説     教                詩篇7814節  ヨハネ黙示録131118

                   「解かれたる謎」 ヨハネ黙示録講解〔47

                   2025・08・31(説教25352134

 

(11)わたしはまた、ほかの獣が地から上って来るのを見た。それには小羊のような角が二つあって、龍のように物を言った。(12)そして、先の獣の持つすべての権力をその前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷がいやされた先の獣を拝ませた。(13)また、大いなるしるしを行って、人々の前で火を天から地に降らせることさえした。(14)さらに、先の獣の前で行うのを許されたしるしで、地に住む人々を惑わし、かつ、つるぎの傷を受けてもなお生きている先の獣の像を造ることを、地に住む人々に命じた。(15)それから、その獣の像に息を吹き込んで、その獣の像が物を言うことさえできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。(16)また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、(17)この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。(18)ここに、知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字は六百六十六である」。

 

 天の永遠の勝利の教会との戦いに敗れた悪魔(サタン)は、こんどは地上(歴史的現実世界)における制覇をたくらみ、その僕である醜い獣に命じて、地上の全ての人々を支配させようといたしました。その具体的な様子が今朝のヨハネ黙示録1311節以下に事細かく記されているわけです。そこで、今朝のこの礼拝においては、そのひとつひとつについて詳しく解説しようとは思いません。ただ私たちは今朝の御言葉を通して、悪魔の企み(策謀)というものが非常に巧妙かつ狡猾であり、人心を掌握するのに巧みであることに思いを致すべきでありましょう。事実、今朝のこの御言葉におきましても、悪魔は醜い獣に語らせた数々の言葉を通して、地上に住む人々をしてその獣の像を神として拝ませ、それを拝むことを潔しとしない人々に対しましては、「みな殺させた」というのです。そればかりではなく、地に住むすべての人々の右手と額に刻印を押して、それが無い者たちには社会生活ができないようにさせたというのです。

 

 実はこのあたりの事柄につきましては、かつてのベルリン大学神学部の教授であり、古代教会史の碩学であったアドルフ・フォン・ハルナックが「教理史教程」(Lehrbuch der Kirchengeshichte)の第1巻において、また「最初の3世紀間におけるキリスト教の伝道活動と布教について」(Die Mission und Ausbreitung des Christentums in den ersten drei Jahrhunderten)の中で、かなり詳しく具体的な事実をあげて解説しています。ハルナックによりますと、このヨハネ黙示録1311節以下に記されている事柄は全て、当時のローマ帝国小アジア州にあった7つの教会が経験した迫害の出来事の具体的な様子を記しているのであって、一例をあげるならば、当時のローマ皇帝であったネロ、そして後継者であったドミティアヌスによって、7つの教会の教会員たちは、男も女も、老人たちも、子供たちまでもが、キリスト教を棄てるようにと命じられ、今後二度とローマ皇帝に逆らわない徴として右手と額に焼印を押された、そういう事実が実際にあったということをハルナックは語っているわけであります。

 

 そのような意味におきましては、今朝のこの1311節以下の御言葉は、これを書いた使徒ヨハネにとっても、いわんや厳しい迫害の嵐に晒され翻弄されていた7つの教会の人々にとりましても、いわば「聞くに堪えない言葉」であり、また同時に「語るに堪えない言葉」でした。しかしながら、これもハルナックがいま紹介した本の中で語っていることなのですが、ローマ帝国による激しい迫害の嵐の中で、7つの教会は、そして使徒ヨハネは、少しも弱腰にならなかったのです。言い換えるならば、福音宣教の声のトーンを落とさなかったのです。逆に、いっそう奮い立って、声を張り上げて、勇敢果敢にこの歴史的現実世界に対する福音の宣教、そして真の教会形成の御業のために、全身全力で主に使える群れへと成長していったのでした。それこそ2世紀の教父テルトゥリアヌスが語ったように「殉教者の血は福音の種子となった」のです。事実として、7つの教会に集まる人の数は(求道者の数は)減るどころかますますふえてゆきました。それは、当時のローマ帝国の社会の中にあって、人々が「教会にこそ真の救いと平安がある」ことを知ったからです。迫害の嵐にも微動だにせぬ7つの教会の姿を見て、ローマ帝国アジア州の人々は、そこに本当の救いがあることを感じたのでした。

 

