説 教 イザヤ書46章12−13節 ヨハネ黙示録16章1−11節
「救いとしての審き」 ヨハネ黙示録講解〔55〕
2025・10・26(説教25432142)
今朝はまず、先ほどヨハネ黙示録と併せてお読みした旧約聖書のイザヤ書第46章12節と13節の御言葉にもういちど口語訳で心を傾け、そののち、ヨハネ黙示録の16章1節のみを口語訳でお読みしたいと思います。「(12)心をかたくなにして、救いに遠い者よ、わたしに聞け。(13)わたしはわが救を近づかせるゆえ、その来ることは遠くない。わが救はおそくない。わたしは救をシオンに与え、わが栄光をイスラエルに与える」。「(1)それから、大きな声が聖所から出て、七人の御使にむかい、『さあ行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に傾けよ』と言うのを聞いた」。
私たちはここに、何を感じるでしょうか。ヨハネ黙示録16章の全体の印象を先取りして申しますならば、いかにもここには「風雲急を告げる」ごとき戦いと混乱と審きの様子が描かれているように見えるのです。事実その通りでありましょう。「明るいか暗いか」を問うならば、今朝の御言葉には少しも「明るさ」はなく、ただ悲惨な「暗い出来事」のみが宣べ伝えられているように思われるのではないでしょうか。しかし、どうぞ改めて先ほどのイザヤ書46章12節と13節に心を向けて戴きたいと思います。そこにははっきりと「(12)心をかたくなにして、救いに遠い者よ、わたしに聞け。(13)わたしはわが救を近づかせるゆえ、その来ることは遠くない。わが救はおそくない。わたしは救をシオンに与え、わが栄光をイスラエルに与える」と記されていました。
ここに告げられているのは、まさしく私たち全ての者たちのことなのです。「心をかたくなにして、救いに遠い者よ、わたしに聞け」と、主なる神は私たち一人びとりに懇ろにお語りになるのです。「心が頑なである」とは「心が硬直化している」という意味です。柔らかさを失い、血が通わなくなり、まさに死に瀕している、そのような心が世界中に満ち溢れているではないかと、主なる神は言われるのです。だからこそそれは「救に遠い者」であります。では、私たちは、そしてこの現実的世界は、この歴史は「救に遠い者」であるから私はそのような者たちは見捨てると(その滅びるに任せると)主なる神はおっしゃるのでしょうか?。そうではありません。
主なる神の御心は、私たちとこの現実世界か「救に遠い者=まさに滅びに瀕している世界」であるからこそ「わたしに聞け」と言われるのです。そして同時に13節にありましたように「(13)わたしはわが救を近づかせるゆえ、その来ることは遠くない。わが救はおそくない。わたしは救をシオンに与え、わが栄光をイスラエルに与える」とはっきりとお語りになるのです。私はよく説教の中で申し上げることがあります。それは「救われるべきものが救われ、滅びるべきものが滅びる、それはキリスト教の福音ではありません」ということです。それは因果応報論に基づく自然性の論理でありまして、聖書が語る福音ではありません。むしろキリスト教の福音の本質は「救われざる者が救いに与かり、滅ぶべきものが救われる」ことにあります。さらに申しますならば「救いの無い者にこそ救いがある」ことを語るのが聖書です。「救われざる者にこそ救いがある」のです。だからこそ、その救いは(十字架と復活の主イエス・キリストによる唯一永遠の救いの恵みは)ここに集うている私たち全ての者たちの救いそのものなのです。
今朝の説教題を「救としての審き」といたしました。けれども私は、むしろ今朝の説教題は「救いそのものとしての審き」とするべきだったと、後になってから思い返しました。皆さんもご存じかと思いますが、葉山教会のホームページの表紙には毎週の説教題と共にその英訳を掲載しているのですが、今朝のこの説教題の英訳を私は“God's judgment is salvation”(神の審きこそは救いである)としたのです。むしろそのほうが今朝の御言葉の内容をきちんと示していると思いました。ところが、私たちはなかなかそのようには思わないのではないでしょうか。それはひとつには、私たちは「救い」と聞くとき、いまの自分がそのまま救われるのでなければ困ると感じるからではないでしょうか。もっと言うならば、私たちはまず自分自身が「主」であって、神はその私たちをトリートメントして下さるかただ、そうでなければ私が困るんだ、そのように心のどこかで決めつけているのではないでしょうか。
