説 教 詩篇134篇1−3節 ヨハネ黙示録19章1−5節
「神を讃めまつれ」ヨハネ黙示録講解〔62〕
2025・12・28(説教25522151)
「(1)この後、わたしは天の大群衆が大声で唱えるような声を聞いた、『ハレルヤ、救と栄光と力とは、われらの神のものであり、(2)そのさばきは、真実で正しい。神は、姦淫で地を汚した大淫婦をさばき、神の僕たちの血の報復を、彼女になさったからである』。(3)再び声があって、『ハレルヤ、彼女が焼かれる火の煙は、世々限りなく立ちのぼる』と言った。(4)すると、二十四人の長老と四つの生き物とがひれ伏し、御座にいます神を拝して言った、『アァメン、ハレルヤ』。(5)その時、御座から声が出て言った、『すべての神の僕たちよ、神をおそれる者たちよ。小さき者も大いなる者も、共に、われらの神をさんびせよ』」。
ヨハネ黙示録のたいへん優れた注解書を著したドイツの新約聖書学者エルンスト・ローマイヤーは、今朝お読みしたヨハネ黙示録19章1節から5節の御言葉について「ここにヨハネ黙示録全体のひとつの中心がある」と語っています。その理由としてローマイヤーが指摘しておりますのは、特に今朝の4節に「すべての神の僕たちよ、神をおそれる者たちよ。小さき者も大いなる者も、共に、われらの神をさんびせよ」という御言葉があるからです。「ここにこそ、私たち全ての者の救いがある」とローマイヤーは語っています。それで、今朝の説教題を「神を讃めまつれ」といたしましたけれども、それはまさにこの5節の「われらの神をさんびせよ」の文語訳だからです。5節全体を文語訳で読みますならばこうなります。「また御座より声出でて言ふ『すべて神の僕たるもの、神を畏るる者よ、小なるも大なるも、我らの神を讃め奉れ』」。
私たちはどうでしょうか?「すべて神の僕たるもの…我らの神を讃め奉れ」と聞きまして「ここにこそ、私たち全ての者の救いがある」と聴いて、実感が湧くでしょうか?。あるいは、実感が湧くような信仰生活を、私たちはしてきたと言えるでしょうか?。私の神学校時代の同級生に関川泰寛君というのがいます。東京神学大学で教理史などを教えていた人ですが、彼があるとき「日本の教会に最も欠如しているもの、それは頌栄性である」と語ったことがありまして、私はそれを聴いてハッとさせられた記憶があるのです。「日本の教会に最も欠如しているもの、それは頌栄性である」どういう意味かと申しますと、まさにローマイヤーが指摘しておりましたように「すべて神の僕たるもの…我らの神を讃め奉れ」この御言葉に心の底から「アーメン」と唱和できる信仰生活を、私たちがいましているだろうかという問いなのです。
逆に申しますなら、私たちは「救い」と聞きますと、それは「この私の心の中で起こる事柄」だと考えてしまいやすいのです。いわゆる「精神作用」というやつですね。もっと平たく申しますなら「気の持ちよう」如何によって、救われているような気もするし、そうではないような気もする、そうしたいわば自分中心の(自分の心中心の)信仰生活というものに、私たちはいつの間にかなってしまっていることはないでしょうか?。日本語の「心」という言葉は「ころころ」に由来しているという説があります。一か所に留まらず、ボールがコロコロと転がるように、私たちの心もまた、日ごとに変化するものだ(不安定きわまりないものだ)という意味です。では、そのような「自分の心中心」の信仰生活というものに、本当に救いがあるのでしょうか?。救いの確かな根拠(理由)というものがあるのでしょうか?。答えは「否」でありましょう。ころころと日々変転する私たちの心に、私たちの救いの根拠を置くわけにはいかないのです。
