説     教               ダニエル書244節  ヨハネ黙示録13510

                    「屠られた小羊の命の書」 焼津教会主日礼拝

                   2025・11・30(説教25482147

 

今朝私たちに与えられたヨハネ黙示録第131節から10節の御言葉のうち、5節以下をもう一度お読みしたいと思います。「…(5)この獣にはまた、大言と冒瀆の言葉を吐く口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。(6)そこで、獣は口を開いて神を冒瀆し、神の名と神の幕屋、天に住む者たちを冒瀆した。(7)獣は聖なる者たちと戦い、これに勝つことが許され、また、あらゆる種族、民族、言葉の違う民、国民を支配する権威が与えられた。(8)地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。(9)耳ある者は皆、聞け。(10)捕らわれるべき者は、捕らわれて行く。剣で殺されるべき者は、剣で殺される。ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である」。

 

 ここには、とても醜く、そして乱暴な「獣」があらわれて参ります。このヨハネ黙示録13章の最初の1節を見ますと、この獣には「十本の角と七つの頭」があり、さらにその七つの頭には、神を冒瀆する言葉(神と神を信じる人々への呪いの言葉)が書かれた王冠がありました。そしてただいまお読みした5節にこのように続きます「(5)この獣にはまた、大言と冒瀆の言葉を吐く口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた」。42か月の間と言うのですから並べて3年半もの間、この獣には神を冒瀆し、聖なる者たち(主の教会に連なる全ての者たち)を迫害し殺す権威が与えられたというのです。そこで勢いづきましたこの獣は、6節以下にございますように「(6) そこで、獣は口を開いて神を冒瀆し、神の名と神の幕屋、天に住む者たちを冒瀆した。(7) 獣は聖なる者たちと戦い、これに勝つことが許され、また、あらゆる種族、民族、言葉の違う民、国民を支配する権威が与えられた」のでした。

 

 ここまでを読んで参りましてわかることは、当時のローマ帝国のアジア州にあった7つの教会が晒されていた迫害の嵐が、いかに苛烈きわまりないものであったかということです。すなわち、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアにあった7つの諸教会は、当時のローマ皇帝ネロによるキリスト教抹殺政策の号令のもと、あたかも巨大な「獣」に翻弄され蹂躙されるような厳しい迫害を受けたわけです。そこで大切なことは、これら7つの教会の信徒の人たちは、この迫害の嵐に対して神の御言葉によって打ち勝った事実です。その様子が今朝の8節以下にこのように記されています。「(8) 地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。(9)耳ある者は皆、聞け。(10)捕らわれるべき者は、捕らわれて行く。剣で殺されるべき者は、剣で殺される。ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である」。

 

 特に10節の最後に「ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である」とありますのは「まさにこの厳しい迫害の嵐の中でこそ、主の聖徒たち(キリストの十字架による贖いの恵みによって救われた者たち)の忍耐と信仰とが試される(明らかになる=protestされる)のだ」という意味です。譬えて申しますなら、台風によってその家の頑丈さが証明されるように、主の聖徒たち(キリストの十字架による贖いの恵みによって救われた者たち)が真のキリスト者であるか否かもまた、迫害によって試金石を与えられるのだということです。さらに申しますなら、迫害の嵐の中でこそ、本物の信仰とそうでない信仰とが試され、忍耐もまた、本物かどうかが振り分けられるのだということが言われているわけであります。

 

 このように今朝の御言葉を聴いて参りますと、私たちはすぐに思うかもしれません。ああ、ここにはとても厳しいことが書かれているな。迫害の嵐の中でこそ忍耐と信仰が試されるだなんて書かれているけれども、もし現代において同じことが起ったとしたら、とても自分には耐えられそうにない。自分だったらすぐにでも忍耐を失い、信仰を棄ててしまうかもしれない。そのようなことを感じる人は、あんがい多いのではないでしょうか。しかし、そこでこそ、私たちがきちんと今朝の御言葉を読まなくてはなりません。それは、今朝のこのヨハネ黙示録第13章の御言葉は、私たちに努力目標を指し示しているのではないということです。例えて申すなら、キリスト者としての営業ノルマを指し示して「なんやねんこの数字は?もっと頑張らなあかんやないか!なめとんのかお前は」と言っているのではないのです。そうではなくて、今朝の御言葉は私たちにただ福音のみを伝えています。それは何かと申しますと8節に「(8) 地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう」とあることです。

 

