説     教           ダニエル書101821節  ヨハネ黙示録1219

                   「天における戦い」 ヨハネ黙示録講解〔43

                   2025・08・03(説教25312130

 

 「(1)また、大いなるしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、足の下に月を踏み、その頭に十二の星の冠をかぶっていた。(2)この女は子を宿しており、産みの苦しみと悩みとのために、泣き叫んでいた。(3)また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、大きな、赤い龍がいた。それに七つの頭と十の角とがあり、その頭に七つの冠をかぶっていた。(4)その尾は天の星の三分の一を掃き寄せ、それらを地に投げ落した。龍は子を産もうとしている女の前に立ち、生れたなら、その子を食い尽くそうとかまえていた。(5)女は男の子を産んだが、彼は鉄のつえをもってすべての国民を治めるべき者である。この子は、神のみもとに、その御座のところに、引き上げられた。(6)女は荒野へ逃げて行った。そこには、彼女が千二百六十日のあいだ養われるように、神の用意された場所があった。(7)さて、天では戦いが起った。ミカエルとその御使たちとが、龍と戦ったのである。龍もその使たちも応戦したが、(8)勝てなかった。そして、もはや天には彼らのおる所がなくなった。(9)この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落された」。

 

 ヨハネ黙示録を読んで参りますと、牧師泣かせと申しますか、説教者泣かせと申しますか、どうにも説教がしづらい、説教の言葉を紡ぎだしにくい、そういう御言葉に数多く出会うわけてせありますが、今朝の御言葉である121節以下などは、その代表格かもしれません。非理性的と申しますか、黙示文学的と申しますか、非論理的と申しますか、いずれにしても、明確な言語化はしにくいであろう御言葉が羅列しているわけであります。そこで、こうした御言葉に対しては、その一つひとつの解釈もそうですけれども、何よりも大切なことは、そのメッセージの本質を理解し、それを宣べ伝えることではないでしょうか。まず2節に出て参ります「子を宿した女」というのは主イエス・キリストの母マリアのことをさしています。そして「この女は子を宿しており、産みの苦しみと悩みとのために、泣き叫んでいた」とございますのは(どうか気を付けて戴きたいのですが)この歴史における神の御業の完成のための「産みの苦しみのような苦難の数々」(歴史全体の救いのために神の御業が現れる時に起こる数々の苦難)を現わしているのです。

 

 その場合、マリアの冠である「十二の星」は神による歴史全体の救いが完全であることを意味し、それを妨害する天の龍がかぶっている「七つの冠」は悪魔(サタン)の強い力を意味しています。そしてまさにその「赤い龍」すなわち、マリアが生むところの子(すなわち人となりたまいし神の御子イエス・キリスト)を「食い尽くそうとかまえている」サタンの使い(悪の天使)と、神の御使である天使ミカエル(天における勝利の教会の働き)とが、天における壮大な戦いを繰り広げる様子が今朝の7節以下に宣べ伝えられているわけです。今朝の説教題を「天における戦い」といたしましたのはそのためです。

 

ずいぶん以前のことですが、東京の三鷹にあるICU(国際基督教大学)の売店で“The Great Conflict in Heaven”(天における戦い)という本を見かけたことがありました。タイトルに関心を持ちまして、どんなことが書いてあるんだろうと立ち読みをしたわけです。それは危惧していたような怪しい本ではなくて、フランスの挿絵画家であったギュスターヴ・ドレ(Gustave Doré)が1866年に描いたThe Great Conflict in Heavenという絵について解説した本でした。ちょっと欲しいと思いましたが買わなかったのですが、ドレのThe Great Conflict in Heavenという絵は、天において天使たちが(すなわち天における勝利の教会の働きが)たくさんのサタンの天使たちと戦っている様子を描いたものです。私はその本の著者名を忘れてしまったのですが、立ち読みをしていて心に残った言葉に“The final conflict in heaven between the Church and the satan has already been completely victory by Jesus Christ.”(悪魔の支配に対する教会の天における最終闘争は、既にイエス・キリストによって完全に勝利されたものである)というものがありました。

 

 これはとても良い言葉です。そしてまさにこの言葉は、今朝のヨハネ黙示録121節以下の「天における戦い」の本質をよく現わしているものだと思いました。皆さんはど思われるでしょうか?。教会形成という言葉がありますよね。私には牧師としてひとつの確信がありまして、それは本当の伝道とは、この歴史的世界の中に(私たちの場合はまさにこの葉山のピスガ台に)十字架と復活の主イエス・キリストの御身体なる、聖なる公同の使徒的なる真の教会を形成してゆくことだ、そしてそのためにこそ、牧師は、教会は、長老・執事の皆さんは、多くの戦いを経験せざるをえない、そういう確信が私にはあるのです。皆さんはどう思われるでしようか。

