説     教                 箴言1921節  ヨハネ黙示録1467

                    「永遠の福音」 ヨハネ黙示録講解〔49

                   2025・09・14(説教25372136

 

(6)わたしは、もうひとりの御使が中空を飛ぶのを見た。彼は地に住む者、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音をたずさえてきて、(7)大声で言った、『神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め』」。同時に私たちは、今朝の旧約聖書の御言葉である箴言1921節を、改めて心に留めましょう。「(21)人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、御旨だけが堅く立つ」。

 

 今朝の説教題を「永遠の福音」といたしました。それは今朝、私たちに与えられたヨハネ黙示録146節に、御使(天使)が「永遠の福音」を大声で宣べ伝えた、という記述があるからです。最近のことですが、どうもこの「永遠の〇〇」というような言葉がひそかなブームになっているらしい、ということを聞きました。そう言われて少し調べてみましたら、たとえば数年前に話題になった映画に「永遠のゼロ」というのがあるらしい。また「永遠の昨日」というドラマもあるらしい。また「永遠のいま」というタイトルの美術作品もあるらしい。「永遠の仔」というミステリー小説もあるらしい。そのようなことを思い合せてみますに、どうも現代人は「永遠の〇〇」という言葉に心惹かれるものがあるのではないか、ということがわかりました。

 

それは、逆に見るならば、私たちの日常生活のどこにも「永遠」という言葉にふさわしいものが無いことを示唆しているのではないでしょうか。永遠とは英語で申しますならエターナルです。ドイツ語でしたらエーヴィヒカイトです。どちらも「極みがない=終わりがない」という意味の言葉です。ただ単に持続するとか、長続きするとか、永続性があるとか、そういうことを超えて「極みがない=終わりがない」言い換えるなら絶対に不変である。変わることがない。裏切ることがない。そのような確かなもの、変わらざるもの、まさに「永遠なるもの」に対する憧れを、願いを、やはり現代人は抱いているということが言えるのではないでしょうか。

 

 そこで、今朝の御言葉に改めて心を留めたいと思います。「(6)わたしは、もうひとりの御使が中空を飛ぶのを見た。彼は地に住む者、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音をたずさえてきて、(7)大声で言った、『神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め』」。この御言葉の凄いところは「永遠の福音」とあるだけではなくて、その内容が明確に示されていることです。すなわち御使は大声でこう告げたのでした。「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」と。

 

話は変わりますが、私の神学校時代の同級生に関川泰寛君というのがいます。古代教会史の専門家で、特にアタナシウスとニカイア信条の研究家として世界的に有名な人です。この関川君があるとき、たしか改革長老教会協議会の全国牧師会においてであったと記憶していますが「日本の教会にとって最も大切な課題は頌栄性の回復である」と語ったことがありました。私はそれを聴いて、とても納得するものがあったのです。良いことを言うなあと思いました。頌栄性というのは「真の礼拝の姿」と言い換えてもよいでしょう。そもそもルターやカルヴァンが目指した宗教改革の目的は、ミサ聖祭によって魔術的(人為主義的)になってしまった礼拝を、教会本来の、御言葉と聖礼典とを中心とした「真の礼拝の姿」へと改革することでした。つまり、宗教改革とはすなわち礼拝改革運動であったわけでありまして、特にそれは宗教改革の本流を受け継ぐ私たち改革長老教会にとって、関川君が語るように「最も大切な課題」であると言わねばなりません。

 

 そこで、これは私たち全ての者への、特に日本人のキリスト者全体への鋭い問いかけではないでしょうか。と申しますのも、私たちは「頌栄性の回復」と聞いても「なにそれ?」という感じでしかないのではないでしょうか。具体的に申しますなら、私は毎週のこの礼拝での祈り(牧会祈祷と呼ばれる祈り)の中で、いつも必ず「(どうか私たちが)主日礼拝をできる限り厳守することができますように」と祈りますが、それに対して切実な思いで「アーメン」と唱えて下さるかたが果たしてどれだけおられるでしょうか?。正直に申していささか心もとない気もするのです。礼拝がすべてにまさって大切なものだ、礼拝以上に大切なものはないのだ、「礼拝即生命」なのだ、そういう切実な思いを全教会員が共有するとき、その教会は真の意味で「頌栄的な群れ」となり、同時に本当の伝道の力を持つ教会へと成長してゆくことができるのだと思います。

 

