説     教                 詩篇198節  ヨハネ黙示録121318

                  「イエスの証を有てる者」 ヨハネ黙示録講解〔45

                   2025・08・17(説教25332132

 

(13)龍は、自分が地上に投げ落されたと知ると、男子を産んだ女を追いかけた。(14)しかし、女は自分の場所である荒野に飛んで行くために、大きなわしの二つの翼を与えられた。そして、そこでへびからのがれて、一年、二年、また、半年の間、養われることになっていた。(15)へびは、女の後に水を川のように、口から吐き出して、女を押し流そうとした。(16)しかし、地は女を助けた。すなわち、地はその口を開いて、龍が口から吐き出した川を飲みほした。(17)龍は、女に対して怒りを発し、女の残りの子ら、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを持っている者たちに対して、戦いをいどむために、出て行った。(18)そして、海の砂の上に立った」。

 

 天における戦いはキリストとその教会の決定的な勝利に終わりました。そこで、天から地に投げ落とされた悪魔によって、今度は地上における戦い(歴史的現実世界における、教会と悪魔との戦い)が起るのであります。すなわち、悪魔(サタン)はその手下である龍を用いて「男子を産んだ女」すなわちキリストの母マリアを殺そうと、あらゆる手段を用いて攻撃をしかけてくるのです。そこで、この「男子を産んだ女」すなわちマリアは主イエス・キリストの主権のみを現わすために、聖霊によって建てられた地上の教会のことを意味しています。カール・バルトというスイス改革派教会の神学者はこのことについて「我々はマリアを通して、ロザリオを手に提げて、諸聖人に祈願するのではない。そうではなくて、我々は常に、マリアと共に祈り、あらゆる試みに対して、御言葉の剣を執って戦いを挑む。それが教会の本来の姿である」(教会教義学)と語っています。

 

 そこで、今朝のこの御言葉において、私たちが特に注目すべきなのは17節にあります「イエスのあかしを持っている者たち」という言葉です。これは文語訳では「イエスの証を有てる者」と訳されています。実は、この文語訳のほうが原文のギリシヤ語のニュアンスを正確に伝えていると思います。それは何かと申しますと「持っている者たち」というのはただ単に「持っている、所有している」という意味ですが、「有てる者たち」とある場合、この「有てる」という漢字の本来の意味は「堅く保つ」だからです。つまり「イエスの証を堅く保ち、そこから片時も離れない」という意味になるのです。「イエスの証を堅く保ち、そこから片時も離れない」ここにこそ、私たちこの地上におけるキリストの御身体なる教会の本質があるのではないでしょうか。

 

 すなわち、教会とは何かと問われるならば(教会を定義するならば)それは「イエスの証を堅く保ち、そこから片時も離れない」群れであると言える(定義できる)のです。それこそカール・バルトが語ったように「我々はマリアを通して、ロザリオを手に提げて、諸聖人に祈願するのではない。そうではなくて、我々は常に、マリアと共に祈り、あらゆる試みに対して、御言葉の剣を執って戦いを挑む。それが教会の本来の姿である」なのです。この場合、マリアというのは教会員の代表です。これも、バルトが教会教義学の中ではっきりと語っていることです。ですから、私たち主の教会に連なる者たちは「マリアを通して諸聖人に祈る」のではなく「マリアと共に祈り、あらゆる試みに対して、御言葉の剣を執って戦いを挑む」のです。これはとても大切なことであります。

 

 そこで「イエスの証を有てる者」とは、具体的に、どのような人々のことを言っているのでしょうか。この大切なことを知るために、私たちは「イエスの証」という言葉を改めて心に留めなくてはなりません。エルンスト・ローマイヤーというドイツの優れた新約聖書学者は「ヨハネ福音書注解」の中で、この「イエスの証」とは、ローマ帝国の迫害の嵐の中で洗礼を受けた、アジヤ州にあった7つの教会の信徒たちのことであると述べています。どういうことかと申しますと、洗礼を受けるということは、生活の中心に十字架と復活の主イエス・キリストをお迎えすることだからです。森有正流に申しますなら「私たちの人生は私たちの主であることはできない。そうではなくて、私たちの人生そのものがまことの唯一の主を必要とするのである」でありまして、キリストを信じて洗礼を受けるということは根本的なパラダイム(人生の方向性)の転換を意味するのです。すなわち自己中心からキリスト中心の人生への方向転換であります。

 

