説 教 ヨブ記19章23節23−27節 ヨハネ黙示録14章13節
「主にある死人は幸い」 ヨハネ黙示録講解〔51〕
2025・09・28(説教25392138)
「(13)またわたしは、天からの声がこう言うのを聞いた。『書きしるせ、“今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである”。御霊も言う、“しかり、彼らはその労苦を解かれて休み、そのわざは彼らについていく”』」。今朝、私たちに与えられたこのヨハネ黙示録14章13節の御言葉は、お気づきのかたも多いと思いますが、教会における葬儀のときに必ず読まれる御言葉のひとつです。私自身のことを申しますなら、私は1983年に牧師になって以来およそ300回の葬儀を経験して参りました。 つまりこのヨハネ黙示録14章13節の御言葉を、私は葬儀礼拝だけでも300回読んできたことになります。ここにいる皆さんもこの御言葉を聴きつつ葬儀に参列されたのです。その意味ではこの御言葉は、私たちが最もよく耳にする聖書の御言葉のひとつではないかと思うのです。
ところがどうでしょうか。では私たちには、この御言葉の意味が「よくわかっているのか?」と問われたならば、やはり心もとない点があるのではないでしょうか。ひとつには、それは、の御言葉の中に「今から後、主にあって死ぬ死人は幸いである」と告げられていることではないかと思うのです。古今東西、人類の歴史が始まって以来、どこの国、どこの民族、どこの共同体に「死人は、幸いである」と語った人が、宗教が、教えが、ありえたでしょうか。死と幸い、さらに言うなら、死人と幸い、これは反対語の最たるものでありましょう。人間にとって死ほどおぞましく、嫌われ、避けようとされてきたものは無いのです。そのような死が、どうして「幸い」という言葉と結びつきうるのでしょうか?。
実は、この大きな疑問に対する答えは、まさに今朝のこの14節の御言葉の中に示されています。それは「書きしるせ、“今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである”」とあることです。ここにはっきりと「主にあって」という一言があるのです。この「主にあって」とはもともとのギリシヤ語の言葉を直訳するなら「主に結ばれて」あるいは「主の恵みの中に入れられて」という意味です。もしも私たちが(たとえ誰でありましても)「主に結ばれて」「主の恵みの中に入れられて」死ぬならば、その死人こそは「幸い」なのだと、はっきりと今朝の御言葉は私たちに語っているわけであります。
カール・バルトという神学者は、今朝のこのヨハネ黙示録14章13節について、ある数学の公式を示して説明しています。皆さんもご存じかと思いますが、数学の公式においては「マイナスの数どうしの掛算はプラス」になるのですね。たとえばある数がここにあるとして、その数の「マイナスの回数」を引く操作は「そのマイナスの数の反対の操作」であると解釈することができるわけです。たとえば(-2)×(-4) は「-2を4回引く」操作と見なせるわけで、その操作の結果はプラスという結果になるわけです。ですから(改めて申すまでもありませんが)「 (-2)×(-4)=8」という結果になるわけです。これは中学校の数学のレベルですが、実は整数論においてはとても不思議な現象であるらしいです。極端に申しますならこの世界の善悪の法則にも通じている部分があるのです。そしてこのことをカール・バルトが見事に引用しておりまして「死の死は生命になるのだ」(Der Tod des Todes wird zum Leben)と語っているのです。
それはどういうことかと申しますと、十字架の主イエス・キリストは、私たち人間にとって死の本質であるところの罪の支配を、ご自身の死によって打ち滅ぼして下さったおかたなのです。人間の死の問題を突き詰めてゆくと必ず罪の問題に突き当たるのです。石川啄木が親しい友人の死に際して詠んだ歌に「剽軽の性なりし友の死顔の青き疲れが今も目にあり」というものがあります。剽軽の性であった友人が病のために死んでしまった。その枕辺に駆け付けた啄木が見たものは「死顔の青き疲れ」であったと言うのです。あってはならないことがここにある。起こってはならないことがここに起こっている。あらじもがなの出来事がここに現実にある。全ての人間にとって死とは、まさにそのような「あるまじき」「あらじもがなの」出来事であり現実なのではないでしょうか。だからこそ、人間の死の真相をどこまでも突き詰めてゆくとき、私たちは必ず罪の支配の問題に突き当たるのです。そこには「幸い」という字はありえないのです。「死顔の青き疲れ」に幸いはありえないからであります。