 そこで、いよいよ今朝の御言葉の最大の山場へと私たちは踏み入って参ります。それは今朝の御言葉の18節に記されている666という数字についてです。「(18)ここに、知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字は六百六十六である」。この666という数字については、古来より幾つもの説がありました。そのうち代表的なものを2つ紹介しますなら、まず専門用語でゲマトリアと言うのですが、ヘブライ語や古典ギリシヤ語などの古典言語においては、アルファベットが数字として用いられてきた歴史があるのです。そこで、ヨハネ黙示録の原文はギリシヤ語なのですが、そのギリシヤ語で666を意味する言葉をヘブライ語に置き換えますと「ネロ」という名前が出てくるのです。ローマ皇帝ネロのことですね。そこで、この666という数字はローマ皇帝ネロを意味しているのだ、皇帝ネロこそは悪魔の使い(悪魔の僕)である、そういう理解になるわけです。

 

 しかし、それだけではありません。改革者マルティン・ルターが語っていることも実はとても大切です。これはルターがヨハネ黙示録の講解説教の中で語っていることですが、ルターはラテン語で考えるのです。すると666を意味するラテン語は「神の子(つまりキリスト)の代理」を意味する“Vicarius Filii Dei”という言葉になるのです。なんとこれはローマ教皇という意味になります。ヨハネ黙示録が書かれた時代にはまだ制度的なローマ教皇は存在していませんでしたから、歴史的な時系列で申しますならルターの説は蓋然性を欠くのですけれども、しかし、大切なのは、むしろ、ここでルターはなにを語りたかったのかということです。

 

ルターによれば666は「神の子の代理」という意味です。有り体に申すならば「われこそはキリストであると主張する者」です。さらに言い換えるなら「われこそは世界の救い主である」と主張する存在、それが666Vicarius Filii Dei)なのであって、それこそが悪魔の手先たる者の主張することなのです。このことについて、一つの具体的な事例を挙げて説明したいと思います。1933年はドイツにおいてヒトラーが率いるナチス党が政権を掌握した年でした。ナチス党はドイツ国内の全ての大学教授に対して、講義を始める前にまずナチス式敬礼を行ってヒトラーに対する忠誠を現わすことを求めました。しかし当時ボン大学の神学部で教鞭をとっていたカール・バルトはそれを拒否してナチス式敬礼を行いませんでした。たちまちバルトは逮捕されて刑務所に収監されたのですが(バルトが死刑を免れたのはスイス人だったからでした)バルトはこの時の経験に基づいて、全ドイツの改革派教会の牧師たち、神学者たちに呼びかけて「バルメン宣言」(Barmer Theologische Erklärung)という信仰告白を全世界に向けて明らかにしました。

 

 原文はドイツ語で、かなり長いものですが、第一テーゼの最初の文章はこのような告白です。「『われは道なり、真理なり、生命なり。誰にてもわれに拠らずしては、父の御許に行くことあたわず』(ヨハネ福音書146節)『まことに、まことに、汝らに告ぐ。我は羊の門なり、われより前に来た者は、みな盗人であり強盗なり。われは門なり。われを通って入る者は全て救わるべし』(ヨハネ福音書1079節)聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。教会がその宣教の源として、神のこの唯一の御言葉のほかに、またそれと並んで、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認しうるとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわれは退ける」。

 

 「教会がその宣教の源として、神のこの唯一の御言葉のほかに、またそれと並んで、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認しうるとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわれは退ける」この第一テーゼの告白こそバルメン宣言の要となるものです。私たちキリスト者は獣を拝まないのです。たとえ身に焼印を押されようとも、主イエス・キリスト以外のかたを「わが主・救い主」とは呼ばないのです。言い換えるならば、それこそが私たちがキリスト者であることの徴であり、教会の唯一の礎なのです。トランプ大統領がガザ地区に自分の像を建てようとしていると聞きました。いつの時代にもそのような「われこそはキリストである」と自称する獣が現れて来るものなのです。プーチンもキーウへの無差別爆撃によってウクライナの人々に自分の像を拝ませようとしています。

 

 私たちキリスト者は、それら全ての獣の像を否定します。それらを絶対に拝みませんし、拝ませることもしません。私たちが聴くべき唯一の神の言葉(全ての人を救う福音の言葉)はただ十字架と復活の主イエス・キリストのみだからです。言い換えるなら、ただ十字架と復活の主イエス・キリストのみを拝むときにのみ、獣の像を拝むことから私たちは真に自由な者たちとされるのです。まさにそのことを、主にのみ従う者たちの真の自由と平安を、私たちの信仰生活の根幹にかかわる最も大切なことを、今朝のヨハネ黙示録1311節以下は力強く宣べ伝えているわけであります。祈りましょう。