説 教 詩篇63篇8節 ヨハネ黙示録11章1−14節
「神の御手のみ我を支う」 ヨハネ黙示録講解〔41〕
2025・07・20(説教25292128)
今朝、ヨハネ黙示録と併せてお読みした旧約聖書・詩篇第63篇8節に、このように記されておりました。口語訳でお読みいたします。「わたしの魂はあなたにすがりつき、あなたの右の手はわたしをささえられる」。この詩篇の御言葉を歌い上げた詩人は預言者であり、深い苦悩の中にいたのです。それはバビロン捕囚という、紀元前6世紀に起こったイスラエル最大の歴史的苦難の状況の中にありまして、預言者である詩人はみずからの存在が暴力的な力によって滅びに沈もうとしているのを感じました。それは自分の力ではどうすることもできない苦しみでした。しかしその苦難に際しまして、詩人は改めて「ただ神の御手のみ我を支う」恵みの真実を知る者とされたのです。自分の力はあまりにも無力であり、自分は無に等しい存在だ、しかし主なる神の恵みの御手(救いの御手)のみが、その無に等しい私を支え、慰め、力と勇気と平安を与えて下さる。私は無力であればあるほど(弱ければ弱いほど)たしかに、主の御手によって支えられている。それが詩篇63篇を歌い上げた預言者である詩人の揺るぎなき信仰でした。
私が東京の教会におります頃(ですから31年以上前のことですが)教会員にFさんという高齢の女性がおられました。彼女はほとんど眼が見えなかった人でした。しかし礼拝出席を一度も欠かしたことはなく、婦人会や祈祷会や修養会、あるいは家庭集会などの諸集会にもかならず彼女の姿がありました。彼女は17歳の時に原因不明の眼病(目の病)によって次第に視力を失いました。眼病に対する世間の目はまだ冷たい時代でして、彼女も彼女の両親も「親の因果が子に報いたのだ」などという世間の風評に晒されて深く傷つきました。あるとき「埼玉県の秩父に眼病に霊験あらたかな寺がある、そこに行って修行をすればきっと目が見えるようになる」と勧めてくれる人がいて、Fさんはそれこそ藁に縋るような思いでその寺に身を寄せて修行に励みました。
修行と申しましても、その寺では毎日夜明け前に起きて、井戸の冷たい水で水垢離をとるのだそうです。それが終わると本堂でひたすらにお経を唱えさせられるのだそうです。ともかくFさんは必死の思いでその辛い修行の日々に耐えたのです。しかしFさんの目は見えるようになるどころか、却ってますます悪くなる一方でした。ある日、それは日曜日の朝だったそうですが、Fさんは「今日は私の命日」と心に覚悟を決めたそうです。涙が溢れて止まらなかったそうです。そうしておりますと、遠くのほうから讃美歌を歌う声が聞こえたというのです。その歌声は私たちもよく知っております讃美歌87番でした。「恵みの光は、わが行き悩む、闇路を照らせり、神は愛なり」この「神は愛なり」という歌声にFさんの心はハッとさせられたのです。彼女はこう思ったのでした「もしかしたら、私はまだ本当の神様を知らないのかもしれない」。
そう思ったら、もう居ても立ってもいられなくなって、Fさんは寺の外に出て、その讃美歌の歌声を頼りに教会を探り当て、生まれて初めてキリスト教の礼拝に出席したのが日本基督教団の秩父教会の礼拝だったのです。私がよく「讃美歌の歌声は大きい方が良いのですよ」と申すのもここに理由があります。いつどこで、誰が聞いているかわからない、そしてその讃美歌の力強い歌声そのものが、伝道のわざになると私は思うのです。とまれ、その日からFさんのキリスト者としての新しい人生が始まりました。洗礼を受けたFさんはやがて学校の教師をしていたキリスト者の男性と結婚して、東京に住むようになりました。そしてご主人は病気のため早くに天に召されたのですが、Fさんは私が牧師をしておりました千歳教会の熱心な教会員として、本当に敬虔なキリスト者の生涯を全うなさったのです。
ところで、このFさんに会った人たちはみな異口同音に「あなたは目が不自由で一人暮らしで、とても心細いはずなのに、どうしていつもそんなに嬉しそうに微笑んでいられるの?」。するとFさんはいつも決まってこう答えました「それは、私が本当の神様を知っているからよ。あなたもぜひ教会の礼拝に出てみなさいよ。そうすればあなたも本当の幸せを得ることができるわよ。そうだ、次の日曜日、私と一緒に教会に行きましょう」。Fさんはそのようにして、たぶん生涯の間で100人ぐらいの人を教会へと導いたのでした。Fさんの葬儀のとき、私は彼女によって教会へと導かれ、洗礼を受けた人たちにたくさん出会いました。そして改めて、たった一人の女性が、本物のキリストの弟子になったとき、神はどんなに大きな御業を、祝福を、そのたった一人を通して世に現わして下さるかを改めて思わされたのです。
