説     教            エゼキエル書934節  ヨハネ黙示録1415

                  「シオンの山に立つ羔羊」 ヨハネ黙示録講解〔48

                   2025・09・07(説教25362135

 

(1)なお、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千人の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた。(2)またわたしは、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のような声が、天から出るのを聞いた。わたしの聞いたその声は、琴をひく人が竪琴をひく音のようでもあった。(3)彼らは、御座の前、四つの生き物と長老たちとの前で、新しい歌を歌った。この歌は、地からあがなわれた十四万四千人のほかには、だれも学ぶことができなかった。(4)彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。(5)彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった」。

 

 今朝の御言葉はその出だしからして大きな喜びの音信です。どうぞ1節をご覧ください。「(1)なお、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千人の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた」というのです。これは同じ新約聖書のマタイ伝2415節に「荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば」と私たちに告げられているのとは正反対の出来事です。つまり「荒らす憎むべき者=サタン」の支配は十字架と復活の主イエス・キリストによって永遠に退けられたのです。天の栄光の勝利の教会は、悪魔の支配に勝利をおさめたのです。ですから今朝のこの御言葉において「聖なる場所=シオンの山」に立つ者は「荒らす憎むべき者」などではなく「(神の永遠の)小羊であられる御子イエス・キリスト」です。

 

十字架と復活の主イエス・キリスト御みずから、私たち全ての者のためにシオンの山(この世界と歴史の究極的な審きの場)にお立ちになり、そこで私たちを御自身の永遠の勝利にあずかる僕たちとならせて下さるのです。だから、それは限りない喜びの音信です。そして、この喜びを知る者たちは、あらゆる困難と試練に打ち勝つことができるのです。十字架と復活の主イエス・キリストのみが、この歴史的世界の唯一の、永遠の真の「主」であられることを知っているからです。そしてそこに「十四万四千人」という具体的な数字が記されています。これは「十四万四千人だけが救われる」という意味ではありません。当時のローマ帝国のアジア州にあって、ローマ皇帝ネロによる激しい迫害の嵐に翻弄されていた信者たちの数が「十四万四千人」だったのです。つまりこの数字は「主の御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会に連なっている者たちは、必ず全て救われる」という音信なのです。

 

 その恵みの確たる証拠が1節の後半「十四万四千人の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた」という御言葉です。皆さんは、ご自分の額に(目にはもちろん見えませんけれども)「小羊の名とその父の名とが書かれている」ことをいつも意識して信仰生活を歩んでいるでしょうか?。改めて問いたいような気がいたします。別の言葉で申しますならば、キリスト者(クリスチャン)とは「自分の額に小羊の名とその父の名とが書かれていることを知っている者たち」のことです。だってそのままではありませんか?。ギリシヤ語でクリスチャン(クリスティアヌス)とは、キリストの御名が記された人々という意味です。私たちを羊の群れに譬えるなら、私たちにはその主人の名が記されているのです。「あなたは永遠にわたしのものだ」と、十字架と復活の主イエス・キリストがはっきりと語り告げていて下さるのです。だからこそ、そのような私たちをサタンは二度と支配することはできないのです。言い換えるならば、クリスチャンとは「その主人が永遠に主イエス・キリストであることが確定した人々」のことです。

 

 どうぞ、続く2節と3節を心を留めましょう。「(2)またわたしは、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のような声が、天から出るのを聞いた。わたしの聞いたその声は、琴をひく人が竪琴をひく音のようでもあった。(3)彼らは、御座の前、四つの生き物と長老たちとの前で、新しい歌を歌った。この歌は、地からあがなわれた十四万四千人のほかには、だれも学ぶことができなかった」。金曜日の午後、台風の通過に伴って、葉山にはかなり激しい雷雨がありました。本当に久しぶりの雨でした。その雷の音を聞きながら、私は今朝のこの2節の御言葉を思い起こしていました。そしてそれが「琴をひく人が竪琴をひく音のようでもあった」というのは、どういうことなのでしょうか?。それは実は「地からあがなわれた十四万四千人」が一斉に大きな声で歌う「新しい歌=新しい讃美歌」の歌声でした。そして3節には「この歌は、地からあがなわれた十四万四千人のほかには、だれも学ぶことができなかった」と記されています。

 