 「(8) 地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう」。ここでひとつ、気を付けて戴きたいことがあります。ここに「天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆…」とございますけれども、実は原文のギリシヤ語を読みますと「天地創造の時から」という形容助詞は「小羊の命の書」と同時に「屠られた小羊」にもかかっているのです。つまり、この部分を直訳しますと、このようになるのです「(8) 地上に住む者で、天地創造の時から屠られたまいし小羊の、その命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう」。実はこれはとても大事なことなのです。そういたしますと、どうなるかと申しますと、主イエス・キリストは「天地創造の以前から」この世界と私たち全ての者の救いのために、十字架にかかることが神の御意志の中で決定していた、そういう福音がここに宣べ伝えられているわけです。葉山教会ではクリスマス礼拝の聖餐式のときにいつも讃美歌第二編の85番を歌うのですけれども(グレゴリオ聖歌です)そこにもこのような歌詞がございます「世のならぬ先に、父なる神の、御心のうちに、生まれし御子は、よろずのものの始め、また終りなり、さかえあれとわに」。

 

 私が葉山教会の牧師として赴任いたしました31年前、私は最初の長老会において、いまは天に召された石塚康子長老より「教会員原簿」を手渡されました。いまもその教会員原簿は教会の私の書斎の書棚に大切に収められています。その長老会において私が申しましたことは、これはまさに、ヨハネ黙示録138節が語っている「天地創造の時から屠られた小羊の命の書」の地上におけるコピーですね、ということでした。私がそのことを申しました時、石塚康子長老が深く大きく頷いて下さったことを、私は昨日のことのように覚えているのです。はい、そのとおりです。教会員原簿は「天地創造の時から屠られた小羊の命の書」の地上におけるコピーなのです。ではその原本はどこにあるかと申しますと、原本は天の見えざる栄光の勝利の教会に置かれているわけです。私たちのこの葉山教会は、天における栄光の勝利の教会のブランチ(出張所、支所)であります。ですから長老会の大きな務めの中に「会員の出入会を扱うこと」があるのですが、それこそまさに「天地創造の時から屠られた小羊の命の書」のコピーがいつも原本を忠実に反映したものであるか否かを吟味し管理する務め、ということになるわけであります。

 

 そして、この「天地創造の時から屠られた小羊の命の書」は、ただ十字架と復活の主イエス・キリストの恵みによってのみ存在する「聖なる者たちの名簿」なのです。そしてその場合、主イエス・キリストは「世の始めより」私たち全ての者の救いのため、そしてこの歴史的現実の世界の救いのために、十字架にかかって下さったおかたなのでありますゆえに、この「生命の書=教会員原簿」に書き記された教会員の名は「永遠の昔より救いが決定している聖徒たちの名」にほかならないのです。このことがおわかりになりますか?。これはとても、とても大事なことです。もう一度申しますよ、「生命の書=教会員原簿」に書き記された教会員の名は「永遠の昔より救いが決定している聖徒たちの名」にほかならないのです。

 

つまり、いまここに集うている私たち全ての者たちに、十字架と復活の主イエス・キリストご自身がはっきりと語っていて下さるのです「あなたこそ、あなたこそ、世の始めから、永遠の昔より、救いが決定している聖なる者の一人なのだ」と!。だから、たとえどんな迫害の嵐が吹き荒れようとも、あなたは恐れる必要はない。あなたは、私があの十字架において全ての罪を贖った聖徒の一人なのだから。あなたこそ、私が生命を献げて贖ったその大切なかけがえのない一人なのだから。だから、あなたは人生の中で、どんなに激しい嵐を経験するときにも、私から離れないでいることができる。私を見失わないでいられる。なぜなら、私があなたといつも共にいるからだ。私はあなたを決して見失うことはないからだ。だから、安心していなさい。心を高く上げなさい。あの「獣」といえども、あなたを損なうことはできない。悪魔といえども、あなたを滅ぼすことはできない。私はあなたのために十字架にかかって、あなたの名を「天地創造の時から屠られた小羊の命の書」に書き加えたからだ。そのようにいま、はっきりと、十字架と復活の主イエス・キリストが、私たち一人びとりに、語り告げていて下さるのです。

 

 「屠られた小羊の生命の書」に、世の始めから私たち一人びとりの名が記されていることを感謝し、この恵みをこそ誇りとなし、喜びをもって、主と共に、主の愛と祝福の内を、心を高く上げて、ともに歩んで参りたいと思います。祈りましょう。