説     教      エレミヤ書3023節−311節  ヨハネ黙示録14812

                    「聖徒の堅忍」 ヨハネ黙示録講解〔50

                   2025・09・21(説教25382137

 

(8)また、ほかの第二の御使が、続いてきて言った、『倒れた、大いなるバビロンは倒れた。その不品行に対する激しい怒りのぶどう酒を、あらゆる国民に飲ませた者』。(9)ほかの第三の御使が彼らに続いてきて、大声で言った、『おおよそ、獣とその像とを拝み、額や手に刻印を受ける者は、(10)神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた、神の激しい怒りのぶどう酒を飲み、聖なる御使たちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。(11)その苦しみの煙は世々限りなく立ちのぼり、そして、獣とその像とを拝む者、また、だれでもその名の刻印を受けている者は、昼も夜も休みが得られない。(12)ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある』」。

 

 今朝の説教題を「聖徒の堅忍」といたしました。これは私たち改革長老教会の伝統に連なる教会にとってはたいへん重要な文言でありまして、たとえば英語でそれぞれの言葉の5つの頭文字を取って“TULIP”などと言うように申しますが「改革派教会の教理の5つの特質」のひとつに「聖徒の堅忍」(Perseverance of the saints)というのがあるわけです。1610年のドルトレヒト信仰告白の中に最初に出てくる言葉です。最近はAIの技術が目覚ましく発達しておりまして、たとえばパソコンなどに“Perseverance”と入力いたしますと、たちどころにAIが、人工知能が、素敵な答えを示してくれます。それを見ますとこういう訳が出てきました。「Perseveranceは『目標達成のために困難に立ち向かい、粘り強く努力を続ける』という積極的努力の側面が強く、patienceは『遅延、困難、苦痛に直面しても、心を乱さず、平静を保ち、受け入れる』という精神的な忍耐力を指します。具体的には、困難な状況を『乗り越えようと努力する』のがperseverance、『耐え忍ぶ、受け入れる』のがpatienceです」。

 

 私はこれを見まして、コンピューターもなかなかに味わいのあることを言うなあと感心した次第です。つまり“Perseverance”は普通に「忍耐」と訳される“patience”という言葉と何が違うかと申しますと「目標達成のために困難に立ち向かい、粘り強く努力を続ける」それゆえに「困難な状況を乗り越えようと努力する」という意味が強い言葉なのですね。それで昔から伝統的に「聖徒の堅忍」と訳すようになりました。もともとこの「堅忍」という訳語は明治7年に大阪に梅花女学校を設立した澤山保羅という人が最初に用いたと言われています。苦難の多い人生を歩み、しかも若くして天に召された澤山保羅牧師ならではの的確な訳語であったと私は思います。新島襄がたいへん尊敬していた若き伝道者です。

 

 そこで、今朝、特に私たちが心を傾けたいのは、今朝のヨハネ黙示録1412節の御言葉ではないでしょうか。「(12) ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。私などはこの「忍耐」を「堅忍」と訳すべきではなかったか、とさえしきりに思うわけですけれども(ちなみに3年前に出版された共同訳聖書でも「イエスを信じる聖なる者たちの忍耐」となっています)それはともかくといたしまして、最も大切なことは、先ほどのTULIPが全てそうなのですけれども「聖徒の堅忍」もまた、その主語(主体)は神ご自身であられるということが大切なのです。つまり私たちが「救われるためにこういうことをしなければならない」とか「こういうことを実行しなければ救われない」などということではなくて(むしろそのような人間の側の救いの可能性の追求を徹底的に排除して)十字架と復活の主イエス・キリストにおける神の一方的な(主体的な)救いの恵みのみが喜びと感謝をもって語られている、信じ、告白され、宣べ伝えられている、それが「聖徒の堅忍」なのです。

 

どういうことかと申しますと、私たちは悪魔(すなわち罪)の力と支配に対しては、本当に弱く無力な存在なのではないでしょうか。もしも私たちが自分の力や知恵や努力だけで、この世界を支配しようとしている罪の力に勝利しようとするのなら、その結果は目を覆うばかりの連戦連敗でしかありえない、それが聖書が明確に語っている罪と人間との関係の法則であります。ですから使徒パウロはローマ人への手紙の724節において「わたしはなんという惨めな人間なのだろう」と語っています。「だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」と問わざるをえないのです。普通ならば(常識ならば)「あなたを罪の支配から救ってくれる者など誰もいない」という答えがあるだけでしょう。しかしそこでこそ使徒パウロは驚くべき御声を聞くのです。ローマ書725節です。「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」。

