説     教           ヨブ記266節  ヨハネ黙示録9112

                   「嵐の中の教会」 ヨハネ黙示録講解〔38

                 2025・06・29(説教25262125

 

(1)第五の御使が、ラッパを吹き鳴らした。するとわたしは、一つの星が天から地に落ちて来るのを見た。この星に、底知れぬ所の穴を開く鍵が与えられた。(2)そして、この底知れぬ所の穴が開かれた。すると、その穴から煙が大きな炉の煙のように立ちのぼり、その穴の煙で、太陽も空気も暗くなった。(3)その煙の中から、いなごが地上に出てきたが、地のさそりが持っているような力が、彼らに与えられた」。

 

 今朝の説教題を「嵐の中の教会」といたしました。私は葉山教会に赴任させて頂いてから31年目の夏を皆さんと共に迎えているわけですが、赴任してちょうど一週間後ぐらいのことだと記憶しておりますが、いわゆる「春の嵐」(春一番)と言うのでしょう、かなり強い風が吹きました。元の古い礼拝堂、古い牧師館のときで、牧師館などは嵐のためにギシギシと音を立てて揺れました。私はそれまで東京の教会にいたものですから、この突然のかなり強い風に(嵐に)すっかり驚いてしまいました。ところがテレビのニュースや天気予報を見ても、特に嵐についての報道がなされていない。そこでようやく、ああ、この嵐は葉山とその周辺の海辺だけに吹いているのだなとわかった、それ以来もう何百回もそのような嵐を経験してきているのですが、赴任したての頃、そういうことがあったわけであります。

 

 そこで、これなどは文字どおりの「嵐の中の教会」ですけれども、教会に襲いかかる嵐は、自然現象としての大風だけにとどまらないわけでありまして、私はよく長老や執事の皆さんに冗談まじりに「葉山教会は風当たりの強い教会ですよ」と申すのですけれども、教会というものは、本当に、真剣に、神学的に、一筋に、ただキリストの主権のみを現わしてゆく主の教会(それこそ言葉の正しい意味での“The Church”)として立ち続けてゆこうとするとき、そこには実に様々な意味でのこの世の嵐が(試練が)襲いかかって来るわけです。その意味では、私たちのこの葉山教会は、いまこの現時点においてもまさに「嵐の中の教会」なのだと申さねばなりませんし、また、その嵐との戦いは、教会がこの歴史的現実世界のただ中にあって、ただキリストの主権のみを現わしてゆく群れであり続けようとする限り、終末の日(救いの御業の完成の日)まで続くものではないでしょうか。

 

 そしてそのとき、いまここに集うている私たち一人びとりに問われておりますことは、これは去る54日(日)の主日礼拝の説教の箇所でしたが、同じヨハネ黙示録の71節以下の御言葉を改めて思い起こしたいと思うのです。そこには4人の御使が(天使たちが)「地の四すみに立って」四方から吹き付けて来る嵐から教会を護っている姿が描かれています。先週の講壇交換のおり、浜北教会でもその箇所で説教をしたのですけれども、この御言葉において私たちが教会の主から受け取ったメッセージは「ここにいる私たちもまた、教会を嵐から護る天使たちとして立てられている」という事実でした。ですから(これはとても大切なことですが)新約聖書において「御使(天使)」とは「キリストの恵みの主権のみを現わすために教会に使える奉仕のわざ」を意味するのです。まさに12世紀のイタリアの神学者トマス・アクィナスが語ったように「教会の奉仕のわざ、それは天使的職務」なのです。

 

 そこで改めて、今朝の御言葉の1節から3節を読み返してみましょう。「(1)第五の御使が、ラッパを吹き鳴らした。するとわたしは、一つの星が天から地に落ちて来るのを見た。この星に、底知れぬ所の穴を開く鍵が与えられた。(2)そして、この底知れぬ所の穴が開かれた。すると、その穴から煙が大きな炉の煙のように立ちのぼり、その穴の煙で、太陽も空気も暗くなった。(3)その煙の中から、いなごが地上に出てきたが、地のさそりが持っているような力が、彼らに与えられた」。ここには、実に恐ろしい出来事が記されています。ひとつの星が天から地に落ちて来るような、恐ろしい天変地異が起ったのです。

 