 

私の親友でありました水野穣君。彼は香川県高松市の屋島教会の牧師であり、癌のために7年前に天に召されたのですが、私は水野牧師の葬儀の一切を任されました。普通でしたらその教区の牧師たちが葬儀の司式をするのですけれども、私の場合は水野君との約東でしたから(ちゃんとそういう約束があったことを教区の先生たちに説明した上で)葬儀の司式をしたわけであります。また、直島教会で行われた彼の記念会の司式も同じく水野君との約東によって私がいたしました。そのときに、私が葬儀礼拝の説教の中で繰り返し語ったことがあります。それは「水野牧師の生涯は、真の教会形成を求めての神学的な戦いの連続であった」ということです。水野牧師はとても丁寧な牧会をする人でしたけれども、その神学的な基本姿勢においては、文字通りいっさい妥協することなく、キリストの御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会を屋島の地に形成するために、倦まず弛まず神学的な戦いを続けた牧師でありました。

 

  いま、なぜそのような話を皆さんにしているかと申しますと、あるとき、水野牧師は私との電話での会話の中で、こういうことを語ったからです。「我々は結局のところ教会形成の戦いにおいて絶対に敗北することはありえない。なぜなら天における最後の戦いに、既に十字架と復活の主が勝利して下さったのだから」。私は水野君のこの言葉をいつも心の奥に大切に抱いています。彼は本当に、善き教会形成のための戦いを最後まで戦い抜いて天に召されたのです。もしもですよ、もしも私が(私たちが)自力で(自分の力や知恵や努力だけで)ここにキリストの御身体なる真の教会を形成してゆこうとするなら、それはサタンとの戦いにおいて敗北する以外にないのです。なにしろサタンは「七つの冠をかぶった赤い龍」を従えて私たちに戦いを挑んでくるのですから。人間に過ぎない私たち、しかも罪人の頭にすぎない私たちには、全く勝ち目はないのです。

 

しかし、まさにそのような、サタンに対して全く勝ち目のない私たちのために、しかも罪人の頭にすぎない私たちのために、神の独子であられる十字架と復活の主イエス・キリストが、あのゴルゴタの呪いの十字架において、悪魔との最終闘争に(天における戦いに)決定的に、そして永遠に、勝利して下さいました。だからこそ、改革者ルターがいみじくも語りましたように「キリストは十字架の死によって死の本体であるサタンに永遠に勝利して下さった」のです。私たちのために、私たちに代わって「天における戦い」に永遠に勝利して下さったのです。そして、私たちを、御自身の御身体なる聖なる公同の使徒的教会によって、その天における戦いの永遠の勝利の内に招き入れて下さったのです。ですからこれは、少しも私たちの力ではありません。ただひたすらに十字架と復活の主イエス・キリストの恵みによることであり、それゆえにこそ、それは人間にとって唯一のたしかな永遠の救いなのです。

 

今朝の6節以下をもう一度、心に留めましょう。「女は荒野へ逃げて行った。そこには、彼女が千二百六十日のあいだ養われるように、神の用意された場所があった。(7)さて、天では戦いが起った。ミカエルとその御使たちとが、龍と戦ったのである。龍もその使たちも応戦したが、(8)勝てなかった。そして、もはや天には彼らのおる所がなくなった。(9)この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落された」。ここに集うている私たちのためにも、主なる神は「逃れ場所」

を用意して下さいました。それこそ、御子イエス・キリストの御身体なる教会です。主は言われるのです「私があなたのために、サタンとの戦いに永遠に勝利したのだから、あなたは私の勝利のもとに(御子イエス・キリストの御身体なる教会に)身を寄せていなさい、ここに逃れていなさい、それこそあなたのために「私が用意した場所」である。

 

そして、あなたはたしかに見るであろう。「(8)もはや天には彼ら(悪魔のおる所がなくなった。(9)この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落された」ことを。この世界は、この歴史は、救われるのだ。聖なる公同の使徒的なる真の教会の完成によって、全世界に救いの御業が成就する日が来るのです。私たちはその喜びの日の証人です。キリストの証し人たちです。この幸いと祝福を私たち全ての者に告げる御言葉、それが今朝のヨハネ黙示録121節以下なのです。祈りましょう。