説 教 イザヤ書5章3−4節 ヨハネ黙示録17章6b−14節
「生命の書」 ヨハネ黙示録講解〔58〕
2025・11・16(説教25462145)
「(6b)この女を見た時、わたしは非常に驚きあやしんだ。(7)すると、御使はわたしに言った、『なぜそんなに驚くのか。この女の奥義と、女を乗せている七つの頭と十の角のある獣の奥義とを、話してあげよう。(8)あなたの見た獣は、昔はいたが、今はおらず、そして、やがて底知れぬ所から上ってきて、ついには滅びに至るものである。地に住む者のうち、世の初めからいのちの書に名を記されていない者たちは、この獣が、昔はいたが今はおらず、やがて来るのを見て、驚きあやしむであろう』」。
今朝の黙示録の御言葉を見ますと、なにやら謎解きのような言葉がずっと続いています。いわゆる「黙示録らしい雰囲気」を持つ言葉です。その謎解きとは6節の前半に出て参りました「わたしは、この女が聖徒の血とイエスの証人の血に酔いしれているのを見た」というビジョンについての謎解きです。そこで、先週もご一緒に顧みて参りましたように、「大淫婦」とさえ呼ばれる「女」は当時のローマ皇帝ネロのことをさしています。ネロはローマの街に放火をして、その罪をキリスト教徒たちになすりつけることによって、教会に対する迫害の口実を作ったのでした。そして、ローマ帝国によるキリスト教徒に対する組織的な迫害は、それから以降なんと240年間も続くことになりました。
歴史の中にある教会は時として、激しい迫害や逆境の嵐に晒されるのです。それはこの現実的世界(目に見える世界)はなお人間の罪の支配のもとにある、そういう一面を持つからであります。ですからあたかも異質なものに対する拒絶反応を起こすように、この現実的世界はキリストの恵みの主権のもとに立つ教会を迫害したり、困らせたり、虐めたりするのではないでしょうか。これを逆に言うならば、この現実的世界の中で「居心地の良い教会」(もしもそういうものがあるのなら)は、逆の意味で、キリストの恵みの主権のもとにではなく、この世の罪の支配のもとにあるのだと言うことができるでしょう。
そこで、今朝の御言葉に戻ります。どうぞ8節をご覧ください「(8) あなたの見た獣は、昔はいたが、今はおらず、そして、やがて底知れぬ所から上ってきて、ついには滅びに至るものである。地に住む者のうち、世の初めからいのちの書に名を記されていない者たちは、この獣が、昔はいたが今はおらず、やがて来るのを見て、驚きあやしむであろう」。ここには大変なことが記されています。まず「あなたの見た獣」というのは先週の3節に出てくる「神を汚す数々の名で覆われた赤い獣」のことで、それにあらん限りの金銀宝石によって身を飾ったローマ皇帝ネロが乗っていたのです。それを「わたし」すなわちキリストの使徒ヨハネは(黙示録の記者ヨハネは)確かに見たと言うのです。
そういたしますと、この「赤い獣」というのは大変な暴虐を(暴力と恐怖による支配を)この世界に行うために駆り出されてきた(地の底から現れてきた)存在なのです。言い換えるなら、この「赤い獣」一匹だけでこの世界を滅亡へと追いやることができる(少なくともそう思われるほどに暴力的な)そのような存在です。まさにこの「赤い獣」がもたらす暴力と恐怖の坩堝の中に、誕生してまだ間もない小アジアにある7つの教会は容赦なく投げ込まれたわけですね。これは、一般常識から見るならば、どう考えても教会側に勝ち目はないのです。文字どおり「吹けば飛ぶような小さな群れ」にすぎなかった7つの教会は、この「赤い獣」とそれに乗った「大淫婦」なるローマ皇帝ネロによって、蹂躙され殲滅され消し飛ばされるほかはない存在のように見えました。
ところが「そうではない」との御声が、天から御使を通して聞こえてくるのです。「そうではない。滅ぼされるのは、7つの教会ではなくて、赤い獣と乗り手であるローマ皇帝のほうだ」とはっきりと語る御声が聞こえてくるのです。どうしてでしょうか?。その答えが明確に8節に示されていました。「(8)あなたの見た獣は、昔はいたが、今はおらず、そして、やがて底知れぬ所から上ってきて、ついには滅びに至るものである。地に住む者のうち、世の初めからいのちの書に名を記されていない者たちは、この獣が、昔はいたが今はおらず、やがて来るのを見て、驚きあやしむであろう」と。その「赤い獣」とやらはたいへん強く猛々しく見えるかもしれないが「昔はいたが、今はおらず、そして、やがて底知れぬ所から上ってきて、ついには滅びに至るものである」。つまり、完全に過去の存在であり、しかも、過去において神によって滅ぼされてしまった存在なのです。
