説     教          エレミヤ書503134節  ヨハネ黙示録18410

                  「主たる神は強ければなり」ヨハネ黙示録講解〔60

                   2025・12・07(説教25492148

 

(4)わたしはまた、もうひとつの声が天から出るのを聞いた。『わたしの民よ、彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ。(5)彼女の罪は積り積って天に達しており、神はその不義の行いを覚えておられる。(6)彼女がしたとおりに彼女にし返し、そのしわざに応じて二倍に報復をし、彼女が混ぜて入れた杯の中に、その倍の量を、入れてやれ。(7)彼女が自ら高ぶり、ぜいたくをほしいままにしたので、それに対して、同じほどの苦しみと悲しみとを味わわせてやれ。彼女は心の中で“わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない”と言っている。(8)それゆえ、さまざまの災害が、死と悲しみとききんとが、一日のうちに彼女を襲い、そして、彼女は火で焼かれてしまう。彼女をさばく主なる神は、力強いかたなのである。(9)彼女と姦淫を行い、ぜいたくをほしいままにしていた地の王たちは、彼女が焼かれる火の煙を見て、彼女のために胸を打って泣き悲しみ、(10)彼女の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、“ああ、わざわいだ。大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえに対するさばきは、一瞬にしてきた”』」。

 

 すでに今朝のヨハネ黙示録184節に、驚くべきことが宣べ伝えられているのです。それは「わたしはまた、もうひとつの声が天から出るのを聞いた」とあることです。私はヨハネ黙示録の連続講解説教をするのは牧師になって2度目(1度目は37年前でした)なのですが、黙示録の中にたびたび出てくるこの御言葉に接するたびに、思わされることがあるのです。それは、牧師の務め(いやむしろ「教会の務め」と言うべきでしょうか)は、主なる神がお語りになる「もうひとつの声」を正しく聴いて、それを全ての人に宣べ伝える(説教する)ことにあるのではないだろうか、ということです。この場合の「もうひとつの声」とは「人間の知恵や力からは決して出てこない福音の御言葉」という意味です。つまり、私たちの教会の務めは(黙示録的に言うならば「教会の天使的職務」とは)「人間の知恵や力からは決して出てこない福音の御言葉(もうひとつの声)を正しく聴いて、それを全ての人々に宣べ伝える務め」なのではないでしょうか。

 

 そういたしますと、4節の続く御言葉「わたしの民よ、彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ」の意味がより明確になるのではないでしょうか。つまり、これは「あなたはいつも罪から離れた清く正しい生活を心がけなさい」という道徳的な勧めではなくて、そうではなくて「あなたはいつも『もうひとつの声』すなわち十字架と復活の主イエス・キリストの福音に堅く立って生活する人であり続けていなさい」という意味なのです。たしかに、今朝の御言葉を見ますというと、「彼女」すなわち西暦69年当時のローマ皇帝ネロが犯した数々の罪が書き並べられているわけです。特に5節を見ますと「彼女の罪は積り積って天に達しており、神はその不義の行いを覚えておられる」とあります。たとえ人間の目と心とはごまかせても、主なる神をごまかすことはできないということです。エルンスト・ローマイヤー(Ernst Lohmeyer ドイツの聖書学者でヨハネ黙示録の素晴らしい注解書を書いた人です)はこの5節について「神の御前にはただ真実のみが立ちうる」と語っています。「神の御前にはただ真実のみが立ちうる」のです。

 

 逆に申しますならば、私たち人間はみな全て罪人のかしらなる存在ですから、誰一人として神の御前に健やかに立つことはできず、審かれるほかはない、そういう存在なのではないでしょうか。つまり「彼女」つまりローマ皇帝ネロだけのことがここに取沙汰されているのではないのです。そうではなくて、私たち全ての者たちが「あなたはどうなのか?=あなたは主なる神の御前に真実に立つことができるのか?」と問われているのです。さらに申しますならば「あなたは『もうひとつの声』すなわち、十字架と復活の主イエス・キリストの恵みにいつも堅く立つ人であり続けているか?」と問われているのです。そこで先ほど申しましたエルンスト・ローマイヤーは「だからこそヨハネ黙示録の御言葉は、全ての人に対する救いの福音である」と語っています。ただ単に、当時の暴虐なローマ皇帝の迫害にあって苦しんでいる教会や教会員に対する慰めと励ましを語るのみならず、実は全ての人々に対する救いの福音を語っているのがこのヨハネ黙示録なのだということです。これと同じことを、私の尊敬するスコットランドの神学者ジョン・オーマン(John Oman)も「世界の逆説=Paradox of the World」というヨハネ黙示録の講解説教集の中で語っています。

