説 教 ダニエル書2章44節 ヨハネ黙示録11章15−19節
「永遠の御国」 ヨハネ黙示録講解〔42〕
2025・07・27(説教25302129)
「(15)第七の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、大きな声々が天に起って言った、『この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう』。(16)そして、神のみまえで座についている二十四人の長老は、ひれ伏し、神を拝して言った、(17)『今いまし、昔いませる、全能者にして主なる神よ。大いなる御力をふるって支配なさったことを感謝します。(18)諸国民は怒り狂いましたが、あなたも怒りをあらわされました。そして、死人をさばき、あなたの僕なる預言者、聖徒、小さき者も、大いなる者も、すべて御名をおそれる者たちに報いを与え、また、地を滅ぼす者どもを滅ぼして下さる時がきました』。(19)そして、天にある神の聖所が開けて、聖所の中に契約の箱が見えた。また、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴と、地震とが起り、大粒の雹が降った」。
先週の婦人会例会の時のことです。私の聖書講解が終わって質問の時間になりました時、ひとりのかたがこのような質問をなさいました。「先生、ヨハネ黙示録を書いたヨハネと、ヨハネ福音書やヨハネの手紙を書いた使徒ヨハネは同一人物なのに、なぜこんなに言葉が違うのですか?」。つまり、そのかたがお訊ねになったことは「ヨハネ福音書やヨハネの手紙はとても優しい言葉なのに、どうしてヨハネ黙示録には厳しいことばかり書かれているのですか?」というご質問でした。私はこれを聞いて反省させられたのです。それは、説教の中で十分に語っているつもりであったにもかかわらず、やはりきちんと伝わっていない部分があったということです。これは私の説教者としての未熟さを示すことであり、反省せざるをえないことでありました。
ここで改めて、私たちの心にとめておきたいと思います。ヨハネ福音書やヨハネの手紙は、キリストの弟子であったヨハネが自分の言葉で書いたものです。ヨハネという人はたいへん人格円満な穏やかな性格の人でありまして、それは福音書や手紙を読むときによくあらわれていることです。ところが、同じヨハネが書いたにもかかわらず、どうしてヨハネ黙示録にはたいへん厳しい言葉が連ねられているのか。それは同じヨハネが書いたものとはとうてい思えないほどの厳しさです。その理由は、ヨハネ黙示録では使徒ヨハネが御使を通して聴いた神の御言葉を書き記しているからです。それは迫害の嵐に晒されていた小アジアの七つの教会に対する励ましと慰めの言葉でした。戦いの渦中にあった諸教会を励ます言葉ですから、厳しくならざるを得なかったのです。
話は変わりますが、私は葉山教会の第5代目の牧師ですが、第2代目の牧師は杉田虎獅狼という先生でした。記録を見ますと杉田先生は1936年(昭和11年)に葉山教会牧師となられ、1945年(昭和20年)つまり終戦の年に病気のために天に召されました。約9年間葉山教会の牧師を務められたわけであります。非常に困難な時代にありまして、御言葉によって絶えず改革される真の教会、キリストの御身体なる聖なる公同の使徒的な教会形成のために、文字通り全身全霊で奮闘なさった先生でした。お名前は「虎獅狼」だったけれど、とても優しい先生であったそうです。まさに使徒ヨハネのような、円満なご人格の牧師であられたのです。ところが(私はこの話を亡くなられた川ア嗣夫先生から聞いたのですが)ひとたび説教壇に立たれるや、非常に厳しい説教をなさる先生であったそうです。私はある意味において「御言三昧・只管礼拝」という葉山教会の教会としての雰囲気を形成したのはこの杉田虎獅狼先生の9年間の牧会によってであったと思っています。
なぜでしょうか?。それは杉田牧師が、使徒ヨハネのように、徹底的に御言葉の役者(預言者)になりきっていたからではないでしょうか。言い換えるならば、神が「この言葉を宣べ伝えなさい」とお命じになったことを、忠実に正しく宣べ伝えられたのです。それは全ての説教者がそうであらねばならない、最も大切な牧師としての基本姿勢であります。使徒パウロもミレトにおけるエペソの教会の長老たちへの決別の説教の中で「いまわたしは、主とその御言葉とに、あなたがたを委ねる」(使徒行伝20章32節)と語っています。「私の思い出により縋って生きなさい」とは語っていないのです。そうではなくて「いまわたしは、主とその御言葉とに、あなたがたを委ねる」です。これこそが真に牧師たる者の牧会の基本姿勢なのではないでしょうか。
