説     教                ホセア書1413節  ヨハネ黙示録1514

                    「モーセと羔羊の歌」 ヨハネ黙示録講解〔53

                   2025・10・12(説教25412140

 

(1)またわたしは、天に大いなる驚くべきほかのしるしを見た。七人の御使が、最後の七つの災害を携えていた。これらの災害で神の激しい怒りがその頂点に達するのである。(2)またわたしは、火のまじったガラスの海のようなものを見た。そして、このガラスの海のそばに、獣とその像とその名の数字とにうち勝った人々が、神の竪琴を手にして立っているのを見た。(3)彼らは、神の僕モーセの歌と小羊の歌とを歌って言った、『全能者にして主なる神よ。あなたのみわざは、大いなる、また驚くべきものであります。万民の王よ、あなたの道は正しく、かつ真実であります。(4)主よ、あなたをおそれず、御名をほめたたえない者が、ありましょうか。あなただけが聖なるかたであり、あらゆる国民はきて、あなたを伏しおがむでしょう。あなたの正しいさばきが、あらわれるに至ったからであります』」。

 

 今朝の説教題を「モーセと羔羊の歌」といたしました。神の僕であり旧約の預言者であったモーセの歌と、神の永遠の独子にして神の羔羊であられる主イエス・キリストの歌、この2つの歌が同時に詠われているのが今朝の黙示録151節から4節の御言葉であります。そこで、おそらく「モーセの歌」と申しますのは、旧約聖書の出エジプト記151節以下に出て参ります「出エジプトの勝利の歌」のことをさしているものと思われます。そして、これはヨハネ黙示録のたいへん優れた注解書を著したエルンスト・ローマイヤーというドイツの聖書学者が語っているのですけれども、この「出エジプトの勝利の歌」に高らかに歌い上げられている「神の民の勝利の喜び」が、神の羔羊なる十字架と復活の主イエス・キリストによる永遠の救いの御業と重ね合わせられている、つまり、それは別々の歌ではなく、ひとつの福音の告知であると告げられているわけです。だからこそ今朝の説教題を「モーセと羔羊の歌」といたしました。

 

 ここでひとつの問いを投げかけたいと思います。皆さんは「聖書の中心は何ですか?」と問われたなら、この質問に対してどのようにお答えになるでしょうか?。「聖書の中心は何ですか?」。これはさらに言うなら「聖書の御言葉(神の御言葉)において、私たちはいったいどなたに出会うのか?」という問いであります。答えはもちろん主イエス・キリストです。聖書の中心は主イエス・キリストであり、聖書とはすなわち、私たちをして主イエス・キリストに出会わせる神の言葉です。もっと言うならば、聖書全体の主題は主イエス・キリストなのです。

 

たしかに、旧約聖書には「イエス・キリスト」という言葉はどこにも出てきません。しかし旧約聖書は待望(主イエス・キリストによる歴史全体の救いの約束)という形(過去から現在というベクトル)において十字架と復活の主イエス・キリストを指し示し、新約聖書は想起(主イエス・キリストによる歴史全体の救いの成就)という形(未来から現在というベクトル)において十字架と復活の主イエス・キリストを指し示すのです。つまり旧約と新約は矢印の方向こそ違いますけれども、ともに十字架と復活の主イエス・キリストのみを指し示しているのでして、その意味において旧約も新約も等しく「聖書=The Bible=唯一の書」なのです。そういたしますと「モーセと羔羊の歌」は矢印の方向こそ違いますけれども、それはともに唯一の救い主なる十字架と復活の主イエス・キリストのみを指し示しているのです。

 

