説     教           イザヤ書1115節  ヨハネ黙示録191116

                  「忠実にして真実なる者」 ヨハネ黙示録講解〔64

                   2026・01・11(説教26022153

 

(11)またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。それに乗っているかたは、『忠実で真実な者』と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。(12)その目は燃える炎であり、その頭には多くの冠があった。また、彼以外にはだれも知らない名がその身にしるされていた。(13)彼は血染めの衣をまとい、その名は『神の言』と呼ばれた。(14)そして、天の軍勢が、純白で、汚れのない麻布の衣を着て、白い馬に乗り、彼に従った。(15)その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。(16)その着物にも、そのももにも、『王の王、主の主』という名がしるされていた」。

 

旧約聖書の箴言の206節に「自分は真実だという人が多い、しかし、だれが忠信な人に会うであろうか」という御言葉がございます。この「真実」とは人間(つまり対人関係)における真実さをあらわし、次の「忠信」とは主なる神に対する真実さ(つまり信仰)を意味する言葉です。どういうことかと申しますと、この世間にはいろいろな人がいて、そのうちの少なからぬ人々が「私は真実な人間です」(私は、嘘をつきません、約束を守ります、人の迷惑になることはしません、等々)と言うというのです。しかし、そのように言う人がたとえ数多くいたとしても、まことの神を信ずる人というのは本当に少ないではないか。人に対して真実であるという人はいても、主なる神に対して真実である人は本当に少ないではないか。そういうことを箴言の預言者は明言しているわけです。

 

 そこで、今朝の御言葉であるヨハネ黙示録19章の11節にも、これとほぼ同じことが告げられているのです。「(11)またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。それに乗っているかたは、『忠実で真実な者』と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである」。ここにあります「忠実で真実な者」というのは、箴言の206節とは言葉の順序が逆なだけで、言われていることは同じ意味です。つまり「神に対して忠実であり、同時に人に対しても真実である者」という意味の言葉です。この2つのことは両立する、と申しますよりも、神に対して忠実である者(まことの信仰者である者)のみが、人に対しても常に真実であり続けることができるのです。

 

 このような感覚は、実は日本人にはあまり馴染みがないもの(苦手なもの)かもしれません。たとえば日本人がヨーロッパなどに参りまして「あなたの宗教は何ですか?」と訊ねられたとき、少なからぬ人が「私は無宗教です」と答えてしまうのです(葬式仏教だし、初詣には行くけれど神道を信じているというわけでもない)。すると何が起こるかと申しますと、その人はその瞬間から全く信用されなくなってしまう。ヨーロッパ的なキリスト教の伝統から観るなら「私は無宗教です」ということは「私は道徳的人格を持っていません」と言うことと同じ意味に聞こえるからです。道徳的人格(Moral personality)をはなから否定するような人間と、どうして約束事が、取引が、契約が、できるだろうかと思われてしまうのです。これは、良い悪いの問題ではありません。まさにいまここに集うている私たちへの問いかけであると同時に、さらにそれ以上に、今朝の御言葉の12節と13節が如実に物語っているように、それは「あなたはいま、十字架と復活の主イエス・キリストの贖いの恵みの内に、いつも堅く留まった生活をしていますか?」という根源的な問いかけであるからです。

 

 「あなたはいま、十字架と復活の主イエス・キリストの贖いの恵みの内に、いつも堅く留まった生活をしていますか?」。まさにこれこそが「忠実で真実な者」であり続けることだと、今朝のヨハネ黙示録1911節以下の御言葉は私たち一人びとりにはっきりと告げているのです。まず、天が開かれ、白馬に乗ったかたが私たちの眼前に現れます。この白馬はキリストの御身体なる教会の恵みの権能をあらわし、それに乗って「教会のかしら」となられるかたは十字架と復活の主イエス・キリストにほかなりません。このかたのみが、ニカイア信条に告白されているように「まことの神にして、まことの人となられた」唯一のおかたですから「義によってさばき、また、戦うかた」なのです。すなわち、この世界と歴史全体を救うために、あのゴルゴタの呪いの十字架におかかり下さった唯一の贖い主なのです。「義によってさばき」とは「十字架による救い」を意味するからです。

