説     教      エゼキエル書183032節  ヨハネ黙示録91321

                 「立ち帰って、生きよ」 ヨハネ黙示録講解〔39

                  2025・07・06(説教25272126

 

(13)第六の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、一つの声が、神のみまえにある金の祭壇の四つの角から出て、(14)ラッパを持っている第六の御使にこう呼びかけるのを、わたしは聞いた。『大ユウフラテ川のほとりにつながれている四人の御使を、解いてやれ』。(15)すると、その時、その年に備えておかれた四人の御使が、人間の三分の一を殺すために、解き放たれた。(16)騎兵隊の数は二億であった。わたしはその数を聞いた。(17)そして、まぼろしの中で、それらの馬とそれに乗っているものたちとを見ると、乗っている者たちは、火の色と青玉色と硫黄の色の胸当をつけていた。そして、それらの馬の頭はししの頭のようであって、その口から火と煙と硫黄とが、出ていた」。

 

 もしも「黙示録的な光景」が恐ろしい出来事を意味するのだとしたなら、今朝のこの913節以下の御言葉こそはその代表格かもしれません。ここには「第六の御使」がラッパを吹き鳴らすや否や、たちまちにしてユーフラテス川の岸辺に繋がれていた「四人の御使」が解き放たれて、二億騎という途方もない数の騎兵隊の戦士たちが「人間の三分の一を殺すために」出陣する様子が描かれているのです。そして17節を見ますと「そして、まぼろしの中で、それらの馬とそれに乗っているものたちとを見ると、乗っている者たちは、火の色と青玉色と硫黄の色の胸当をつけていた。そして、それらの馬の頭はししの頭のようであって、その口から火と煙と硫黄とが、出ていた」と言うのです。まさに戦慄すべき光景です。

 

更に続く18節以下にはこのようにございます。「(18)この三つの災害、すなわち、彼らの口から出て来る火と煙と硫黄とによって、人間の三分の一は殺されてしまった。(19)馬の力はその口と尾とにある。その尾はへびに似ていて、それに頭があり、その頭で人に害を与えるのである」。この「へび」というのは猛毒のコブラです。騎兵隊の馬の尾が猛毒のコブラとなって、夥しい数の人間を死に至らしめたというのです。

それと同時に馬の口から出る「火と煙と硫黄」によって、非常に多くの人々が焼き殺されたわけであります。言い換えるなら、これら「二億の騎兵隊」には前後左右どこにも死角というものが無いのです。全方位から人間を死に至らしめることができたというのです。いわば「仮借なき審きの様子」が描かれているわけであります。

 

 しかし、今朝の御言葉において、私たちが本当に注目すべきなのは最後の20節と21節なのではないでしょうか。そこを改めて口語訳でお読みしましょう。「(20)これらの災害で殺されずに残った人々は、自分の手で造ったものについて、悔い改めようとせず、また悪霊のたぐいや、金、銀、銅、石、木で造られ、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を礼拝して、やめようともしなかった。(21)また、彼らは、その犯した殺人や、まじないや、不品行や、盗みを悔い改めようとしなかった」。私たちは御使たちによる「仮借なき審きの様子」に驚いてはならないのです。本当に私たちが驚くべきことは、その「仮借なき審き」によってもなお、生き残った三分の二の人々が少しも悔改めようとしなかったことではないでしょうか。言い換えるならば、私たち人間の罪はそれほどまでに、しぶとく、根深く、そして、したたかなのです。人間は全人類の三分の一が死に至らしめられるほどの大災害に瀕してさえ、なお悔改めようとはしないのです。そして、その私たち人間の「したたかな罪」の本質を、今朝の黙示録の御言葉は「偶像崇拝」であると明らかにしているのです。

 

 私たちは「偶像崇拝」と聞くとき、具体的にどのようなことを心に思い描くでしょうか?。たとえば、寺院に行って仏像を拝むことや、神社で柏手を打って拝礼をすることなどを、たぶん多くの人たちは思い浮かべるのだと思うのです。もちろん、それらの行為も偶像崇拝のうちに数えられるでしょう。しかし、では、寺や神社に行って偶像を拝むことだけが「偶像崇拝」になるのでしょうか?。ずいぶん以前のこと、私がまだ東京の教会にいた頃のことですが、ある若い女性から相談を受けました。彼女の実家の先祖代々の墓に戒名が刻まれている。戒名というのは亡くなった人が仏弟子になったという前提の下で寺から与えられる法名のことですね。そこで彼女は思ったわけです、戒名が刻まれている墓石に向かって目礼をすることは偶像崇拝に繋がるのではないだろうか?。

 

