説     教               詩篇96113節  ヨハネ黙示録121012

                  「神のキリストの権威」 ヨハネ黙示録講解〔44

                   2025・08・10(説教25322131

 

 「(10)その時わたしは、大きな声が天でこう言うのを聞いた、『今や、われらの神の救と力と国と、神のキリストの権威とは、現れた。われらの兄弟らを訴える者、夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者は、投げ落された。(11)兄弟たちは、小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。(12)それゆえに、天とその中に住む者たちよ、大いに喜べ。しかし、地と海よ、おまえたちはわざわいである。悪魔が、自分の時が短いのを知り、激しい怒りをもって、おまえたちのところに下ってきたからである』」。

 

 天における、神に仕える「見えざる勝利の教会」と、悪魔(サタン)とその軍勢との戦いは、見えざる勝利の教会(主の天使たち)の勝利に終わりました。ですから今朝の最初の10節にはこのようにございました。「(10) その時わたしは、大きな声が天でこう言うのを聞いた、『今や、われらの神の救と力と国と、神のキリストの権威とは、現れた。われらの兄弟らを訴える者、夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者は、投げ落された』」。この「投げ落とされた」というのは文字どおり「権威の座から引きずり降ろされた」という意味の言葉です。その「権威」とは全人類を統治する救いの権威(ただ神にのみ属する権威)のことです。悪魔は部下である龍を用いてこの「神の権威」を手中にしようとしましたが、その権威の座から引きずり降ろされて、完膚なきまでに敗北したのです。

 

 ところで、21世紀に生きる現代人である私たちは「権威」という言葉にあまり好ましい印象を持っていないかもしれません。「権威」と聞くと、私たちはすぐに「権威主義」とか「権威の乱用」とかいうような、どちらかと言えばネガティヴな印象を持つことが多いのではないでしょうか。しかし新約聖書の原文であるギリシヤ語では「権威」とはエクスーシア(εξουσία)という言葉でして、その本来の意味は「本質から出る力」を意味します。そして本質(ウーシア=ουσία)というのは、ただ永遠の実体を有する神にのみ備わった御性質なのですから、逆に申しますなら、私たち人間には「本質」は存在せず、したがって「権威」も存在しないという結論になるわけであります。ですからルターは権威という言葉を「神の本質から出る救いの御力」(Die rettende Kraft des Wesens Gottes)と訳しました。まさに「さすがはルター!」と思わず膝を打ちたくなる、とても素晴らしい訳であると思います。

 

 そこで、今朝の御言葉にはまさしく、私たち人間にとって最も大切な「神の本質から出る救いの御力」が宣べ伝えられているわけです。そしてなによりも、その「私たち全ての者を救う御力」は、今朝の10節において「神のキリストの権威」であると告げられているわけです。今のルターの言葉に繋げて申しますならば「神の本質から出る救いの御力は、すなわち、神のキリストの権威そのものである」という福音の音信になるわけです。これは、大変な言葉です。これ以上に慰めに満ちた音信はありえないと思わされるほどの言葉です。なぜなら、私たち人間の内には「救の権威」は無いのです。この世界の中にも、歴史の中にも「救の権威」は存在しないのです。しかし、それはただ十字架と復活の主イエス・キリストの内にのみ存在するのです。ということは、どういうことかと申しますと、「神の本質から出る救いの御力」は全ての人を救う真の救いの権威である、という意味なのです。

 

 だってそうではありませんか?、私たち人間やこの歴史的世界の中には無い救いの権威が、ただ主なる神にのみ(十字架と復活の主イエス・キリストにのみ)存在するという事実は、0100all or nothing)の論理になるわけでありまして、私たち人間の側の条件を何ひとつ必要としないわけですから、それは必然的に(論理的に)「全ての人を無条件で救う神の権威」になるわけであります。言い換えるなら、福音とは「救われるべき者が救われる(滅ぶべき者が滅びる)」という論理ではないのです。そうではなくて「絶対に救われえない者が神の権威によって救われる(滅ぶべき者が救われる)」のが福音の音信なのです。さらに申しますなら、福音とは「100%救いの可能性のない私たちを、神が御子イエス・キリストの十字架と復活によって、100%救って下さる」ことなのです。「0100all or nothing)の論理」と申しましたのはそのためです。私たち人間の側に救いの可能性が0%であるなら、神の権威による救いのみが100%になるのです。これはパスカルがパンセにおいて明らかにしている「福音の完全性」と重なります。