 

 さて、そこでこそ私たちが注目すべき御言葉は8節にございます「彼女をさばく主なる神は、力強いかたなのである」という御言葉です。今朝の説教題にいたしました「主たる神は強ければなり」はその文語訳です。そして、私たちは普通「主たる神は強ければなり」と聞きますと、それは私たち罪人を審くその審きの御力の強いことを語っているのだろうと思うのではないでしょうか。それは決して間違いではありませんけれども、私たちがここで聴くべき福音の半分にも届いていません。つまり、それはなお「もうひとつの声」とは言えないのです。そこで、今朝のこの御言葉「主たる神は強ければなり」において私たちが真実に聴くべき「もうひとつの声」とは何でしょうか?。それこそエルンスト・ローマイヤーやジョン・オーマンがさし示している「十字架と復活の主イエス・キリストの福音」なのです。最初にも申しましたように「人間の知恵や力からは決して出てこない福音の御言葉(もうひとつの声)を正しく聴いて、それを全ての人々に宣べ伝える務め」こそ私たち主の御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会の務め(天使的職務)だからです。それは「全ての人を罪から救い、新しい復活の生命を与える救いの御言葉、すなわち十字架と復活の主イエス・キリストの福音そのもの」なのです。

 

 聖書は私たち人間の罪の姿を容赦なく暴(あば)きます。言い換えるなら、私たち人間存在は聖書の御言葉(神の御言葉)の光に照らされてのみ、その真の姿が明らかにされるのです。それは使徒パウロがローマ書310節で語っているように「義人なし、一人だになし」という現実です。同時に使徒パウロは同じローマ書の320節において「律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである」と語っています。この場合の「律法」というのは「私たち人間が真の救いを得ようとして試みる全ての行いや努力」のことです。それらは真の救いを得るためには全く無力(無意味)であるばかりではなく「律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられない」のだとパウロははっきりと語っているわけです。しかしその使徒パウロが「ここにのみ全ての人の唯一の救いがある」と、喜びと感謝をもって宣べ伝えているのが、続くローマ書の321節以下でありまして、そこをご一緒に心に留めたいと思います。「(21)しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。(22)それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。(23)すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を(神の子たる身分を)受けられなくなっており、(24)彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」。

 

 ここに明確に宣べ伝えられているように「彼らは(私たち全ての者は)価なしに(自助努力すなわち律法によってではなく、ただ)神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされる」のです。私は北森嘉蔵という神学者のもとでルター神学で学位論文を書いた者ですけれども、あるとき、この北森嘉蔵先生がこういうことを語られました。「救われるべきものが救われ、滅びるべきものが滅びるなら、それはもはや福音ではなく律法にすぎない。なぜなら、そこには『この私の救い』が無いからである」。まさにそのとおりではないでしょうか。聖書は、ヨハネ黙示録の御言葉は、まさに「この私の救い」としての唯一の福音すなわち「もうひとつの声」を私たち全ての者に宣べ伝えるのです。それこそ「主たる神は強ければなり」という音信であり、それは十字架と復活の主イエス・キリストをさし示す御言葉なのです。

 

 聖書は、ヨハネ黙示録の御言葉は、「救われるべきものが救われ、滅びるべきものが滅びる」ことを語るのではないのです。そうではなくて「まさに滅びるほかないものが救われる」ことを語るのが福音であり「もうひとつの声」なのです。さらに言うなら「滅びるほかないものこそ救われる」ことを語るのが十字架と復活の主イエス・キリストの福音なのです。なぜなら、主は私たちのために、まさに「この私の救い」のために、全ての人の救いのために、滅びるほかはないものの救いのために、あのゴルゴタの丘において、呪いの十字架におかかり下さり、御自身の全てを献げぬいて下さった唯一の救い主(キリスト)であられるからです。まさにその十字架と復活の主イエス・キリストの救いの権威(全ての人を救う福音の御力)を、今朝のヨハネ黙示録188節は「主たる神は強ければなり」と語っているわけであります。ここに、ただこの唯一の主なる神のもとにこそ、全ての人の真の救いがあるのです。そして主イエス・キリストは、まさにその救いを歴史の中に現わして下さるために、あのベツレヘムの馬小屋に、この世界で最も暗く、低く、貧しく、寒いところに、お生まれ下さったのです。祈りましょう。