 私は即座に彼女に言いました「そんなことはありませんよ」と。たとえキリスト者であっても、仏教の寺院にある先祖のお墓に向かって目礼をしても全然かまいません。それは偶像崇拝ではないと私は彼女に言いました。むしろ本当の偶像崇拝、聖書が私たちに禁じている偶像崇拝は、さらにもっと、人間存在の根深いところに潜んでいるのではないでしょうか。もしも目に見える偶像を拝むか拝まないかで偶像崇拝の度合いが測れるのなら、それはむしろ単純なこと(簡単なこと)でありましょう。私たち人間にとって偶像崇拝の罪が本当に根深いのは、それがむしろ表面に現れない、目に見えないところで犯される罪だからなのではないでしょうか。それは何かと申しますと、真の神を信じないことです。さらに言うなら、真の神を信じているふりをしながら、実は心の中では神以外のものを神として拝んでいることです。それこそ主イエスが言われた「二心の者」になっていることです。それこそが聖書が私たちに語っている「偶像崇拝の罪」なのであります。

 

 そういたしますと、実は私たちは、たとえキリスト者でありましても(事実として私たちはキリスト者なのですけれども)「私は偶像崇拝の罪をただの一度も犯したことはありません」と言い切れる人間はいないのではないでしょうか。先日、ロシアのプーチン大統領が、これは私はユーチューブで偶然見つけた動画なのですけれども、ロシアの若者たちとの対話の中で、ある青年がプーチンに「あなたはウクライナに侵攻したことを少しも後悔してはいませんか?」と訊ねたとき、プーチンはそれに答えてヨハネ伝87節の言葉で答えていました。「あなたがたの中で一度も罪を犯したことがない者が、まず彼女に(私に)石を投げなさい」と。そして真剣な顔で「これだけ言えば、あとはわかりますよね?」と答えていました。私はプーチン大統領を少し見直したのです。彼には偉いところがあると思いました。アメリカのトランプなどと較べても、プーチンのほうが数段、人間として格が上だと感じました。

 

 「あなたがたの中で一度も罪を犯したことがない者が、まず石を投げなさい」こう言われたとき、問われたとき(そして、これを問いたもうおかたはまさに十字架と復活の主イエス・キリストご自身なのですけれども)私たちは面目次第もない者たち(神の御前に立ち得ざる者たち)なのではないでしょうか。これはなにも国際関係の場面においてだけではありません。私たちの周囲にあるどのような人間関係、私たちの日常生活の中に起こるありとあらゆる問題の中で、私たちはえてして己正当化(自己義認)という名の偶像を簡単に拝んでしまう者たちなのではないでしょうか。だからこそ使徒パウロはローマ書やコリント書やピリピ書などの書簡において、私たち人間の自己義認の罪を繰返し指摘しているのではないでしょうか。

 

 さらに、このように言うこともできるでしょう。私たちはキリストの救いの御力を本当には知らないのではないか。あるいは、それを知らない者のように生きているのではないでしょうか。キリストについて知ったかぶりをしているだけで、自分の全生活を委ねる信仰にはなっていないのではないでしょうか。もっと言うならば、私たちはキリストの恵みの御力を見損なっているのではないでしょうか。過小評価しているのではないでしょうか。それもまた私たちの心の中に住み着いている偶像崇拝の罪の結果として起こることです。では、どのようにしたら私たちは偶像崇拝の罪から自由な者になれるのでしょうか?。

 

 今朝、あわせてお読みした旧約聖書のエゼキエル書1831節と32節を心にとめましょう。「(31)あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。(32)わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。私がまだ神学校におりました頃、学び始めたヘブライ語で旧約聖書が読めるのが嬉しくて、エゼキエル書のこの「翻って生きよ」と訳された元々のヘブライ語原文を丹念に調べたことがありました。元々のヘブライ語ではここに「立ち帰る」という動詞が用いられています。それで新しい共同訳聖書では「立ち帰って、生きよ」と訳されています。この訳が最も良いと思いました。どこに、誰に、私たちは立ち帰るのでしょうか?。十字架と復活の主イエス・キリストにであります。さらに申しますなら、十字架と復活の主イエス・キリストによって、真の神に立ち帰るのです。それが「翻って生きる」ことです。

 

 まさにこの「立ち帰り」こそ「悔改め」のことなのです。悔改めとは私たちがキリストの恵みの御手に自分の全てを委ねることです。投げかけることです。頭だけの、知識だけの信仰生活ではなくて、具体的に、生活の全ての局面において、キリストのみが主であられ、救い主であられることを信じ、告白することです。「主よ、私はいまこういう問題に直面しています。それを思うとき、私は自分が無力でしかないことを知ります。主よどうか、私のために最善の道をお示し下さい。そして、私がその道を喜んで、勇気をもって、あなたと共に、歩んでゆくことができますように、導いて下さい」。このような祈りを毎日、私たちは祈り続ける幸いを与えられているのではないでしょうか。十字架と復活の主イエス・キリストは、いつもあなたと共にいて下さるのです。そして「立ち帰って、生きよ」と告げて下さるのです。祈りましょう。