがたの間に争いがあると聞かされている。は
っきり言うと、あなたがたがそれぞれ、「わたしはパウロにつく」「わた
しはアポロに」「わたしはケパに」「わたしはキリストに」と言い合って
いることである。キリストは、いくつにも分けられたのか。パウロは、あ
なたがたのために十字架につけられたことがあるのか。それとも、あなた
がたは、パウロの名によってバプテスマを受けたのか。わたしは感謝して
いるが、クリスポとガイオ以外いは、あにたがたのうちのだれにも、バプ
テスマを授けたことがない。それはあなたがたがわたしの名によってバプ
テスマを受けたのだと、だれにも言われることのないためである。もっと
も、ステパナの家の者たちには、バプテスマを授けたことがある。しかし、
そのほかには、だれにも授けた覚えがない。いったい、キリストがわたし
をつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝え
るためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。そ
れは、キリストの十字架が無力なものになってしまわないためである。十
字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちに
は、神の力である。すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、
賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。知者はどこにいるか。
学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、
愚かにされたではないか。この世は、自分の知恵によって神を認めるに至
らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚か
さによって、信じる者を救うこととされたのである。ユダヤ人はしるしを
請い、ギリシャ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけら
れたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせる
もの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダ
ヤ人にもギリシャ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。神
の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。兄弟たち
よ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知
恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多
くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚か
な者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力
な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている
者、すなわち、無に等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どん
な人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。あなたがたがキリ
スト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、
わたしたちの知恵となり、議と聖とあがないとになられたのである。それ
は、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。

ヨハネ福音書6章28〜35節

そこで、彼らはイエスに言った、「神のわざを行うために、わたしたちは
何をしたらよいでしょうか」。イエスは彼らに答えて言われた、「神がつ
かわされた者を信じることが、神のみわざである」。彼らはイエスに言っ
た、「わたしたちが見てあなたを信じるために、どんなしるしを行って下
さいますか。わたしたちの先祖は荒野でマナを食べました。それは『天よ
りのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」。そこで
イエスは彼らに言われた、「よく、よく言っておく。天からのパンを与え
たのは、モーセではない。天からのまことのパンをあなたがたに与えるの
は、わたしの父なのである。神のパンは、天から下ってきて、この世に命
を与えるものである」。彼らはイエスに言った、「主よ、そのパンをいつ
もわたしたちに下さい」。イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパン
である。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は
決してかわくことがない。

ピリピ人への手紙4章1〜9節

だから、わたしの愛し慕っている兄弟たちよ。わたしの喜びであり冠であ
る愛する者たちよ。このように、主にあって堅く立ちなさい。わたしはユ
ウオデヤに勧め、またスントケに勧める。どうか、主にあって一つ思いに
なってほしい。ついては、真実な協力者よ。あなたにお願いする。この二
人の女を助けてあげなさい。彼らは、「いのちの書」に名を書きとめられ
ているクレメンスや、その他の同労者たちと協力して、福音のためわたし
と共に戦ってくれた女たちである。あなたがたは、主にあっていつも喜び
なさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容を、みんなの
人に示しなさい。主は近い。何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごと
に、感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神
に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのでき
ない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって
守るであろう。最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべき
こと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべ
てほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、
それらのものを心にとめなさい。あなたがたが、わたしから学んだこと、
受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、
平和の神が、あなたがたと共にいますであろう。

コロサイ人への手紙2章1〜12節

わたしが、あなたがたとラオデキヤにいる人たちのため、また、直接には
まだ会ったことのない人々のために、どんなに苦闘しているか、わかって
もらいたい、それは彼らが、心を励まされ、愛によって結び会わされ、豊
かな理解力を十分に与えられ、神の奥義なるキリストを知るに至るためで
ある。キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。
わたしがこう言うのは、あなたがたが、だれも巧みな言葉で迷わされるこ
とのないためである。たとい、わたしは肉体においては離れていても、霊
においてはあなたがたと一緒にいて、あなたがたの秩序正しい様子とキリ
ストに対するあなたがたの強固な信仰とを見て、喜んでいる。このように、
あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩き
なさい。また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたよう
に、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。あなたがたは、む
なしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさ
い。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言い伝え
に基づくものにすぎない。キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神
の徳が、かたちをとって宿っており、そしてあなたがたは、キリストにあ
って、それに満たされているのである。彼はすべての支配と権威とのかし
らであり、あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、
キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。あなたがた
はバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみが
えらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのであ
る。

