説 教 ヨエル書3章13−16節 ヨハネ黙示録14章14−20節
「歴史の唯一の主」 ヨハネ黙示録講解〔52〕
2025・10・05(説教25402139)
「(14)また見ていると、見よ、白い雲があって、その雲の上に人の子のような者が座しており、頭には金の冠をいただき、手には鋭いかまを持っていた。(15)すると、もうひとりの御使が聖所から出てきて、雲の上に座している者にむかって大声で叫んだ、『かまを入れて刈り取りなさい。地の穀物は全く実り、刈り取るべき時がきた』。(16)雲の上に座している者は、そのかまを地に投げ入れた。すると、地のものが刈り取られた」。
ここには、この歴史的世界における最後の審判(主なる神による、御子イエス・キリストを通じての真の審きと救いの成就)の時が、畑の穀物の刈り取り(つまり収穫)の様子に譬えられています。私は農学校で学んだことがあるのでわかるのですが、収穫は農家にとってそれは大きな喜びの時です。忙しいですが、その忙しさと労働の辛さを喜びが上回るのです。皆さんもご存じのように、今年の日本の夏は6月から9月まで記録的な猛暑が続きまして(10月になってもまだ暑さが続いていますが)米の作柄(出来具合)が心配されていました。しかし結果的には、例年を上回る豊作の地域が多かったようです。最近ではコンバインでの収穫が主流になっていますが、私が農学校で経験した稲刈りは、鎌を用いての手刈りでした。稲を根元から鎌で刈り取り、一抱えぐらいの束にしたものをトラクターのコンテナ荷台に積み上げて運ぶのです。その稲の束の山のてっぺんに級友たちと一緒に乗って、農場から帰る時の気持ちというものは、なんとも言えない充実感があったことを思い起こすのです。
そういたしますと、ヨハネ黙示録におきましても、神による「最後の審判」が収穫に譬えられているということは、そこにはやはり「収穫の喜び=救いの実現の喜び」が告げられているのではないでしょうか。これは農業的な視点から見たヨハネ黙示録の理解ですが、少なくとも今朝のこの14章14節から20節までの御言葉を読みます限り、ここには現実的世界に対する厳しい審きと同時に、救いの成就という大きな喜びが語られていることは明らかであると思います。このこと自体が実は、旧約と新約を貫いている壮大なテーマ(福音の主題)なのですけれども、聖書において語られている「神の審き」は実は「神による現実世界の救い」とひとつのものであって、福音においては「審きイコール救い」なのだということ、これはとても大切なことです。福音においては「審きのための審き」はないのです。それは必ず「救いのための審き」なのです。
また少しく私の経験談になってしまいますが、私は32歳の時に汎発性腹膜炎のためにかなり大きな手術を経験しました。礼拝を3度休まざるを得ませんでした。つまり約1か月間入院したのです。(4度目の日曜日のときには点滴棒を引きずって電車に乗って礼拝に馳せ参じました)その手術の時に感じたことです。外科医の世界でよく使われる言葉に「鬼手仏心」という言葉があるそうですが、手術というのは現実にメスでお腹を切り裂くことですよね。それこそ正視できないほど惨たらしいことでして、文字どおり鬼の手になりきらなければ手術はできない。しかしそれは病巣を取り除くための「審きの手」です。ですからそれは患者を救うための「審きの手」なのです。そういうことを、手術の経験の中で実感させられました。
それと同じことが、まさに今朝の黙示録の御言葉の中にも宣べ伝えられているのではないでしょうか。ここでは御使が(天使が)「鋭い鎌を持って」現れてきますが、それは収穫のためです。神がお定めになった救いの時が来たからです。御子イエス・キリストが人となられて世に来たりたまい、あのゴルゴタの丘において、呪いの十字架におかかりになって死んで下さったからです。ですからアタナシウスという4世紀の教父は「まさに十字架の主イエス・キリストにおいてこそ、神は全世界に対する審きを現わされた」と語っています。これはどういうことかと申しますと、本来は、私たちが(私たちこそが)あの呪いの十字架にかけられるべき者たちだったのです。十字架は罪によって神に反逆した罪人たちに科せられる審きそのものだからです。
