説     教         エレミヤ書515051節  ヨハネ黙示録181124

                   「神の審きと救い」ヨハネ黙示録講解〔61

                   2025・12・14(説教25502149

 

(11)また、地の商人たちも彼女のために泣き悲しむ。もはや、彼らの商品を買う者が、ひとりもないからである。(12)その商品は、金、銀、宝石、真珠、麻布、紫布、絹、緋布、各種の香木、各種の象牙細工、高価な木材、銅、鉄、大理石などの器、(13)肉桂、香料、香、におい油、乳香、ぶどう酒、オリブ油、麦粉、麦、牛、羊、馬、車、奴隷、そして人身などである。(14)おまえの心の喜びであったくだものはなくなり、あらゆるはでな、はなやかな物はおまえから消え去った。それらのものはもはや見られない。(15)これらの品々を売って、彼女から富を得た商人は、彼女の苦しみに恐れをいだいて遠くに立ち、泣き悲しんで言う、(16)『ああ、わざわいだ、麻布と紫布と緋布をまとい、金や宝石や真珠で身を飾っていた大いなる都は、わざわいだ。(17)これほどの富が、一瞬にして無に帰してしまうとは』…(中略)(20)天よ、聖徒たちよ、使徒たちよ、預言者たちよ。この都について大いに喜べ。神は、あなたがたのために、この都をさばかれたのである」。

 

 待降節(アドヴェント)3主日の礼拝を迎えました。使徒たちの初代教会の時代から、特にこのクリスマスを直前に控えた「待降節3週」は「深い悔い改めの期間」として過ごされて参りました。21世紀の、良くも悪くも近代化した現代の私たちキリスト者にとっては、アドヴェントが「深い悔い改めの期間」だと聞いても「それがいったい何ですか?」という感じなのかもしれません。しかし、どうかそこでこそ改めて、今朝のヨハネ黙示録1811節以下の御言葉に思いを致したいのです。今朝のこの御言葉には当時のローマ帝国の都ローマの滅亡の預言です。18章の10節を見ますと「ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ、おまえに対するさばきは、一瞬にしてきた」と記されています。この「わざわいだ」というのは「限りなく不幸だ」という意味です。かつて紀元前4世紀に大帝国バビロニアがそれこそ「一瞬にして」滅ぼされたように「大いなる都、不落の都」と称されたローマもまた、同じような滅亡の道を辿らざるをえないであろう。だからこそ「おまえはわざわいだ=限りなく不幸だ」と、黙示録の著者である主イエスの使徒ヨハネによって宣べ伝えられているのです。

 

 そこで、問題は、私たちのこの世界、私たちの生きているこの歴史的現実世界というものは、神に対するみずからの罪の結果として「限りなく不幸=わざわい」であることは紛れもなく事実なのですけれども、では問題は、その「限りなく不幸」なままで良いのだろうか?ということではないでしょうか。なるほど古来、この世界史(歴史)において、数知れぬ多くの国々が、多くの支配者たちが、興っては倒れ、倒れてはまた興り、とめどもなき栄枯衰勢の理(ことわり)を現わしつつ、人間の知恵と力のありったけを駆使しつつ、試行錯誤を繰り返しつつ、今日に至ってきたわけでありますけれども、では本質的な問題は、そのような栄枯衰勢の理を現わすこの歴史そのもの(現実世界そのもの)は、ついには滅びてしまうほかないもの(つまり、わざわいなるもの)なのであろうか?という問題なのではないでしょうか。言い換えるならば、それはただ単に抽象的な(絵に描いたような)出来事なのではなくて、いまここに生きる私たち一人びとりの救いと真の幸い(真の生命)そのものに直結した問題なのではないでしょうか。

 

 そこで、改めて私たちが心に留めるべき御言葉は、今朝のヨハネ黙示録18章の20節なのです。そこにこのようにございました「(20) 天よ、聖徒たちよ、使徒たちよ、預言者たちよ。この都について大いに喜べ。神は、あなたがたのために、この都をさばかれたのである」。驚くべきことが宣べ伝えられています。なんと、天は、天だけではない、聖徒たち(十字架と復活の主イエス・キリストの御身体なる教会に連なって生きる私たちは)そして使徒たちも預言者たちも、つまり、新約聖書と旧約聖書にともに証しされている救いの歴史においては、神からの審きこそは「大いに喜ぶべきこと」なのだという音信なのです。「大いなる都、不落の都」と称されたローマもまた「一瞬にして滅びる時を迎えるであろう」。ローマだけではない、かつての大バビロニア帝国と同様に、この歴史における栄枯衰勢の中に現れた全ての国々、すべての権威権力は「一瞬にして滅びる時を迎えるであろう」。しかしそこでこそ、あなたは「大いに喜びなさい」と天使は告げるのです。なぜでしょうか?。なぜなら「神の審きこそは限りなき救いそのもの」だからです。