ペテロ第一の手紙1章1〜9節

イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カペドキヤ、ア
ジヤ、及びビテニヤに離散し寄留している人たち、すなわち、イエス・キ
リストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知さ
れたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。恵
みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。ほむべきかな、わたし
たちの主イエス・キリストの父なる神、神は、その豊かなあわれみにより、
イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたち
を新たに生まれさせて生ける望みをいだかせ、あなたがたのために天にた
くわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として
下さったのである。あなたがたは、終わりの時に啓示さるべき救にあずか
るために、信仰により神の御力に守られているのである。そのことを思っ
て、今しばらくのあいだは、さまざまな試練で悩まねばならないかも知れ
ないが、あなたがたは大いに喜んでいる。こうして、あなたがたの信仰は
ためされて、火で精錬されても朽ちるほかない金よりもはるかに尊いこと
が明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれ
とに変わるであろう。あなたがたは、イエス・キリストを見たことはない
が、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言につくせ
ない、輝きにみちた喜びにあふれている。それは、信仰の結果なるたまし
いの救を得ているからである。

エペソ書6章10〜24節

最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔
の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたした
ちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、や
みの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、
悪しき日にあって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、
神の武具を身につけなさい。すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義
の胸当てを胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のた
てを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことが
できるであろう。また、救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神
の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、
そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづ
けなさい。また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜り、大胆に福
音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい。わ
たしはこの福音のための使節であり、そして鎖につながれているのである
が、つながれていても、語るべき時には大胆に語れるように祈ってほしい。
わたしがどういう様子か、何をしているかを、あなたがたに知ってもらう
ために、主にあって忠実に仕えている愛する兄弟テキコが、いっさいの事
を報告するであろう。彼をあなたがたのもとに送るのは、あなたがたがわ
たしたちの様子を知り、また彼によって心に励ましを受けるようになるた
めなのである。父なる神とわたしたちの主イエス・キリストから平安なら
びに信仰に伴う愛が、兄弟たちにあるように。変わらない真実を持って、
わたしたちの主イエス・キリストを愛するすべての人々に、恵みがあるよ
うに。

第一コリント書15章1〜10節

兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けい
れ、それによって立ってきたあの福音を、思い起こしてもらいたい。もし
あなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉
を固く守っておれば、この福音によって救われるのであるわたしが最も大
事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであっ
た。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のた
めに死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目
によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そ
ののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠っ
た者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。そののち、ヤコブに
現れ次に、すべての使徒たちに現れ、そして最後に、いわば、月足らずに
生まれたようなわたしにも、現れたのである。実際わたしは、神の教会を
迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒
と呼ばれる値うちのない者である。しかし神の恵みによって、わたしは今
日あるを得ているのである。そして、わたしに賜った神の恵みはむだにな
らず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそ
れは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。

マルコ福音書14章1〜9節

さて、過越と徐酵との祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、
策略をもってイエスを捕らえたうえ、なんとかして殺そうと計っていた。
彼らは、「祭の間はいけない。民衆が騒ぎを起こすかも知れない」と言っ
ていた。イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家にいて、食卓について
おられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れて
ある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎか
けた。すると、ある人々が憤って互いに言った、「なんのために香油をこ
んなにむだにするのか。この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい
人たちに施すことができたのに」、そして女をきびしくとがめた。すると
イエスは言われた、「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるの
か。わたしによい事をしてくれたのだ。貧しい人たちはいつもあなたがた
と一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。しか
し、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけでではない。この女はで
きる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あら
かじめ葬りの用意をしてくれたのである。よく聞きなさい。全世界のどこ
でも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られ
るであろう」。

ローマ人への手紙8章31〜39節

それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたち
の味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさ
え惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、ど
うして、御子のみならず万物をも賜らないことがあろうか。だれが、神の
選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、
わたしたちを罪に定めるのか、キリスト・イエスは、死んで、否、よみが
えって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるので
ある。だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、
苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。「わたしたちはあなたが
たのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られてい
る」と書いてあるとおりである。しかし、わたしたちを愛して下さったか
たによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがあ
る。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来の
ものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、
わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き
離すことはできないのである。

ルカ福音書15章1〜7節

さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。
するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎
えて一緒に食事をしている」と言った。そこでイエスは彼らに、この譬を
お話になった、「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたと
する。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野に残しておいて、いなく
なった一匹を見つけるまでは捜しに歩かないであろうか。そして見つけた
ら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集
め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたか
ら』と言うであろう。よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとり
でも悔い改めるなら、悔い改めが必要としない九十九人の正しい人のため
にもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう」。

