説     教               ダニエル書244節  ヨハネ黙示録13110

                  「屠られし羔羊の生命の書」 ヨハネ黙示録講解〔46

                   2025・08・24(説教25342133

 

今朝私たちに与えられたヨハネ黙示録第131節から10節の御言葉のうち、5節以下をもう一度、口語訳でお読みしたいと思います。「…(5)この獣には、また、大言を吐き汚しごとを語る口が与えられ、四十二か月のあいだ活動する権威が与えられた。(6)そこで、彼は口を開いて神を汚し、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちとを汚した。(7)そして彼は、聖徒に戦いをいどんでこれに勝つことを許され、さらに、すべての部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。(8)地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、その名を世の初めからしるされていない者はみな、この獣を拝むであろう。(9)耳のある者は、聞くがよい。(10)とりこになるべき者は、とりこになっていく。つるぎで殺す者は、自らもつるぎで殺されねばならない。ここに、聖徒たちの忍耐と信仰とがある」。

 

 ここには、とても見にくく、そして乱暴な獣が現れて参ります。最初の1節を見ますと、この獣には10本の角と7つの頭があり、さらにその角には神を汚す言葉(呪いの言葉)が書かれた冠がありました。そして今お読みした5節にこのように続きます「この獣には、また、大言を吐き汚しごとを語る口が与えられ、四十二か月のあいだ活動する権威が与えられた」。42か月の間と言うのですから3年半の間、この獣には神を汚し聖徒たち(主の教会に連なる全ての者たち)を損なう権威が授けられたというのです。そこで勢いづきましたこの獣は、6節以下にございますように「(6) そこで、彼は口を開いて神を汚し、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちとを汚した。(7)そして彼は、聖徒に戦いをいどんでこれに勝つことを許され、さらに、すべての部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた」のでした。

 

 ここまでを読んできてわかることは、当時のローマ帝国アジア州にあった7つの教会が晒されていた迫害の嵐が、いかに苛烈きわまりないものであったかということです。すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤにあった7つの諸教会は、当時のローマ皇帝によるキリスト教抹殺政策の号令のもと、あたかも巨大な獣に翻弄され蹂躙されるような厳しい数々の迫害を受けたわけであります。そこで大切なことは、これら7つの教会の信徒の人たちは、この迫害の嵐に対して神の御言葉によって打ち勝った事実であります。その様子が今朝の8節以下にこのように記されています。「(8)地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、その名を世の初めからしるされていない者はみな、この獣を拝むであろう。(9)耳のある者は、聞くがよい。(10)とりこになるべき者は、とりこになっていく。つるぎで殺す者は、自らもつるぎで殺されねばならない。ここに、聖徒たちの忍耐と信仰とがある」。

 

 特に10節の最後に「ここに、聖徒たちの忍耐と信仰とがある」とありますのは「まさにこの厳しい迫害の嵐の中でこそ、主の聖徒たち(キリストの十字架による贖いの恵みによって救われた者たち)の忍耐と信仰とが試されるのだ」という意味です。譬えて申しますなら、台風によってその家の頑丈さが証明されるように、主の聖徒たち(キリストの十字架による贖いの恵みによって救われた者たち)が真のキリスト者であるか否かもまた、迫害によって試金石を与えられるのだということです。さらに申しますなら、迫害の嵐の中でこそ、本物の信仰とそうでない信仰とが試され、忍耐もまた、本物かどうかが振り分けられるのだということが言われているわけであります。

 

 このように今朝の御言葉を聴いて参りますと、私たちはすぐに思うかもしれません。ああ、ここにはとても厳しいことが書かれている。迫害の嵐の中でこそ忍耐と信仰が試されるだなんて書かれているけれども、もし現代において同じことが起ったとしたら、とても自分には耐えられそうにない。自分だったらすぐにでも忍耐を失い、信仰を棄ててしまうかもしれない。いわば、そのようなことを感じる人は、あんがい多いのではないでしょうか。しかし、そこでこそ、私たちがきちんと今朝の御言葉を読まなくてはなりません。それは、今朝のこのヨハネ黙示録第13章の御言葉は、私たちに努力目標を指し示しているのではないということです。例えて申すなら、キリスト者としての営業ノルマを指し示して「なんやねんこの数字は?もっと頑張らなあかんやないか!なめとんのかお前は」と言っているのではないのです。そうではなくて、今朝の御言葉は私たちにただ福音のみを伝えています。それは何かと申しますと8節に「(8)地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、その名を世の初めからしるされていない者はみな、この獣を拝むであろう」とあることです。