それならば、まさにそのような私たち人間の死の真相に、罪の支配に、ご自身の死をもって介入して来て下さった唯一のかたがおられるのです。それこそ、私たちのために十字架におかかりになり、御自分の全てを献げ抜いて罪の贖いとなって下さった神の御子イエス・キリストです。神の永遠の独子なる主イエス・キリストのみが、ただこのおかただけが、私たち人間の「終局的な敵である死」という決定的なマイナスを、御自身の十字架の死という絶対的なマイナスをもって、復活の生命という「幸いな」プラスに変えて下さったおかたなのです。ただこの十字架と復活の主イエス・キリストのみに、この十字架と復活の主イエス・キリストに結ばれること(その贖いの恵みの中に入れられること)のみに、私たちの唯一の確かな永遠の救いがあるのです。だからこそ、今朝のヨハネ黙示録14章13節は高らかに喜びと確信をもって告げるのです。「“今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである”」と。
私は牧師になって以来、およそ300回の葬儀を司式して参りましたと申しました。この数は同じ神学校を卒業した同期の牧師たちの中でも多いほうだと思います。そして私はこの300人以上の帰天者たちの名前を、牧会手帳の亡くなった日の欄に書き記しています。それは私が毎年元旦の朝にする、いわば「一年で最初の仕事」であります。そこで、それを毎年書き記しておりますうちに、あるときふと気がついたことがありました。それは、私たちの教会はただ地上における歴史的可視的教会が全てではないのです。天における(神の永遠の御国における)勝利の教会、不可視的な永遠の教会に連なっていてこそ、私たちの教会は真の意味での「キリストの御身体」となり「聖なる公同の使徒的なる教会」となりうるのです。
それならば、教会員もまた同じなのではないだろうか。この地上の教会において西暦何年何月何日に生まれ、何年何月何日に洗礼を受け、何年何月何日に天に召された、それで終わりではないのですよ。それで終わりということはありえないのです。なぜなら、その人たちは全て「主にあって」(主に結ばれて、主の恵みに入れられて)死んだ死人たちだからです。その人たちはみな全て(ここに今集うている私たちも同じですが)十字架と復活の主イエス・キリストによって罪が贖われ、主が賜わる復活の生命に覆われて(新たに生かされて)死んだ人たちだからです。だからマイナスどうしの掛算がプラスになるのと同じように、私たちはキリストの十字架の死という測り知れない恵みのマイナスによってプラスへと(永遠の生命へと)呼び出だされ、生かされた者たちである。教会員というのはまさにこの「主にあって死んだ幸いな死人たち」のことなのだということに、私はあるときはっきりと気がついたのでした。
ですから今朝のこのヨハネ黙示録14章13節の「書きしるせ、“今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである」をルターはこのように訳しています。“Schreibe; Selig sind die Toten, die in dem Herrn strben von nun an.”これは直訳するならこうなります「このことをこそあなたは書き記しなさい。今からのち、主に結ばれて死んだ死人たちこそは、永遠の祝福を受けるのだ」。ですからルターは続く御言葉をもこのように訳しています。これはドイツ語を省いて直訳だけを申します。「そのとおりだ。聖霊もいまはっきりと私たちに告げている。彼らは(主に結ばれて死んだ死人たちは)その労苦から解き放たれ、彼らが生前に行った全ての働き(善きわざ)は彼らを追ってやまない」。この最後の「彼らが生前に行った全ての働き(善きわざ)は彼らを追ってやまない」とはどういう意味でしょうか?。新共同訳聖書では「その行いが報われるからである」と訳されていますが、それでは意味が通じないと思います。そういうことではないのです。
この「彼らを追ってやまない」とは「彼らが生前に行った全ての善きわざは、彼らと同様に贖い主なる神の御前に立つのだ」という意味です。言い換えるならば、私たちがその人生において行った全てのわざを(働きを)主なる神は祝福して下さる。それを喜んで下さる。受け入れて下さる。ですからそれは「報われる」という意味ではなく「ただ神の祝福となる」という意味です。その全生涯を通して、神の祝福を現わす(現わさせて戴く)私たちキリスト者の幸いがそこにあります。いまここに集うている全ての人たち、そして天に召された全ての教会員たちが、みなその幸いの内に、主が再び来たりたもう日を(全世界に救いの御業が完成するその日を)喜び、待ち望み、確信する僕たちとされているのです。祈りましょう。