エペソ人の手紙2章11節〜22節

だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人
であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の
者と呼ばれており、またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国
籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もな
く神もない者であった。ところが、あなたがたは、このように以前は遠く
離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって
近いものとなったのである。キリストはわたしたちの平和であって、二つ
のものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によっ
て、数々の規定から成り立っている戒めの律法を廃棄したのである。それ
は、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきた
らせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、
敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。それから彼は、こられ
た上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者
たちにも平和を宣べ伝えられたのである。というのは、彼によって、わた
したち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことがで
きるからである。そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、
聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。またあなたがたは、
使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリス
ト・イエスご自身が隅のかしら石である。このキリストにあって、建物全
体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、そしてあなたがたも、主
にあって共に建てられて、霊のすまいとなるのである。

ヘブル人への手紙4章14〜16節

さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の
子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろ
うではないか。この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできな
いようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、
わたしたちと同じように試練に会われたのである。だから、わたしたちは、
あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、
はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。

ローマ人への手紙5章1〜11節

このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたした
ちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。わたしたち
は、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れら
れ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。それだけでは
なく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬
達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そ
して、希望は失望に終わることはない。なぜなら、わたしたちに賜ってい
る聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。わ
たしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たち
のために死んで下さったのである。正しい人のために死ぬ者は、ほとんど
ないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。
しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さ
ったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。わた
したちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、
彼によって神の怒りから救われるであろう。もし、わたしたちが敵であっ
た時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受け
ている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。そればか
りでなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イ
エス・キリストによって、神を喜ぶのである。

マタイ福音書14章15〜21節

夕方になったので、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「ここは寂し
い所でもあり、もう時もおそくなりました。群衆を解散させ、めいめいで
食物をかいに、村々へ行かせてください」。するとイエスは言われた、
「彼らが出かけて行くには及ばない。あなたがたの手で食物をやりなさ
い」。弟子たちは言った、「わたしたちはここに、パン五つと魚二ひきし
か持っていません」。イエスは言われた、「それをここに持ってきなさ
い」。そして群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚
とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡され
た。弟子たちはそれを群衆に与えた。みんなの者は食べて満腹した。パン
くずの残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。食べた者は、女
と子どもとを除いて、おおよそ五千人であった。

ルカ福音書2章40〜52節

幼な子は、ますます成長して強くなり、知恵に満ち、そして神の恵みがそ
の上にあった。さて、イエスの両親は、過越の祭には毎年エルサレムへ上
っていた。イエスが十二歳になった時も、慣例に従って祭のために上京し
た。ところが、祭が終わって帰るとき、少年イエスはエルサレムに居残っ
ておられたが、両親はそれに気づかなかった。そして道連れの中にいるこ
とと思いこんで、一日路を行ってしまい、それから、親族や知人の中を捜
しはじめたが、見つからないので、捜しまわりながらエルサレムへ引返し
た。そして三日の後に、イエスが宮の中で教師たちのまん中にすわって、
彼らの話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞く人々はみ
な、イエスの賢さやその答に驚嘆していた。両親はこれを見て驚き、そし
て母が彼に言った、「どうしてこんな事をしてくれたのです。ごらんなさ
い、おとう様もわたしも心配して、あなたを捜していたのです」。すると
イエスは言われた、「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の
父の家にいるはずのことを、ご存知なかったのですか」。しかし、両親は
その語られた言葉を悟ることができなかった。それからイエスは両親と一
緒にナザレに下って行き、彼らにお仕えになった。母はこれらの事をみな
心に留めていた。イエスはますます知恵が加わり、背たけも伸び、そして
神と人から愛された。

ガラテヤ書6章1〜18節

兄弟たちよ、もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の
人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと
同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しな
さい。互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの
律法を全うするであろう。もしある人が、事実そうでないのに、自分が何
か偉い者であるように思っているとすれば、その人は自分を欺いているの
である。ひとりびとり、自分だけには誇ることができても、ほかの人には
誇れなくなるであろう。人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである。
御言を教えてもらう人は、教える人と、すべて良いものを分け合いなさい。
まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のま
いたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉か
ら滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろ
う。わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまない
でいると、時が来れば刈り取るようになる。だから、機会あるごとに、だ
れに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。ごら
んなさい。わたし自身いま筆をとって、こんなに大きい字で、あなたがた
に書いていることを。いったい、肉において見えを飾ろうとする者たちは、
キリスト・イエスの十字架のゆえに、迫害を受けたくないばかりに、あな
たがたにたいして割礼を受けさせようとする。事実、割礼のあるもの自身
が律法を守らず、ただ、あなたがたの肉について誇りたいために、割礼を
受けさせようとしているのである。しかし、わたし自身には、わたしたち
の主イエス・キリストの十字架につけられて、この世はわたしたちに対し
て死んでしまったのである。割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新し
く造られることこそ、重要なのである。この法則に従って進む人々の上に、
平和とあわれみとがあるように、また、神のイスラエルの上にあるように。
だれも今後は、わたしに煩いをかけないでほしい。わたしは、イエスの焼
き印を身に帯びているのだから。兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キ
リストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アァメン。