天のハルマゲドンでの戦いによって、完全に勝利した「天の栄光の教会」「勝利の教会」によって滅ぼされたサタンの僕(さらに申しますならサタンの力=七つの頭と十の角)そのものなのです。アニメ「北斗の拳」に出てくる名文句に「おまえはもう死んでいる」というのがあるそうですが、まさにその通りでありまして、この獣はどんなに強いものに見えていても「すでに死んでいる」存在にすぎないのです。「やがて底知れぬ所から」這い上がって来ることがあるかもしれないけれど(まさに今がその時なのですが)「ついには滅びに至る」存在にすぎないのです。つまり、生きているように見えるけれども本質においては「もう死んでいる」存在なのです。天のハルマゲドンにおける最終決戦は、既に神の側の(天の勝利の教会の)決定的な勝利に終わったからです。
そういたしますと、私たちキリスト者には限りない慰めと勇気が、それこそ天にある神の御座から絶えず与えられているのではないでしょうか。それこそ勝利の教会の讃美の歌声に、私たち地上にある(歴史の中にある)教会もまた、声を合わせる幸いを与えられているのではないでしょうか。それは、たとえこの歴史的現実世界の中にあって、たとえ私たちの教会がどんなに困難な道を歩まざるをえないとしても、むしろその道の困難さそれ自体が、私たちが紛れもなくキリストの恵みの主権のもとにある「主の教会」であることを証明しているということです。
もしこれが逆に、この歴史的現実的世界において、私たちの葉山教会が「まことにこの世にあって居心地の良い教会」であったとしたならば(世間の人たちに拍手喝采されて、黙っていてもたくさんの人々が礼拝堂にあふれる、そういう状態であったとしたならば)逆に私たちは、自分たちが罪の支配のもとにある教会になっていないかどうかを吟味せねばならないと思うのです。「われらは果たしてここに、真のキリストの御身体なる、聖なる公同の使徒的なる教会を建てているか否か」を自己検証しなければならないのではないでしょうか。(これはニーチェも語っていることです)
そこで、今朝のこの御言葉は、私たち「今この時代を生きるキリスト者たち」に「あなたがたの総大将であられる十字架と復活の主イエス・キリストは既に天のハルマゲドンに永遠に勝利されたのだから安心しなさい」という慰めを語ると同時に、もうひとつの大切なことを語っています。それは、それこそ今朝の8節の後半にございました「地に住む者のうち、世の初めからいのちの書に名を記されていない者たちは、この獣が、昔はいたが今はおらず、やがて来るのを見て、驚きあやしむであろう」という御言葉です。これはどういうことかと申しますと「生命の書」に(天の勝利の教会の教会員原簿に)「世の初めから…名を記されていない者たちは」この獣がもたらす暴力と破壊と恐怖だけを見てしまうだろう。その結果として「驚きあやしむであろう=罪の支配とその結果を見て絶望し、打ちひしがれてしまうだろう」ということです。
そこで、これは私たち一人びとりへの明確な問いであると同時に「あなたの名はちゃんと天の勝利の教会の教会員原簿に(生命の書に)記されているではないか」という恵みの宣言であることを忘れてはなりません。いつかの説教でも申しましたけれども、私の手元には「葉山教会教会員名簿」がございますけれども、私はそれは「天の勝利の教会」にその原簿があるのであって、私の手元にあるのはその写し(コピー)であると思っています。長老会の務めの中に「教会員の入会および退会」というのがありますが、まさに「天の勝利の教会」にある教会員原簿と、地上の私たちの教会にある教会員名簿との間に齟齬があってはならないのでして、その齟齬を無くすのがすなわち長老会の務めなのです。
いずれにいたしましても、今朝のヨハネ黙示録第17章6bから14節の御言葉は、私たち全ての者たちに「あなたこそは天の勝利の教会の教会員原簿=生命の書にその名が記されている人なのだから、たとえどんなに困難な状況があったとしても、ともに信仰の良き戦いを続けて行こうではないか」という音信(勧め)の言葉を語っているのです。そのように顧みて参りますとき、私たち葉山教会はいま教勢の上でも財政的にも、困難な状況にあるわけですけれども、私は少しも動じません。皆さんもそうであってほしいと思います。大切なことはただひとつだからです。それは「私たちの名が、天の勝利の教会の教会員原簿=生命の書に記されていること」これ以上の恵みはなく、これ以上の幸いはなく、これ以上の祝福はないのでありまして、このことをしっかりと確認をして、心を高く上げつつ、ともに信仰の良き戦いを(この歴史的世界における信仰の良き歩みを)続けて参りたいと思います。祈りましょう。