ずいぶん以前に「俺がルールブックだ!」と叫んで物議をかもした野球の審判がいましたけれども、私たちもまたあんがい、心のどこかで「俺がルールブックだ!私の言うことを聞け!」と神に向かって叫んでいることがあるのではないか。しかし、それならばこそ、改めて問われなければなりません。その、自分を「主」とする私たちのその「自分」とはいったい何なのでしょうか?。さらに申すならば、神の前に「私がルールブックだ!」と叫ぶ私たちの本質とはいったい何なのでしょうか?。それは「罪人のかしらなる私」にすぎないのではないでしょうか。「滅びの子でしかありえない私」にすぎないのではないでしょうか。ヘブライ語で罪を意味する「ハッター」という言葉は元々は「的外れ」という意味です。私たちは「罪人のかしら」であるにもかかわらず「俺がルールブックだ!」と叫んで自分が「主」になろうとしている、まことに的外れな存在(方向性と目的性を喪失した存在)なのです。「井の中の蛙大海を知らず」という言葉がありますが、私たちはどうしてそれどころではない。「罪の中の罪人救いを知らずしておのれを主となす」それが私たちの姿なのではないでしょうか。
今朝のヨハネ黙示録16章7節に、このようにございました。「(7)わたしはまた祭壇がこう言うのを聞いた、『全能者にして主なる神よ。しかり、あなたのさばきは真実でかつ正しいさばきであります』」。私たち人間が罪に閉ざされていて見えなくなっていた神の恵み(救いの福音)を御使(天使)が代弁しているのです。言い換えるなら、これは天と地に響き渡っている讃美歌の歌詞なのです。御使は私たち一人びとりにも「あなたもこの讃美の歌声を聴き、これをともに歌いなさい」と語りかけています。「全能者にして主なる神よ。しかり、あなたのさばきは真実でかつ正しいさばきであります」。それこそまさしく“God's judgment is salvation”(神の審きこそは救いである)という福音なのです。
幼児教育の理論のひとつに「わが子を決して叱らず、決して怒らない教育」というのがあるそうです。私もかつて幼稚園の園長として幼児教育に携わっていた時がありましたが、私はそれはとんでもない教育であり、むしろ教育の名に値しないものだと言わざるを得ないと思います。子供は必要な時にきちんと叱らなければなりませんし、怒るべき時にはしっかりと怒らなければならないのではないでしょうか。考えてもみて下さい、わが子がなにをしても叱らず,怒ることもない、たとえわが子が間違ったことをしても、悪い道に逸れて行こうとしても、それを放任している、黙って見ている、決して叱らず、怒らない。それが正しい教育ですか?。そうではないと思います。むしろ子供を愛すればこそ、悪いことをした時には、本当に叱るのではないでしょうか?。わが子を本当に愛すればこそ、間違った道に逸れようとしたとき、本当に怒るのではないでしょうか?。
主なる神は、私たちを極みまでも愛したもうおかたです。私たちを救い、生命を与えるために、御自身の最愛の独子なる御子イエス・キリストをさえ与えて下さったおかたです。その神は私たち罪人の罪を放任なさらず、怒りたもうのです。主なる神は私たち罪人が滅びるのを「どうでもよい」とはお考えにならない。むしろこれを救い、新たな生命を与えるために、私たちに「救いとしての審き」を与えて下さるおかたなのです。「俺がルールブックだ!」と愚かにも叫び続けようとする私たちに、極みなき愛による審きを恵みとしてお与えになり、「滅びの子」にすぎなかった私たちを、永遠の御国へと導いて下さるかたなのです。
そして、更に大切なことがあります。信じられない恵みです。本来ならば私たちが神の審きを受けなくてはなりませんでしたのに、御子イエス・キリストはまさにその審きを、あのゴルゴタの十字架の御苦しみと死によって、御自分がそれを担い取って下さったのです。審かれるべき私たちに生命を与えて下さるために、御自身が十字架による滅びとしての死を死んで下さり、復活によって私たちを、御子イエス・キリストの御身体なる教会によって、聖霊によって、その復活の生命にあずかる僕たちとして下さったのです。だからこそ、私たちはもう安心して、心から十字架と復活の主イエス・キリストによる救いを喜び感謝しつつ、贖われた者たちとして、天に国籍ある群れとして、心を高く上げて、神の祝福の内を歩む者たちとならせて戴いているのです。ここに、私たち全ての者の感謝の生活があり、真の自由と幸いがあり、主に従う者たちの本当の喜びがあるのです。祈りましょう。