ルカによる福音書2章21〜40節

八日が過ぎ、割礼をほどこす時になったので、受胎のまえに御使が告げた
とおり、幼な子をイエスと名づけた。それから、モーセの律法による彼ら
のきよめの期間が過ぎたとき、両親は幼な子を連れてエルサレムへ上った。
それは主の律法に「母の胎を初めて開く男の子はみな、主に聖別された者
と、となえられねばならない」と書いてあるとおり、幼な子を主にささげ
るためであり、また同じ主の律法に、「山ばと一つがい、または、家ばと
のひな二羽」と定めてあるのに従って、犠牲をささげるためであった。そ
の時、エルサレムにシメオンという名の人がいた。この人は正しい信仰深
い人で、イウラエルの慰められるのを待ち望んでいた。また聖霊が彼に宿
っていた。そして主のつかわす救主に会うまでは死ぬことはないと、聖霊
の示しを受けていた。この人が御霊に感じて宮にはいった。すると律法に
定めてあることを行うため、両親もその子イエスを連れてはいってきたの
で、シメオンは幼な子を腕に抱き、神をほめたたえて言った、「主よ、今
こそ、あなたはみ言葉のとおりにこの僕を安らかに去らせてくださいます、
わたしの目が今あなたの救いを見たのですから。この救はあなたが万民の
まえにお備えになったもので異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄
光であります」。父と母は幼な子についてこのように語られたことを、不
思議に思った。するとシメオンは彼らを祝し、そし母マリヤに言った、
「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立
ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められて
います。そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。それ
は多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」。また、アセ
ル族のバヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。彼女は非常に年を
とっていた。むすめの時代にとついで、七年間だけ夫と共に住み、その後
やもめぐらしをし、八十四歳になっていた。そして宮を離れずに夜も昼も
断食と祈りとをもって神に仕えていた。この老女も、ちょうどそのとき近
寄ってきて、神に感謝をささげ、そしてこの幼な子のことを、エルサレム
の救いを待ち望んでいるすべての人々に語りはじめた。両親は主の律法ど
おりすべての事をすませたので、ガリラヤへむかい、自分の町ナザレに帰
った。幼な子は、ますます成長して強くなり、知恵に満ち、そして神の恵
みがその上にあった。

ルカによる福音書2章1〜20節

そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。
これは、クレニオがシリヤの総督であった時に行われた最初の人口調査で
あった。人々はみな登録をするために、それぞれ自分の町へ帰って行った。
ヨセフもダビデの家系であり、またその血統であったので、ガラリヤの町
ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。そ
れは、すでに身重になっていたいいなづけの妻マリヤと共に、登録をする
ためであった。ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤ
は月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客
間には彼らのいる余地がなかったからである。さて、この地方で羊飼たち
が夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。すると主の御使が現れ、主
の栄光が彼らをめぐり照らしたので、彼らは非常に恐れた。御使は言った、
「恐れるな、見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに
伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生まれになっ
た。このかたこそ主なるキリストである。あなたがたは、幼な子が布にく
るまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなた
がたに与えられるしるしである」。するとたちまち、おびただしい天の軍
勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、「いと高きところ
では、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があ
るように」。御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、
ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようでは
ないか」と、互いに語り合った。そして急いで行って、マリヤとヨセフ、
また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。彼らに合った上で、こ
の子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた。人々はみな、
羊飼たちが話してくれたことを聞いて、不思議に思った。しかし、マリヤ
はこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。羊飼たちは、
見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神を
あがめ、またさんびしながら帰って行った。