 

 もう一度申します「神の審きこそは限りなき救いそのもの」なのです。どうしてでしょうか?。そこには2つの大切な意味があります。まず第一に、神の審きは全ての人の救いのための審きなのです。つまり、それは常に「審きのための審き」ではなく「救いのための審き」なのです。いつかもお話したことかもしれませんが、私は33歳の時に汎発性腹膜炎という病気で緊急手術を受けたことがありました。かなり危険な状況でした。しかし担当してくれた医師たちの迅速かつ懸命な、適切な治療によって、一命をとりとめることができました。そのときに深く感じたのは、手術というのはそれ自体としてみるなら実に惨たらしいわざです。外科医の世界に「鬼手仏心」というのがあるそうですが、本当にその通りだと感じました。そしてその「鬼手」とも言うべき惨たらしい手術のわざは、ただひとえにその患者の治療のためなのです。それと同じように、否、それより遥か以上に、主なる神がなしたもう罪に対する審きというものは、まさにかけがえのない、愛する私たちの「救い」のためなのではないでしょうか。

 

ですから同じ新約聖書のへブル人への手紙125節以下には、このように告げられています。「(5)わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。(6)主は愛する者を訓練し、受け入れるすべての子を、むち打たれるのである。(7)あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか…(11)すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」。

 

 第二に、これこそ旧約と新約の両方を貫いている福音の音信の本質なのですけれども、主なる神はその審きを、御自身の永遠の御子であられる主イエス・キリストを通して世界に(歴史に)現わされたということです。このことをカール・バルトという神学者は教会教義学という本の中で「神は御子イエス・キリストにおいて歴史そのものを審きたもうた」と語っています。どういうことかと申しますと、主イエス・キリストは(ただ主イエス・キリストのみが)私たち全ての者の罪とその結果としての永遠の滅びを一身に担って下さって、あのゴルゴタの丘で呪いの十字架におかかりくださったという事実です。それは同時に、この歴史全体を罪の支配から贖うためでした。言い換えるならば、罪と死によって支配され、滅びへの道を歩んでいた世界史の流れそのものが、あのゴルゴタの十字架によって、救いと救いの完成への道へと変えられたのです。それが聖書全体が人類に語り告げている福音の本質なのです。だからこそカール・バルトは「神は御子イエス・キリストにおいて歴史そのものを審きたもうた」と語ったのです。この「審き」こそ「歴史全体の救い」だからです。今朝の説教題を「神の審きと救い」といたしましたけれども、バルト的に言い換えるならばむしろ「神の審きこそ救いそのもの」なのです。

 

 来週21()には私たちは降誕節(クリスマス)礼拝を迎えるわけでありますが、ここでもどうか改めて心に留めていただきたいのです。なぜ御子イエス・キリストは、ベツレヘムの馬小屋に、つまり、世界で最も低く、暗く、貧しく、寒いところに、お生まれ下さったのでしょうか?。その理由は、このかたこそ、このかただけが、私たち人間の(そして歴史全体の)どん底にまで降りて来て下さった、唯一のまことの救い主であられるからです。既にクリスマスの出来事の中に、主が私たち全ての者の救いのために担い取って下さった「神の審き」が現わされているのです。どん底にある者たち(罪と滅びの中にある全ての者たちと、その歴史全体)を救うために、永遠の神の唯一の御子なる主イエス・キリストは、まさにどん底にお生まれ下さったおかたなのです。そしてゴルゴタの十字架への道を歩んで下さったのです。

 

 まさにこの唯一の主なる、十字架と復活の主イエス・キリストのもとにこそ、ただそこにのみ、私たち全ての者の唯一のまことの救いがあり、そして歴史全体の救いがあることを深く覚えつつ、この唯一の救い主なる主イエス・キリストの御前に、御降誕の主イエス・キリストの御前に、私たち現代のキリスト者たちもまた、初代教会の聖徒たちとともに、深い悔い改め(すなわち真の神への立ち帰りの喜び)をもって、新しいこの待降節第3週を過ごして参りたいと思います。祈りましょう。