 ルカによる福音書の1025節以下に有名な「善きサマリヤ人の譬え」がございますね。あの物語の中で、旅路で傷つき倒れていたユダヤ人を助けたのは、普段はユダヤ人と不倶戴天の敵であったサマリヤ人でした。つまり、いちばん助けを与ええなかった者(敵)が傷ついたユダヤ人(敵)を助けたわけでありまして、そこには自己中心から神中心の生きかたへと方向転換したキリスト者の、いわば「二重のパラダイムシフト」が如実に現れているわけです。すなわち悔改めによるキリスト中心の生への方向転換です。そして、それゆえにこそ、実はこの譬話には続きがあるのです。主イエスがこの譬話をなさったのは、パリサイ人シモンの家での食事の席でのことでした。主イエスはまさにパリサイ人シモンに「あなたも行って、同じようにしなさい」とお命じになられたのです。

 

 「あなたも行って、同じようにしなさい」。これは単なる道徳訓(処世術)の教えではありません。そうではなくて、主イエスは、自分のみを絶対化して正しい人間だと考えているパリサイ人シモンに対して「あなたのために、あなたを罪から救うために、十字架への道を歩むこの私を信じなさい。そして、真の神に立ち帰りなさい」とおっしゃっておられるのです。どういうことかと申しますと、まさにここがパラダイム転換なのですけれども、人生という名の旅路において傷つき倒れて死を待つばかりの身の上であったのは、誰あろうパリサイ人シモン自らであることに主イエスは気づかせて下さったのです。ですから「あなたも行って、同じようにしなさい」とは「あなたも善い行いをする人間になりなさい」という意味ではなく「あなたもキリストによって救われた人になりなさい」という、根源的な唯一の救いへの誘いなのです。

 

 「あなたもキリストによって救われた人になりなさい」この根源的な誘いの御声が、いま、私たち全ての者の心に、まさに今朝のヨハネ黙示録1217節の「イエスの証を有てる者」という御言葉によって、鳴り響いているのではないでしょうか。これと全く同じ意味において、私たちは同じルカ福音書の736節以下に記されている「罪の女の赦し」の出来事に心を留めるべきでありましょう。これもパリサイ人の家で主イエスが食卓についておられたときの出来事でした。一人の「罪の女」が入ってきて(その行為自体が命懸けでした)彼女にとって恐らくは全財産であった高価なナルドの香油を全部、主イエスの御頭と御足に注いで、涙を流して主の御足を拭ったのでした。そこで主イエスは居合わせた全ての人たちに向けてこうおっしゃいました。「(47)それで、あなたがたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪は赦されているのである。少しだけ赦された者は、少しだけしか愛さない」。この御言葉の意味はこうです「この女性が多くの罪を赦されたことは、彼女が私に示してくれた愛によってわかるではないか」。すなわち、この「罪の女」と呼ばれていた女性もまた、十字架と復活の主イエス・キリストを信じて、主イエス・キリストを生活の中心にお迎えして、人生の方向転換をした人なのです。

 

 だからこそ「この女性が多くの罪を赦されたことは、彼女が私に示してくれた愛によってわかるではないか」と主イエスははっきりとおっしゃいました。この女性もまた、あのサマリヤ人と同じく「イエスの証を有てる者」です。十字架と復活の主イエス・キリストを人生の唯一の主としてお迎えした人です。ローマイヤーが語るように、激しい迫害の嵐にもかかわらず、生命がけで洗礼を受けることを喜んで選んだ人たち(キリストの教会の教会員たち)です。まさにその、十字架と復活の主イエス・キリストの御身体なる、聖なる公同の使徒的なる教会に連なる者たちのことを、今朝のヨハネ黙示録1217節では「イエスの証を有てる者」と呼んでいるのです。そして、その者たちは「…マリアと共に祈り、あらゆる試みに対して、御言葉の剣を執って戦いを挑む。それが教会の本来の姿である」とカール・バルトが語っているように、天における悪魔との戦いに完全に勝利して下さった主イエス・キリストのもとに連なる僕たちです。

 

 言い換えるなら、ここに集うている私たち全ての者が、総大将であられる勝利の主イエス・キリストの、その勝利に連ならしめられた者たちなのです。なおこの目に見える歴史的現実世界の中で、私たちキリスト者は多くの戦いを経なければならないかもしれない。私たちの人生そのものの中にも、少なからぬ戦いの日々があるかもしれない。そこに数々の試練があり、また誘惑があり、一敗地に塗れることだって、あるかもしれない。しかし私たちは何度でも立ち上がります。主が私たちを立ち上がらせて下さるからです。そして信仰の良き戦いを戦い続けます。主が私たちに、御自身の平安と祝福を、そして罪の支配に対する最終的な勝利を与えていて下さるからです。そのことをいつも心に思いつつ、どうか信仰の良き戦いの日々を、祈りの日々を、礼拝者としての歩みを、倦まず弛まず続けてゆく私たちでありたいと思います。総大将であられる主イエス・キリストは、私たち全ての者のために、すでに天において「絶大な勝利」をおさめて下さったからです。祈りましょう。