マタイによる福音書2章1〜12節

イエスがヘロデ王の代に、ユダのベツレヘムでお生まれになったとき、見
よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、「ユダヤ人の王と
してお生まれになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方
でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。ヘロデ王はこのこと
を聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。そこで
王は祭司長と民の律法学者達とを全部集めて、キリストはどこに生まれる
のかと、彼らに問いただした。彼らは王に言った、「それはユダヤのベツ
レヘムです。預言者がこうしるしています、『ユダの地、ベツレヘムよ、
おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない、おまえの
中からひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう』」。
そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、星の現れた時について詳し
く聞き、彼らをベツレヘムにつかわして言った、「行って、その幼な子の
ことを詳しく調べ、見つかったらわたしに知らせてくれ、わたしも拝みに
行くから」。彼らは王のいうことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方
で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にと
どまった。彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。そして、家には
いって、母マリヤのそばにいる幼子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の
箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。そして、夢でヘ
ロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の
国へ帰って行った。

コリント人への第二の手紙1章1〜7節

神の御旨によりキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟テモテか
ら、コリントにある神の教会、ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒た
ちへ。わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、
あなたがたにあるように。ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリス
トの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。神は、いかなる患難
の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、
神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰
めることができるようにして下さるのである。それは、キリストの苦難が
わたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、
キリストによって満ちあふれているからである。わたしたちが患難に会う
なら、それはあなたがたの慰めと救とのためであり、慰めを受けるなら、
それはあなたがたの慰めのためであって、その慰めは、わたしたちが受け
ているのと同じ苦難に耐えさせる力となるのである。だから、あなたがた
に対していだいているわたしたちの望みは、動くことがない。あなたがた
が、わたしたちと共に苦難にあずかっているように、慰めにも共にあずか
っていことを知っているからである。

ローマ人への手紙12章1〜21節

兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。
あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささ
げなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがた
は、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、
作りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、か
つ全きことであるかを、わきまえて知るべきである。わたしは、自分に与
えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を
越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量
りにしたがって、慎み深く思うべきである。なぜなら、一つのからだにた
くさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしていないように、
わたしたちも数は多いがキリストにあって一つのからだであり、また各自
は互いに肢体だからである。このように、わたしたちは与えられた恵みに
よって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であ
れば、信仰の程度に応じて預言をし、奉仕であれば奉仕をし、また教える
者であれば教え、勧める者であれば勧め、寄付する者は惜しみなく寄付し、
指導する者は熱心に指導し、慈善する者は快く慈善をするべきである。愛
には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、兄弟の
愛をもって互いにいつくしみ、進んで互いに尊敬し合いなさい。熱心で、
うむことなく、霊に燃え、主に仕え、望みをいだいて喜び、患難に耐え、
常に祈りなさい。貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい。あな
たがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。喜
ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。互いに思うことをひとつにし、
高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分を知
者だと思いあがってはならない。だれに対しても悪を持って悪に報いず、
すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての
人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ、自分で復讐をしないで、むし
ろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしの
することである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。むし
ろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ま
せなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積
むことになるのである」。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって
悪に勝ちなさい。

ヨハネによる福音書1章1〜18節

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初め
に神と共にあった。すべてのものは。これによってできた。でたもののう
ち。一つとしてこれによらないものはなかった。この言は命であった。そ
してこの命は人の光であった。光はやみの中で輝いている。そして、やみ
はこれに勝たなかった。ここにひとりの人があって、神からつかわされて
いた。その名をヨハネと言った。この人はあかしのためにきた。光につい
てあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。彼は光ではな
く、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。すべての人を照
らすまことの光であって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によ
ってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきた
のに、自分の民は彼を受けいれなかった。しかし、彼を受けいれた者、す
なわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよら
ず、ただ神によって生まれたのである。そして言は肉体となり、わたした
ちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子と
しての栄光であった。めぐみとまことに満ちていた。ヨハネは彼について
あかしをし、叫んで言った「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりす
ぐれたかたである。わたしよりも先におられたかたである』とわたしが言
ったのは、この人のことである」。わたしたちすべての者は、その満ち満
ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。律法はモー
セをとおして与えられ、めぐみとまことは、イエス・キリストをとおして
きたのである。神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにい
るひとりの子なる神だけが、神をあらわしたのである。

ピリピ人への手紙2章1〜11節

そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、
熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、どうか同じ思いとなり、同
じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たし
てほしい。何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもっ
て互いに人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばか
りではなく、他人のことも考えなさい。キリスト・イエスにあっていだい
ているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。キリスト
は、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思
わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿にな
られた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、し
かも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引
き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜った。それは、イエスの御名によ
って、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざを
かかめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白し
て、栄光を父なる神に帰するためである。

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