そこで、どうぞ今朝の御言葉に心を傾けて参りましょう。「(15)第七の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、大きな声々が天に起って言った、『この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう』。(16)そして、神のみまえで座についている二十四人の長老は、ひれ伏し、神を拝して言った、(17)『今いまし、昔いませる、全能者にして主なる神よ。大いなる御力をふるって支配なさったことを感謝します。(18)諸国民は怒り狂いましたが、あなたも怒りをあらわされました。そして、死人をさばき、あなたの僕なる預言者、聖徒、小さき者も、大いなる者も、すべて御名をおそれる者たちに報いを与え、また、地を滅ぼす者どもを滅ぼして下さる時がきました』」。ここに(16節に)出て参ります「二十四人の長老」とは、天における永遠の都なるイスラエルと、それに呼応して御言葉によって建てられた地上の歴史的な教会の長老たちを現わしています。天のイスラエル十二部族に呼応する地上のイスラエル十二部族、併せて「二十四人の長老」であり、これは歴史的な諸教会の主の証人たち、教会の仕え人たちのことをあらわしています。
この歴史的な諸教会に仕える人々は(それこそ迫害の嵐の中にあった、小アジアにある七つの諸教会も含めてですが)15節にありますように「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう」という天からの御声を聞いて限りない慰めと励ましを与えられたのです。永遠の平和が来るのだという約束に奮い立ったのです。地上の国家は、たとえそれがいかに巧妙な政治的体制に基づく国家であったとしても、過ぎ行く国にすぎません。永遠の平和(真の平和)はそこには確立しないのです。真の永遠の平和はただ、この世の国家が「われらの主とそのキリストとの国となった」時にのみ実現するものです。つまり「主は世々限りなく支配なさるであろう」という政治体制(クリストクラシー)が確立するところにのみ、本当の永遠の平和が実現するのです。
かつて、大平正芳という総理大臣がおりました。1980年に70歳で現職総理のまま亡くなった人です。旧制中学の時に四国の観音寺教会という改革長老教会で洗礼を受けたクリスチャンでした。「讃岐の鈍牛」などと揶揄され、いわゆる「大福三角」の軋轢に巻きこまれ、いろいろと誤解され、批判された総理大臣でしたが、宗教哲学に造詣が深く、歴史と永遠の関係性について良く理解していた、おそらく日本の憲政史上唯一の総理大臣でした。「国政に携わる政治家は永遠の御国(キリストの御国)を見据え、そこから歴史の救いという確固たるパースペクティヴを持って具体的な政治の諸問題に取り組むことが大切である。歴史的国家の最終目的地は『永遠の御国』である。政治家の理想もまた『永遠の御国』である。この視点と理念を欠いた政治は大衆迎合のポビュリズム、ないしは悪しきマキャベリズムに堕する」。だから彼は「永遠の今」(波多野精一)という神学的な言葉を座右の銘にしていました。同じクリスチャンでも、石破さんはどうでしょうか?。
今朝の18節に「諸国民は怒り狂いましたが、あなたも怒りをあらわされました」とございましたが、その意味はなにかと言いますと「諸国民は自らの罪によって唯一の永遠者であられる神に対して怒り狂ったけれども、主なる神はその罪を決してお見逃しになることはなく、全ての人を御子イエス・キリストによって救おうと欲したもうた」という意味です。言い換えるならば、人間の怒りはただ混乱を生むのみであり、神の聖なる御怒りは全ての人を救うためのものなのです。そして神は御子イエス・キリストの十字架による私たちの罪の贖いの御業によって、人間の怒り(虚しき秩序)の上に建てられている国家に永遠の御国へと向かって歩む新たな志を与えて下さるのです。それこそ大平正芳の言葉のとおり「歴史的国家の最終目的地は『永遠の御国』である。政治家の理想もまた『永遠の御国』である」のです。
最後の19節に心を留めましょう。「(19) そして、天にある神の聖所が開けて、聖所の中に契約の箱が見えた。また、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴と、地震とが起り、大粒の雹が降った」。使徒ヨハネは自分が見たままのことを証言しています。それは「天の聖所の中に契約の箱が見えた」という事実です。この「契約の箱」とはアブラハムに与えられた全人類と歴史全体に対する救いの完成の約束であり、その契約の補償として主なる神は「契約の箱」をお与えになりました。やがて歴史的国家につきものの政治的混乱によって、イスラエル国家はその「契約の箱」を失ってしまうのですけれども、しかしその契約の本体は(主体は)どこにあるかと申しますと、それはただ天の永遠の御国にあるのです。神のもとにあるのです。十字架と復活の主イエス・キリストと共にあるのです。そしてキリストの現在形としての聖霊と共にあるのです。
だからこそ、その救いの契約は絶対に無効になどならないのです。たとえ私たち人間が(地上の歴史的国家が)その契約の共同保持者(コントラクト)としての資格を失おうとも、主なる神は「契約の箱」を天の永遠の御国に確固として保持しておられる。そしてこの世界に、歴史の中に、私たち一人びとりに、救いの御業を現わして下さるのです。私たちはただ、その測り知れない神の永遠の御国(神の永遠の恵みの御支配)のもとにある僕たちです。そして神は必ず、この歴史全体を、歴史的世界を、救いの完成へと導いて下さるのです。祈りましょう。