 これも、先週みなさんに紹介したドイツの教会史の碩学アドルフ・フォン・ハルナックが語っていることなのですけれども、初代教会の時代には、主の祈りと使徒信条と讃美歌、この3つは洗礼を受けた人だけが教えてもらえた、いわば主の御身体なる教会に入会するための「合言葉=キーワード」の意味を持っていたというのです。現代において、私たちはごくあたりまえのように(あまり深く考えることも無しに)主の祈り、使徒信条、そして讃美歌を口にしておりますけれども、それはヨハネ黙示録が書かれた時代においては、それは決して「あたりまえ」のことではなかったのでありまして、例えばハルナックは、洗礼式は33晩もかけて行われるものであった(それはおそらく、主の復活までの墓の中の3日間にあやかる、という意味であったことでしょう)ことを語っています。そして3日目の夜明けとともに、洗礼が授けられ、同時に、主の祈り、使徒信条、讃美歌(新しい歌)が教えられたというのです。どうぞ、その時の受洗者たちの感動を想像してみて下さい。朝日に照らされた受洗者たち、彼らの額には(目には見えませんが)十字架と復活の主イエス・キリストの御名がはっきりと記されているのです。

 

 最後の4節と5節を心に留めましょう。「(4)彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。(5)彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった」。注意して戴きたいのですが、4節の「彼らは、女にふれたことのない者である」というのは、生涯独身であったとか、修道院に入ったとか、そういう意味ではなくて、娼婦に譬えられたローマ皇帝ネロを「主」と呼ばなかった人々、という意味であります。ただ十字架と復活の主イエス・キリストのみを「わが主、救い主」と告白した人々のことです。そして大切なことは4節の続きに「彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である」とあることです。この「純潔な者」というのは「キリスト告白においてまっすぐな者たち」という意味です。そして、まさにその聖徒たちは「小羊の行く所へは、どこへでもついて行く」のです。これは、とても大切な御言葉です。

 

 私たちキリスト者(クリスチャン)を定義する言葉が、もう一つここにはっきりと現わされているのです。それは「小羊の行く所へは、どこへでもついて行く者たち」ということです。今までは、私たちは、自分の勝手気ままに歩いてきました。「私は決して勝手気ままな歩みなんかしてこなかった(そんなことができる人生ではなかった)」と言える人も、少なくとも自分を「主」として歩みを決めて参りました。その意味では生来的な私たちは例外なく「小羊の行く所へは、どこへでもついて行く」僕たちではなく、その正反対に自分自身を「主」として人生行路を決める者たちであったのです。しかし、その額に御子イエス・キリストの御名が記されたキリスト者たちは(ここに集うている皆さんは)違うのです。私たちは「小羊の行く所へは、どこへでもついて行く」者たちなのです。

 

 クオ・ヴァディスという小説をお読みになったかたがおられますか?。チェコの歴史作家ジェンキェヴィッチが書いたもので、初代教会におけるキリスト者たちの様子が細かく記されています。あそこに、使徒ペテロの故事が出て来るでしょう?。迫害が日ましに激しさをましてゆくローマから、信徒たちの勧めによって使徒ペテロは避難することにしたのです。供の少年ただ一人を連れて、人影のないアッピア街道をペテロが南へと歩いていますと、向こうのほうから復活の主イエスが歩んでこられた。ペテロはひざまづいて「主よ、どちらに行きたもうのですか?=Dquo vadis, Domine?」と訊ねました。すると主イエスはお答えになられました「ローマヘ行く。もしおまえが、私の羊の群れを見捨ててローマから離れるなら、私はもういちど十字架にかかるために、ローマに行くであろう」。(Si gregem meum deserueris et Romam relinquas, ego Romam ibo ut iterum crucifigar

 

ヨハネ福音書2118節に記された、ペテロへの主の御言葉を思い起こしたいと思います。「(18)よく、よく、あなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手を伸ばすことになろう。そして、ほかの人があなたを帯に結び付け、行きたくない所へ連れて行くであろう。(19)これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話になったのである。こう話してから、『わたしに従ってきなさい』と言われた」。これはとても恵みと慰めに満ちた言葉です。いま、私たち全ての者が「小羊の行く所へは、どこへでもついて行く」僕たちとならせて戴いているのです。祈りましょう。