 そこで「モーセの歌」である出エジプト記152節を見ますと、そこに「主はわたしの力また歌、わたしの救となられた」と歌われています。そして同時に(次は『羔羊の歌』つまり新約という矢印に注目しましょう)今朝の御言葉である黙示録153節を見ますと、そこに「全能者にして主なる神よ。あなたのみわざは、大いなる、また驚くべきものであります」と歌われています。この2つの歌(つまり、モーセの歌と羔羊の歌)の両方が指し示しているものこそ、十字架と復活の主イエス・キリストによる歴史全体の救いという福音なのです。そこで、この2つの歌の言葉を合わせてみましょう。するとこうなるのです。「主はわたしの力また歌、わたしの救となられた。全能者にして主なる神よ。あなたのみわざは、大いなる、また驚くべきものであります」。ここには、なにが現わされているのでしょうか?。それこそ「十字架と復活の主イエス・キリストによる歴史全体の救い」という福音ではないでしょうか。

 

 「福音」とは、もとをただすなら古典ギリシヤ語の「エウアンゲリオン=Ευαγγέλιον」の訳です。この「エウアンゲリオン」とは「最大の喜びの告知」という意味の言葉です。ですから私が尊敬するイギリスのジョン・オーマン(John Oman)という神学者は「Supreme hapiness=至上幸福」と訳しています。どうしてでしょうか?。どうして福音は「至上幸福」なのでしょうか?。それは、福音とは、十字架と復活の主イエス・キリスト御自身だからです。このことをかつて、あるひとりのキリスト者がこのように表現しました。「キリストに出会い、キリストを信ずる以前の私は、譬えて言うならば、深い空井戸の底に落ちてしまって、死を待つばかりの絶望的来な存在であった。そこに、釈迦がやって来た。しかし釈迦は私を上から覗いて言うには『これこれ、お前がそんな惨めなところに落ちてしまったのは、おまえの前世からの因縁であるから仕方がない。お経を唱えてやるから成仏するがよい』。しばらくすると今度は孔子がやって来た。しかし孔子は私を上から覗いて言うには『これこれ、おまえがそんなところに落ちたのは、日頃の行いが悪かったせいだ。落ちてしまった今となっては、どうしてやることもできない。せめて四書五経を読んで、従来のおのれの悪行を振り返って反省し、諦めて潔く死ぬがよい』。

 

 すると三人目にやって来たのは主イエス・キリストであった。私は正直に言ってがっかりした。今度もどうせ駄目だろうと思ったからだ。しかし、主イエス・キリストは、驚くべきことに、黙って空井戸の底にいる私のところに降りてきて下さって、私を抱きかかえて、私を井戸の外に出して救って下さった。主はひと言もおっしゃらなかったけれど、ただ絶望の淵に沈んだ私のもとに黙って降りてきて下さり、私を抱きかかえて、絶望の外に連れ出して救って下さった。私に生命を与えて下さった。この事実のゆえに、私は釈迦でも孔子でもなく、ただ十字架と復活の主イエス・キリストのみを『わが主・救い主』と信じ告白する者である」。

 

 この信仰的体験談は単純ですけれども、それだけに私たちの心を捉えるのではないでしょうか。それは、主イエス・キリストは私たちの救いのために、黙って十字架への道を自発的に歩んで下さったという事実を示すからです。「こうしなさい」とか「こうすればよい」とか、いわゆる教訓や処世訓を語れる人はたくさんいるでしょう。私たちが謙虚に参考にすべきものも少なくないはずです。しかし一体だれが、罪のどん底にいて死を待つばかりの私たちのもとに、黙って降りて来て下さったでしょうか?。いったい誰が、言葉による教訓ではなく自分の身を(生命を)犠牲にして、私たちの救いとなってくれたでしょうか?。それは私たち全ての者のため、そしてこの歴史的世界の救いのために、人となりて十字架への道を歩んで下さった永遠の神の御子(神の羔羊)なる主イエス・キリストだけです。

 

 だからこそ、今朝のヨハネ黙示録151節以下の「羔羊の歌」は出エジプト記15章の「モーセの歌」と共に高らかに救いの喜びを、それこそ私たちの「至上幸福」を歌い上げてやまないのです。「主はわたしの力また歌、わたしの救となられた。全能者にして主なる神よ。あなたのみわざは、大いなる、また驚くべきものであります」。ここにこそ、ただここにのみ、全ての人の救いがあり、歴史そのものの唯一の、たしかな救いがあるのです。祈りましょう。