 

 そこで、続く11節と12節の御言葉に心を傾けて参りましょう。「(11)兄弟たちは、小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。(12)それゆえに、天とその中に住む者たちよ、大いに喜べ。しかし、地と海よ、おまえたちはわざわいである。悪魔が、自分の時が短いのを知り、激しい怒りをもって、おまえたちのところに下ってきたからである」。ここに記されております事柄は、天における「見えざる勝利の教会」(The Invisible Victorious Church. Ecclesia Victoriae Invisibilis.)の永遠の勝利に連なって勝利した聖徒たち(Saints=聖なる公同の使徒的なる教会に連なって生きる全てのキリスト者たち)の勝利の喜びの姿です。私たちは教会においてお互いに「兄弟姉妹」と呼びあいます。しかしその「兄弟姉妹」という呼び名は、ただ単に親しみを現わすものだけではないのでして、なによりも「天における見えざる勝利の教会の永遠の勝利に連なる幸いを与えられた者たち」の呼称(聖徒の交わりをあらわす呼称)なのです。だからこそ私たちは「兄弟姉妹」と呼びあうのです。

 

 それと同時に、もうひとつ、大切なことが今朝の御言葉において告げられています。それは12節の後半にございましたように「しかし、地と海よ、おまえたちはわざわいである。悪魔が、自分の時が短いのを知り、激しい怒りをもって、おまえたちのところに下ってきたからである」という事実が、まさにこの歴史的な(可視的な)世界には生じているという事実です。どういうことかと申しますと、天における戦いに敗北した悪魔(サタン)とその手下どもが、今度はこの目に見える歴史的な世界において権威の座を奪おうとして暗躍しているということなのです。つまり、悪魔は天では勝利できなかったので、せめて地上では、そこに住む人間たちを神の権威による救いから引き剥がそうとして暗躍しているのだという構図ですね。

 

だからこそ、天使は使徒ヨハネを通じて「地と海よ、おまえたちはわざわいである。悪魔が、自分の時が短いのを知り、激しい怒りをもって、おまえたちのところに下ってきたからである」と告げているわけです。「地と海」は美の象徴ですが、悪魔がそこに降ってきたことによって「わざわい」がもたらされたのだと語っているわけです。その結果として、ローマ帝国のアジア州にある7つの諸教会が(まさにこのヨハネ黙示録が送られた7つの教会が)激しい迫害の嵐に晒されることになったわけです。しかし、ここでも忘れてはなりませんことは、先ほどご一緒に確認をいたしました「権威」(エクスーシア=εξουσία)という言葉の意味です。古典ギリシヤ語はたいへん緻密な論理的な言語でして、曖昧さが無いのです。そのことはギリシヤ語で福音の説教を聴いていた7つの教会の人々にとって自明のことであったでしょう。どういうことかと申しますと、既に天における戦いに、見えざる勝利の教会は、悪魔に対して決定的に勝利しているのです。神の権威が敗北することはありえないからです。それならば、地上における教会がいまどんなに激しい戦いに(迫害や困難に)晒されていようとも、必ず勝利するのです。悪魔に敗北することはありえないのです。なぜなら神の権威は、ルターがいみじくも語ったように「神の本質から出る救いの御力、すなわち、神のキリストの権威そのものである」からです。

 

 ただ十字架と復活の主イエス・キリストのみが、私たちに代わって、私たち全ての者の救いのために、そしてこの世界と歴史全体の救いのために、悪魔(罪の支配)に対して永遠に勝利して下さったのです。その勝利は完全な永遠の勝利なのです。カール・バルトという神学者はこのことを、ある説教の中で「心を安んぜよ、総大将なるイエス・キリストは、既に完全な永遠の勝利をおさめておられる」と語りました。「心を安んぜよ、総大将なるイエス・キリストは、既に完全な永遠の勝利をおさめておられる」。まさにあなたのために、この世界と歴史全体の救いのために、私たちの総大将であられる十字架と復活の主イエス・キリストは、すでに完全な永遠の勝利をおさめておられるのです。だからこそ、私たちはもはや揺るぎません。十字架と復活の主イエス・キリストから片時も離れません。私たちの歩みは、私たちの人生は、いつも、どこにいても、十字架と復活の主イエス・キリストと共にあります。だからこそ私たちは、いまこの歴史の中で、永遠の御国への道を心を高く上げて歩む「聖徒の交わり」とされているのです。祈りましょう。