 

 そこで改めて、私たちが心に留めるべきことは「忠実で真実な者」とは十字架と復活の主イエス・キリストの御名(称号)であるということです。言い換えるなら、私たちは計り知れない罪ある存在でありまして、たとえどんなに努力精進しても「忠実で真実な者」になることはできないのです。比叡山の千日回峰行というのは世界でもトップレベルの難行苦行だそうですけれども、それを成し遂げた人(北嶺萬行大阿闍梨)でさえ罪を犯さない人になることはできないのです。(坂井雄哉という人が語っていました、自分は大阿闍梨になって本当に罪の恐ろしさを知ったと)人間というのはそういうものです。つまり、私たちはどんなに努力精進しても「忠実で真実な者」になることはできないのです。できたと思うのはそういう幻想に捕らわれているだけです。使徒パウロが言うように「ああわれ悩める人なるかな、この罪の身体より我を救いたまえる者は誰ぞや?」というのが、私たち人間の本当の偽らざる姿なのです。

 

 私にひとつの思い出があります。東京の教会におりました時のことです。ある男性の求道者のかたがおられまして、ほとんど毎週、休むことなく礼拝に出席していらして、それは良かったのですけれども、あるときこのかたが礼拝後に「先生、おりいって相談したいことがあるのですが」とおっしゃるのです。「はい、なんでしょうか?」と申してお話を聞きますと、こういうことでした。自分は洗礼を受けたいと思うのだけれども、実はひとつのことがどうしても心に引っかかって、それで決断ができずにいる、それが解決したならぜひとも洗礼を受けさせてて頂きたいのです」と言われるのです。それは何かと申しますと「聖書では(また私の説教の中でも)人間は罪人である、と言われているが、私は生まれてきてこのかた、ただの一度たりとも、人様に後ろ指をさされるようなことをした覚えはありません。このような私でも、聖書は(先生は)罪人だとおっしゃるのでしょうか?」。

 

 私はこれを聞きまして、ああ、なんて正直で清廉潔白なかただろうと、心の底から思いました。事実そうなんです、とても立派なかたなのです。しかし私は牧師です、福音のみを語るのが務めですから(そこにしか全ての人の救いは無いのですから)このように申し上げました。「はい、あなたはいまご自分が『生まれてきてこのかた、ただの一度たりとも、人様に後ろ指をさされるようなことをした覚えはない』とおっしゃいました。では、その「人様」を「神様」に変えてみて下さい。それでもあなたは、同じように言えますか?」。このかたは黙って5分ぐらい考えておられましたが、やがて「できません」とおっしゃいました。そしてこうも言われました「よく、わかりました。ありがとうございます。私は洗礼を受けさせて頂きます」と。

 

「自分は真実だという人が多い、しかし、だれが忠信な人に会うであろうか」そのとおりではないでしょうか。そして、私たちは今朝のヨハネ黙示録の御言葉を通して、明確に知らされているのではないか。「忠実で真実な者」それは十字架と復活の主イエス・キリストのみであると。私たちを罪から贖い、新しい復活の生命を与え、御国の民(天に国籍ある者)として下さるために、主イエス・キリストは(主イエス・キリストのみが)あのゴルゴタの丘の上で、私たち全ての者の罪を一身に担われて、十字架の死を死んで下さったのです。それはいみじくもルターが語りましたように「死の死」としての唯一絶対の死でした。だからこそ、このおかたの「着物にも、ももにも(脛あてにも)「王の王、主の主」という御名が記されているのです。まさに十字架と復活の主イエス・キリストのみが「忠実で真実な者」そして「王の王、主の主」として、私たち全ての者たちの、そしてこの世界と歴史全体との、唯一のまことの救い主であられるのです。

 

 私たちはこのかたの贖いの恵みの内に、いつも堅く留まった生活をして参りたいと思います。救いは私たちの中にではなく(この世界の中にですらなく)ただ世界万物を創造せられた神の永遠の御子イエス・キリストの、十字架による贖いの御業の内にのみあるからです。ただ主にのみ栄光あらんことを。祈りましょう。