 

 そうです、私たちのために、そして全世界の歴史と全ての人の救いのために、あのゴルゴタの丘で呪いの十字架にかかって下さった御子イエス・キリストこそ、御子イエス・キリストのみが、唯一の絶対の私たちの救い主であられるのです。キリストは神の永遠の独子であられます。神と本質を同じくしたもうおかたです。言い換えるなら、主イエス・キリストは真の神そのものであられるのです。その永遠なる真の神が、私たちの救いのために、あのゴルゴタの丘において、贖いの死を死んで下さった。私たち全ての者のために、文字通り「ずたぼろ」になって死んで下さった。かつてドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェは「神は死んだ」という有名なテーゼを唱えましたけれども、ニーチェ以前に2000年前に「神はみずから十字架にかかって、全世界の罪の贖いを成し遂げて下さった」のです。ここにこそ聖書が語る福音の底知れぬ深みがあります。「神は死んだ」と唱える者たちに遥かに先立って、十字架と復活の主イエス・キリストは、十字架上に生命を献げて、私たち全ての者の贖いと救いを成し遂げて下さったのです。

 

 ですから、まさにこの驚くべき恵みに立って、使徒パウロはさらに、続くローマ人への手紙828節において、このように語っています。「(28)神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」と。これは「神を信じる人は万事が上手くいく」という意味ではありません。聖書が語る「万事」の中には、私たちにとって苦しみや逆境や試練としか思えないことも含まれているからです。苦しみや逆境や試練をも、それらを通してさえも、主なる神は十字架と復活の主イエス・キリストによって、私たちの「益=祝福と生命」となるように御業を現わして下さるという意味の御言葉なのです。それこそ「聖徒の堅忍」の福音そのものであります。キリストを信じる者たちにとっては、全てのことが(たとえそれが苦しみや逆境や試練であったとしても)十字架と復活の主イエス・キリストの絶大な恵みによって、祝福と生命へと導かれてゆくのです。

 

 玉木愛子さんという女性がいました。かつて東京の清瀬にあった頼病患者のための施設「多摩全生園」(現在の国立ハンセン氏病療養センター)で人生のほとんどを過ごされたかたです。彼女はまだ若い頃に、16歳の時にライ病を発病しました。それ以来、言うに言われぬ数々の苦しみを味わい、社会の冷たい目、それこそライ病患者に対する差別と偏見の中で、人生の大半をベッドの上で過ごさねばなりませんでした。その玉木愛子さんが、聖書の御言葉に出会いました。それこそ、先ほどのローマ人への手紙828節が、彼女の救いのきっかけになったのでした。清瀬教会の篠原信牧師から洗礼を受けた玉木さんは、やがてこのような俳句を詠みました「明けやすき真夜の祈りと思いけり」。そしてあるエッセイの中でこう語っています。「ライ病になったことは、私にとって測り知れない恵みであり、神の摂理であった。なぜなら、もし私がこの病に冒されていなかったなら、私は決してキリストを信じることはなく、洗礼を受けることもなかったでしょう」。

 

 今朝のヨハネ黙示録1412節をもう一度思い起こしましょう。「(12) ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。ほかの誰でもない、いまここに集うている私たち全ての者たちが、私たち一人びとりが「聖徒の堅忍」の恵みの中に人生を生きる僕たちとされているのではないでしょうか。キリストを信じる私たちは、たとえどのような境遇におきましても、神が御子イエス・キリストと聖霊によって、私たちの人生を祝福と生命へと導いて下さることを知る者たちです。それこそ「摂理」(Providence = 主が導いて下さる人生)の幸いを知る者たちとされているのではないでしょうか。それは、激しい迫害の嵐に晒されていた、当時のローマ帝国アジア州の7つの教会の教会員たちも同じでした。たとえ彼らの手や額に、ローマ皇帝の名を記した焼印が押されることがあっても、彼らの唯一の主は、十字架と復活の主イエス・キリストのみでした。そのキリストの御名のみが、彼らの魂に刻印されていたのです。それと同様に、ここに集う私たち全ての者にも、十字架と復活の主イエス・キリストの測り知れない贖いの恵みが、今も後も、永遠までも、徴づけられているのです。私たちは主の僕たち、弟子たちであり「聖徒の堅忍」の恵みの内に生きる者たちとされているのです。祈りましょう。