説     教             詩篇10015節  ヨハネ黙示録19610

                   「イエスの証」 ヨハネ黙示録講解〔63

                   2026・01・04(説教26012152

 

新しい主の年2026年を迎えました。この新しい年の最初の主日礼拝におきまして、私たちに与えられております福音の御言葉はヨハネ黙示録196節以下です。最初の6節から終りの10節までを、改めて読んでみましょう。

 

(6)わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものを聞いた。それはこう言った、『ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。(7)わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。(8)彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである』。(9)それから、御使はわたしに言った、『書きしるせ。小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである』。またわたしに言った、『これらは、神の真実の言葉である』。(10)そこで、わたしは彼の足もとにひれ伏して、彼を拝そうとした。すると、彼は言った、『そのようなことをしてはいけない。わたしは、あなたと同じ僕仲間であり、またイエスのあかしびとであるあなたの兄弟たちと同じ僕仲間である。ただ神だけを拝しなさい。イエスのあかしは、すなわち預言の霊である』」。

 

 特に最後の10節に「イエスのあかし」という御言葉が出てきます。今朝の説教題にもいたしましたが、私たちは「イエスのあかし」と聞いたとき、必ずしも「ああ、これはわかりやすい言葉だ」とは感じないのではないでしょうか。たとえば「イエスの御業」と言うのだったらいっそわかりやすいでしょう。あるいは「イエスの言葉」だったらさらにわかりやすいでしょう。しかし今朝の10節には「イエスのあかしびとであるあなたの兄弟たち」という言葉と同時に「イエスのあかし」という御言葉が語られているのです。これを、私たちはどのように理解したら良いのでしょうか。「イエスのあかし」とは、どのような意味なのでしょうか。

 

 これを読み解く大きな鍵は10節の最後の御言葉です。すなわち「イエスのあかしは、すなわち預言の霊である」とあることです。この「預言」とは説教のわざのことを意味しています。すでに皆さんにも幾度となくお伝えしてきたことですけれども、初代教会においては「牧師」は「預言者」と呼ばれ「説教」は「預言」と呼ばれていたのです。なぜなら、言葉の最も厳密な意味において「預言」とは、神の御言葉(福音)を全ての人に宣べ伝える教会の務めを意味したからです。ですから教会はしばしば「預言者の家」と呼ばれました。そこに行けば、誰もが、分け隔てなく、たしかな救いの言葉を(十字架と復活の主イエス・キリストの福音を)聴くことができるからです。「教会」という言葉ができたのはそれから数十年後のことでした。ですから今朝の10節の最後には「イエスのあかしは、すなわち預言の霊である」とありますように、この「預言」(すなわち毎週の主日礼拝の説教におきましては)聖霊によって現臨したもう主イエス・キリストによる救いの御業のみが宣べ伝えられます。「預言の霊」という言葉がとても大切なのです。この「霊」とは説教を説教たらしめる聖霊の御業を言い表しているからです。

 

 いみじくも宗教改革者ブリンガーが語りましたように「聖霊によって語られる神の言葉の説教は、すなわち神の言葉」なのです。すると、そこに何が起こるかと申しますと、それこそ今朝の御言葉の9節と10節に宣べ伝えられていたように、神の御言葉(すなわちイエスのあかしをする説教)の前には、全ての人が同じ「僕仲間」なのです。さらに申しますなら「小羊の婚宴」に招かれた人々はみな等しく「僕仲間」であり「ただ神のみを拝すべき」なのです。そこには人間的な栄光が入り込むいかなる隙間もないのです。礼拝において、聖霊によって、生ける神の御言葉が(救いの福音が)正しく真実に宣べ伝えられるとき、その御言葉(すなわちイエスのあかし)の前には全ての人がただ神にのみ栄光を帰したてまつるのです。逆に申しますなら、そのような礼拝にならず、人間的な栄光が入り込む隙間があるとしたなら、そのような教会はもはや「預言者の家」とは呼ばれないのです。同時に牧師も「預言者」とは呼ばれえないのです。

 

 私事ですみませんが、私は正月2日の昼ごろからかなり酷い風邪に罹ってしまいまして、昨日はこの説教の原稿も無事に準備ができるだろうかと危ぶんだほど体調が悪かったのでした。しかしながら、説教の準備をしていて、改めて気がついたことは、ああ、説教の御業は(預言の霊によってイエスのあかしをなす説教の御業は)私にとって根源的な喜びであり幸いなのだということでした。つまり、説教原稿の準備をしていて、肉体的にはとても辛かったのですが、精神的には(あるいは霊的には、と言うべきでしょうか)それは私にとって根源的な喜びであり続けているのであって、なにが言いたいかと申しますと、説教原稿を書くことは全く、風邪の影響を受けなかったのです。このことを改めて示されたことは、私にとって大きな感謝でありました。

 

 先を急ぎましょう。「イエスのあかし」とは端的に何であるか?ということです。それは、私たちと全世界、そして全歴史の救いのために、主なる神が、御子イエス・キリストを通して(聖霊によっていまここに現臨したもう十字架と復活の主イエス・キリストの御業によって)私たち全ての者たちが、生ける福音の真理の御言葉の前に「同じ僕仲間とされている」喜びと幸いです。ですから道元禅師の言葉を借りるならば「御言三昧・只管礼拝」(福音の御言葉によって満たされて、心ゆくまでひと筋に礼拝者であり続けること)です。この志と決意を新たにいたしまして、どうか私たちは新しい主の年2026年をご一緒に歩んで参りたいと思います。私たちの葉山教会が「預言者の家」であります限り、私たちを脅かす罪と死は、もはやなんの力も持ちえないからです。私たちは「小羊の婚宴に招かれた者たち」です。主が私たち全ての者の、唯一の永遠の贖い主にいましたもうのです。祈りましょう。