そうではなくて、今朝の黙示録19章1節から5節の御言葉は、私たち全ての者に「あなたの救いの根拠は、まさに十字架の主イエス・キリストにのみあるのだ」と告げているのです。もっと言うなら「あなたの救いの根拠は、あなた自身の内側には微塵もないのだ」ということです。そうではなくて「ただ十字架と復活の主イエス・キリストの御業にこそ、あなたの救いの全てがあるのだ」と告げているのが今朝の御言葉なのです。そのことを少し丁寧に考えてみましょう。5節には(文語訳でお読みしますが)「すべて神の僕たるもの、神を畏るる者よ、小なるも大なるも、我らの神を讃め奉れ」とございました。この「神の僕」また「神を畏るる者」というのは、私たちの心の中の状態のことをさしているのではありません。そうではなくて、ただ十字架と復活の主イエス・キリストをさし示しているのです。なぜなら、私たち罪人のかしらなる存在が「神の僕」となりうるのも、または「神を畏るる者」となりうるのも、それはひとえに、私たちの測り知れない罪を担って、あのゴルゴタの呪いの十字架にかかって下さった、神の永遠の御子イエス・キリストの救いの御業によることだからです。
言い換えるならば、こういうことです。いまの私たちの心の中の状態が(精神作用が)どのようなものであろうとも(落ちこんでいようとも、ハイになっていようとも)そのようなことは「あなたの救い」にとっては何の問題でもないということです。そうではなくて、大切なことはただひとつなのです。測り知れない罪人のかしらでしかなかった私たちの(まさにあなたの)救いのために、神の永遠の御子イエス・キリストは、あのベツレヘムの馬小屋に(この世界で最も寒く、低く、暗く、貧しい場所に)お生まれになり、そしてあのゴルゴタの丘において、全ての者の救いのために呪いの十字架におかかり下さって、私たちのために、御自分の全てを献げ抜いて下さった事実、ただその「主イエス・キリストの救いの事実」だけが大切なのです。
まさしくローマイヤーが語っているように「ここにこそ、私たち全ての者の救いがある」のです。関川君の言葉を借りて申しますなら「頌栄性の回復」こそが大切なのです。自分中心の信仰生活ではなく(それをかなぐり捨てて)キリスト中心の信仰生活へと私たちは変えられなければなりません。自分自身の心を中心とした信仰生活ではなく、ただ十字架と復活の主イエス・キリストのみを中心とする信仰生活へと進んで参らねばなりません。さらに申しますなら、私たちの内側には救いの根拠など微塵もないのです。探すこと自体が無意味なのです。救いも、悟りも、平安も、確かさも、新しさも、何ひとつとして私たちの内側には無いのです。私たちがそこで見出すのは、讃美歌244番の歌詞にありますように「行けども行けどもただ砂原、道なきところをひとり辿る」という絶望的な現実だけです。
それならば、まさにその私たちの必然的な絶望的な現実のただ中に、ただ十字架と復活の主イエス・キリストのみが、救いの御言葉を語って下さいます。それは今朝の御言葉の1節にございました「ハレルヤ、救と栄光と力とは、われらの神のものであり、そのさばきは、真実で正しい」という宣言です。ここに何とありますか?「ハレルヤ、救と栄光と力とは、われらの神のものである」なのです。どこにも「あなたの中にあなたの救いがある」と語ってはいないのです。そして主イエス・キリストは、まさにこの1節の御言葉を、私たちとこの歴史全体の救いのために、現実のものとして下さるために、あのゴルゴタの呪いの十字架を担われ、文字どおり「審きとしての罪人の永遠の死」を御自身のものとして死んで下さったのです。私たちを罪と死から贖って救い、私たちに新しい復活の永遠の生命を与えて下さるために、神の永遠の独子が、決して死ぬことのない唯一のおかたが、あの十字架において永遠の死を死んで下さった。
まさにその十字架の出来事によって、今朝の5節にございました「すべて神の僕たるもの、神を畏るる者よ、小なるも大なるも、我らの神を讃め奉れ」この喜びと幸いを、救われた者たちの感謝と讃美の歌声を、ここに集う私たち全ての者たちにも与えて下さったのです。御自身の十字架の恵みの確かさをもって「これは、この神の僕、神を畏るる者とは、まさにあなたのことなのだよ」とはっきりと、語り告げていて下さるのです。まさにこの救いの恵みのうちに、私たちはこの2025年の最後の日々をともに過ごし、そして4日後には新しい主の年2026年を、まさに「主の年」として、ともに迎える幸いを与えられているのです。祈りましょう。