そこでもう一度、今朝の詩篇63篇8節の御言葉に心を留めましょう。「わたしの魂はあなたにすがりつき、あなたの右の手はわたしをささえられる」。私は思うのですが、私たちの信仰はときに「頭でっかち」のものになりすぎてはいないでしょうか?。小賢しい信仰(優等生的な信仰)になってしまってはいないでしょうか?。「キリストについて」「神について」「聖霊について」知識だけの信仰になっていることはないでしょうか。詩篇63篇の詩人の信仰は違いました。この預言者である詩人は文字どおり神に「縋りついた」のでした。幼い子供は何か怖いことがあると咄嗟に親の背後に身を隠しますよね。あれと同じように、理屈ではないのです、知識などではないのです、本当の信仰生活とは、生ける救い主なる神に「縋りつく」ことです。十字架と復活の主イエス・キリストに「縋りつく」ことです。いまここに集うている私たちもまた、人生の苦あらゆる難のただ中にあって、神に縋りつく僕たちとならせて戴いているのではないでしょうか。
信仰という字は「信じて、仰ぐ」と書きます。ギリシヤ語ではピスティス(真実)と言いますが、私はそれよりも「信仰」という日本語のほうがより深い意味を伝えていると思うものです。なぜかと申しますと「信じて、仰ぐ」という行為は、私たちが信ずる対象、仰ぐ対象が大切だからです。極論めいた言いかたをいたしますなら、信仰の主体は私たちにあるのではないということです。そうではなくて、信仰の主体はいつも十字架と復活の主イエス・キリストにあるのです。私たちの測り知れぬ罪のために、私たちの贖いのために、あの呪いの十字架におかかり下さり、ご自分の全てを献げ尽くして下さった、十字架と復活の主イエス・キリストにのみ、信仰の信仰たる主体(私たちの救いの根拠)があるのです。
今朝のヨハネ黙示録の中には、いろいろな苦難が教会に、そして私たち一人びとりに降りかかってくることが示されています。そして、降りかかってくる数々の苦難によって、私たちはいわば「篩にかけられる=真の信仰へと選別される」のではないでしょうか。それは旧約聖書エレミヤ書に記されている「残りの者」の信仰です。そして、その「残りの者」とは何かと申しますと、最後まで主に「縋りつき続けた」人々のことなのです。ですから今朝のヨハネ黙示録11章13節にはこのように記されています。「(13)この時、大地震が起って、都の十分の一は倒れ、その地震で七千人が死に、生き残った人々は驚き恐れて、天の神に栄光を帰した」。生きているより死んだ人たちのほうが幸いだとさえ思われる、そのような大きな苦難の中にありまして、生き残った人々は(残りの者たちは)「天の神に栄光を帰した」のです。ごれが大切なことです。
なぜかと申しますと、この「天の神に栄光を帰した」というのは、元々のギリシヤ語で申しますなら「唯一まことの神に自らの全存在を投げかけた」という意味だからです。すなわち「残りの者たちは、唯一の真の神に縋りつく者たちとなった」という意味なのです。それと同じように、私たちの人生にもいろいろな苦しみや、予期せぬ出来事や、悲しみが降りかかってくることがありますでしょう。人生という字は「予期せぬ苦しみの連続」と読むのではないかと、そう思えるほどに「あらずもがなの出来事」や矛盾やしがらみの多い私たちの人生です。それに加えて、私たちは自分の力では罪と死の現実に対して全く無力な者でしかありません。しかし、まさにそのような私たちだからこそ、主イエス・キリストは、黙ってあの恐ろしい呪いの十字架にかかって、死んで下さったのです。私たち全ての者のために、永遠の贖いを成し遂げて下さったのです。
まさにその、十字架と復活の主イエス・キリストに、私たちはいつでも、どこにいても、縋りついて離れない者たちにならせて戴こうではありませんか。主の御身体なる教会から片時も離れない信仰の生涯を貫こうではありませんか。日々、聖書の御言葉に親しみ、主日礼拝を、あたう限りこれを厳守し、祈りを熱くして主にお仕えする、その真面目にして健やかなるキリスト者の人生を、生涯にわたって熱く保ちゆくわれら一人びとりでありたいと思います。十字架と復活の主イエス・キリストは、いかなる時にも、私たちから離れたもうことはないのです。私たちを一瞬たりともお見捨てにならないのです。それならば、私たちはこのおかたに、日々喜んで、縋りつく信仰に、生きて参りたいと思うのです。そのとき、私たちの人生に、本当の幸いが、そして勇気と自由と平安が、与えられるからであります。祈りましょう。