もちろんそれは、病気や体調不良のために礼拝を休まざるをえないとか、この世的に常陽な仕事が日曜日に入ってしまって、それを断ることができなくて礼拝を休むとか、そういうこととは無関係なことであります。逆に、私たちの日常の生活意識の中に「頌栄性」が回復されているなら、私たちはどんなに忙しい日常の中にありましても、病床に伏せたままでありましても、礼拝第一のキリスト者となることができるのではないでしょうか。「頌栄性の回復」とはそういうことです。今朝の御言葉で申しますなら「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」ここにこそ、私たちの本当の自由と幸いがあるのだと切実に感じることです。逆に申しますなら、その「頌栄性の回復」が無くなったなら、その教会はキリストの御身体ではなく、単なる人間同士の誼の群れになってしまうのではないでしょうか。

 

 そこで、私はこのことと、人間が真の意味で人間(人格的存在=かけがえのない汝)であることとは一つのことだと思っています。これはマルティン・ブーバーというユダヤ教の哲学者が「我と汝」(Ich und Du)という著書の中で語っていることなのですが、真の意味での「我=自意識」は、バルトが語るように、絶対他者としての神との関係においてのみ成立するからです。言い換えるなら、絶対他者でありたもう神(汝)があってのみ、はじめてそこに我という自意識が成り立つのです。逆に申しますなら、どんなに声高に人間が自意識を振りかざそうとも、そこに絶対他者としての神が見据えられていない(信じられていない)のなら、その自意識は砂上の楼閣に等しいものにすぎないのです。たとえば本当の民主主義というものも、砂上の楼閣に等しい自意識の上には成り立たないのです。だから共産主義者は「キリスト教はアヘンである」と主張するわけです。人民が真の自意識に目覚めてしまったら独裁体制が崩壊するからです。独裁者にとっては「我と汝の関係」は困るものだからです。

 

 今朝、併せて拝読した箴言1921節の御言葉を改めて心に留めましょう。「(21)人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、御旨だけが堅く立つ」。私たちは多くの計画を立てるでしょう。これもしたい、あれもしたい、こうしよう、ああしようと、とめどもなく人生計画は進んでゆくでしょう。それはもちろん、悪いことではありません。しかし、私たちはキリスト者として、信仰を持たない人と何がどう違うかと申しますと「しかしただ主の、御旨だけが堅く立つ」この事実を知っているか否かと言うことではないかと思います。言い換えるなら、私たちが心に抱く計画は、その全てが実現できないからこそ、私たちの人生は尊いものなのです。それは私たちの人生が、絶対他者でありたもう神の摂理のもとにある人生とされていることの証拠だからです。逆に、もし私たちが心に抱くすべての計画、願い事、要求の数々が、そのまますべて実現する人生であるとしたなら、そのような人生は私たちの魂を滅ぼし、人格性を失わしめる人生でありましょう。

 

 「(21)人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、御旨だけが堅く立つ」だからこそ私たちは心を高く上げて、主イエス・キリストの父なる神に絶対に信頼して、神を信じて、礼拝第一の生活を続けてゆくのです。主イエスもゲツセマネの園において祈られました。「父よ、もしなしうるならばこの杯を我より取り去りたまえ。されどわが思いにあらで、御心のままになしたまえ」と。受胎告知を受けた乙女マリアも祈りました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と。私たちも同じように祈ります。「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、御旨だけが堅く立つ」と。そして、私たちの全生涯を通して、神の愛と祝福と救いの御業が世に現わされる、証される、そのような人生を私たちは歩んで参りたいと願うのです。

 

 かつて京都の同志社にデーヴィス(J.D.Davis)という宣教師がいました。私はこの逸話を高校生のときに前橋教会の協力牧師であったハーバート・ベーケン先生から聞いたのです。デーヴィス宣教師が亡くなられて、その葬儀が同志社の礼拝堂で行われましたとき「彼の人生そのものが、彼のメッセージであった」His life itself was his messageと語られたそうです。私は私の尊敬する森下徹造先生の記念会の席上においても、この言葉をそのまま引用させて戴きました。私たちもまた、そのようなキリスト者の生涯を歩む僕たちとならせて戴いているのではないでしょうか。そして、そのことはひとえに「頌栄性の回復」に基づく新しい人生なのです。「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、御旨だけが堅く立つ」そのことを心に深く思いつつ、私たちは喜び勇んで、御国への道を歩んで参りたいと、心から願うものであります。祈りましょう。