 

 「(8)地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、その名を世の初めからしるされていない者はみな、この獣を拝むであろう」。ここでひとつ、気を付けて戴きたいことがあります。ここに「ほふられた小羊のいのちの書に、その名を世の初めからしるされていない者はみな…」とございますけれども、実は原文のギリシヤ語を見ますと「世の初めから」という形容助詞は「いのちの書」と同時に「ほふられた小羊」にもかかっているのです。つまり、この部分を直訳しますとこのようになるのです「(8)地に住む者で、世の初めより屠られた小羊の生命の書に、その名を世の初めから記されていない者はみな、この獣を拝むであろう」。これはとても大事なことです。そう致しますと、どうなるかと申しますと、主イエス・キリストは「世の始まる前から」すなわち天地創造の以前から、この世界と私たち全ての者の救いのために、十字架にかかることが神の御意志の中で決定していた、そういう福音がここに宣べ伝えられているわけです。

 

 私が葉山教会の牧師として赴任いたしました31年前、私は最初の長老会において、天に召された石塚康子長老より「教会員原簿」を手渡されました。いまもその教会員原簿は教会の私の書斎の書棚に大切に収められています。その長老会において私が申しましたことは、これはまさに、ヨハネ黙示録138節が語っている「世の始めより屠られた小羊の生命の書」の地上におけるコピーです、ということでした。私がそのことを申しました時、石塚康子長老が深く大きく頷いて下さったことを、私は昨日のことのように覚えているのです。はい、そのとおりです。教会員原簿は「世の始めより屠られた小羊の生命の書」の地上におけるコピーなのです。ではその原本はどこにあるかと申しますと、原本は天の見えざる栄光の勝利の教会に置かれているわけです。私たちのこの葉山教会は、天における栄光の勝利の教会のブランチ(出張所、支所)であります。ですから長老会の大きな務めの中に「会員の出入会を扱うこと」があるのですが、それこそまさに「世の始めより屠られた小羊の生命の書」のコピーがいつも原本を忠実に反映したものであるか否かを吟味し管理する務め、ということになるわけであります。

 

 そして、この「世の始めより屠られた小羊の生命の書」は、ただ十字架と復活の主イエス・キリストの恵みによってのみ存在する「聖徒たちの名簿」なのです。そしてその場合、主イエス・キリストは「世の始めより」私たち全ての者の救いのため、そしてこの歴史的現実の世界の救いのために、十字架にかかって下さったおかたなのでありますゆえに、この「生命の書=教会員原簿」に書き記された教会員の名は「永遠の昔より救いが決定している聖徒たちの名」にほかならないのです。このことがおわかりになりますか?。よくわからないかたは、ぜひこの説教原稿のコピーを持ち帰って読み直して頂ければと思います。また、私にもいつでも質問して戴ければと心から思います。もう一度申しますよ、「生命の書=教会員原簿」に書き記された教会員の名は「永遠の昔より救いが決定している聖徒たちの名」にほかならないのです。

 

つまり、いまここに集うている私たち全ての者たちに、十字架と復活の主イエス・キリストご自身がはっきりと語っていて下さるのです「あなたこそ、あなたこそ、世の始めから、永遠の昔より、救いが決定している聖徒の一人なのだ」と!。だから、たとえどんな迫害の嵐が吹き荒れようとも、あなたは恐れる必要はない。あなたは、私があの十字架において全ての罪を贖った聖徒の一人なのだから。あなたこそ、私が生命を献げて贖ったその大切なかけがえのない一人なのだから。だから、あなたは人生の中で、どんなに激しい嵐を経験するときにも、私から離れないでいることができる。私を見失わないでいられる。なぜなら、私があなたといつも共にいるからだ。私はあなたを決して見失うことはないからだ。だから、安心していなさい。心を高く上げなさい。あの獣といえども、あなたを損なうことはできない。悪魔は、あなたを滅ぼすことはできない。私はあなたのために十字架にかかって、あなたの名を「「世の始めより屠られた小羊の生命の書」に書き加えたからだ。そのようにいま、はっきりと、十字架と復活の主イエス・キリストが、私たち一人びとりに、語り告げていて下さるのです。

 

 「屠られし羔羊の生命の書」に、世の始めから私たち一人びとりの名が記されていることを感謝し、喜びをもって主と共に、主の愛と祝福の内を、歩んで参りたいと思います。祈りましょう。