しかし、どうでしょうか?。私たちが十字架にかけられたのでしょうか?。違いました。違うように、主イエス・キリストがして下さいました。罪人のかしらなる私たちとは正反対に、なにひとつ罪のない主イエス・キリストが、神と本質を同じくしたもう永遠の神の独子が、私たちの身代わりとなって、あのゴルゴタの呪いの十字架におかかり下さって、審きとしての死を死んで下さったのです。死ぬことの決してありえない神の御子が、私たちを救うために滅びとしての死という審きを身に引き受けて下さったのです。それが主イエス・キリストが担って下さった十字架の出来事です。だから宗教改革者ルターはガラテヤ書講解の中で「十字架においては、まさに御子イエス・キリストの唯一の死によって、私たちの死が決定的に撃ち滅ぼされたのである」と語っています。そしてルターは続けてこうも語っています「全ての人は心に銘記せよ。これ以上に驚くべき恵みがあるだろうか。滅びとしての死を死ぬよりほかにない私たち罪人を救うために、決して死ぬことのない神の永遠の御子が滅びとしての死を引き受けて下さったのだ。死すべき者が救われるために、死ぬべきでないおかたが死んで下さった、それが十字架の出来事なのだ」。
さて、そこで私たちが今朝の御言葉においてもうひとつ、心に留めたいことがあります。それは、御子イエス・キリストの十字架において、主なる神は「歴史の唯一の主」を私たちにはっきりとお示し下さったという事実です。リルケというドイツの詩人がいます(わたしはリルケという詩人があまり好きではないのですが)ある詩の中でこういうことを語っています。「私たちの人生は私たちの主とはなりえない。そうではなくて、私たちの人生それ自体が、唯一の真の主を必要としているのだ」(Unser Leben kann nicht unser Meister sein; vielmehr braucht unser Leben selbst einen wahren Meister.)この言葉はそのまま森有正が引用しています。私は、これこそ今朝の御言葉の福音そのものをさし示していると思います。
言い換えるならば、私たちの罪の本質とは何かといえば、それは私たちが自分の中に勝手に「主」を祭り上げ、偶像化してしまうことなのです。さらに言うなら、私たちが自分自身を「主」としてしまうことです。するとなにが起こるかと申しますと、ニーチェという人がこの問題を局限まで考え抜いたわけですが「私たちの人生は私たちの存在を絶望という名の永遠の滅びに落とし込む時間の流れにすぎない」という結論にならざるをえないわけです。この流れを断ち切って人間が救われるためには、人間自身が神に(超人に)なるほかはない。しかしそれは絶対に不可能であるから、私たちは必然的に、絶対に絶望するほかはないのだ、それがニーチェが明確に示している結論です。まさにこの結論に基づいて、ニーチェは「世界史はすなわち絶望への必然的な流れである」と語っているのです。
本当にそうなのでしょうか?。まさしく今朝のヨハネ黙示録14章14節以下の御言葉は、この哲学的命題に対してはっきりと「否」を語ります。「そうではない!」と語るのです。なぜでしょうか?。私たちの罪と死、その必然的な結果であるところの絶望、そしてこの歴史的世界の必然であるところの「絶望への必然的な流れ」を救うために、生命を与えて下さるために、神の永遠の御子イエス・キリストが、あのゴルゴタの呪いの十字架を担って下さったからです。死なないはずの神の御子が、私たちと歴史全体の救いのために、ズタボロになって死んで下さったからです。そこに、私たちの、そしてこの歴史全体の、たしかな唯一の救いがあるのです。
「歴史の唯一の主」は、十字架という審きを御自身の身に担い取って下さり、唯一の決定的な死によって、私たち全ての者を滅びとしての死から贖い、救って下さった、十字架の主イエス・キリストなのです。十字架の主イエス・キリストのみが「歴史の唯一の主」となって下さったのです。だから、私たちは心を高く上げて、主と共に、主の愛と祝福の内を、勇気と喜びをもって歩み続けて参ります。そして「歴史の唯一の主」なる十字架の主イエス・キリストは、必ずや、この世界を(歴史全体を)救いの完成と永遠の平和へと導いて下さるのです。祈りましょう。