譬えるなら、これは巨大な隕石のイメージでありましょう。もちろん地上には大きな穴が(クレーターが)開きました。アメリカのアリゾナ州に有名な「バリンジャー隕石孔」というのがあります。直径1200メートル、深さ200メートルの巨大な隕石孔です。地質学者や物理学者たちの推測によれば、あの巨大な隕石孔を作ったのは直径30メートルほどの隕鉄であったそうです。それが推定時速4万キロで地表に衝突し、約17,500万トンの岩石を吹き飛ばしたと言われています。しかしバリンジャー隕石孔などはまだ序の口でして、それよりも遥かに大きな隕石孔がメキシコのユカタン半島で発見されました。6,604万年前に巨大な隕石の衝突によってチクシュルーブ・クレーターと呼ばれる巨大隕石孔が作られました。あまりに大きな隕石が、しかも海に落ちたので、発見されたのが1977年でした。直径がなんと160キロに及ぶそうです。そして何よりも、この巨大隕石の衝突によって地球全体が数百年ものあいだ氷点下の世界になり、その結果として恐竜が絶滅したと言われているわけであります。

 

 そこで、これらはすべて自然現象です。いわば、葉山教会にしばしば襲いかかる嵐や台風と(その規模は違いますが)自然現象としては同列のものです。しかし、ヨハネ黙示録が書かれた時代(2世紀の前半)におきまして、当時のローマ帝国のアジア州にあった7つの教会(エペソ教会、スミルナ教会、ペルガモ教会、テアテラ教会、サルデス教会、ヒラデルヒア教会、ラオデキヤ教会)が経験した嵐は、キリストの主権のみを現わそうとする主の教会が、罪の力(罪の勢力)によって大きな試練を受けたことでした。これら7つの教会は誕生して間もない、小さな群れにすぎませんでした。家庭集会のような教会でした。礼拝堂さえ持てなかったかもしれない。しかしこの7つの諸教会は使徒ヨハネの指導のもと、キリストの恵みの主権のみを世に現わそうと全力で務めた教会でした。まさに「天使的職務」に忠実な群れでした。

 

 いつの時代にも、どこの国においても、十字架と復活の主イエス・キリストの恵みの主権のみを世に証ししようとする教会は、歴史においては激しい嵐にさらされるのではないでしょうか。なぜなら、罪が(悪魔が)この世の主権を執ろうとしているからです。罪の支配にとっては、キリストの主権のみを現わそうとする教会はいちばん邪魔な存在です。だから最初に叩き潰そうとするのです。主イエスは「あなたがたは二人の主人に兼ね使えることはできない」とおっしゃいました。私たちは教会に連なる者たちです。教会は十字架と復活のキリストの御身体です。それならば、私たちは恵みによってキリストの御身体の肢体とされた者たちです。肢体は(手も足も、目も口も鼻も)ただひとつの頭を戴く存在です。その唯一の頭(主)こそ、十字架と復活の主イエス・キリストです。それならば、私たちは主の御身体なる教会に連なることによって、この世界と歴史が(そして私たち個々の人生もまた)神の愛による恵みの御支配のもとにあることを宣言する者たちなのです。

 

 この世界は、この歴史は、そして私たち一人びとりの人生もまた、罪の支配のもとにあるのではない。悪魔が私たちの頭なのではない。そうではなくて、私たちのこの歴史的可視的世界は、常に神の永遠の愛に基づく恵みの御支配のもとにあるものである。それと同じように、私たちの存在と人生もまた、神の永遠の愛に基づく恵みの御支配のもとにあるものである。このことを御言葉と聖霊によって心の奥深くに刻み、恵みによって新たにされた存在としてこの歴史の中を歩む幸いと真の自由を、私たちは与えられているのではないでしょうか。まさにキリスト者の人生を生きる者たちとされているのです。私たち一人びとりが、教会を嵐から護る天使とならせて戴いているのです。だから、私たちは失望しません。たとえどのような嵐が人生に吹き荒れようとも、勝利させて下さる唯一のおかたがどなたであるかを、私たちは既に知っているからです。

 

 十字架と復活の主イエス・キリストこそ、永遠に変わることのない私たちの唯一の主であられます。そして教会の唯一の頭であられます。このかたが、私たちの救いのために、私たちを罪の支配から贖うために、あのゴルゴタにおいて呪いの十字架をご自身の身に引き受けて下さいました。ただ主イエス・キリストのみが、私たちの唯一の贖いとなって、十字架上に死んで下さり、墓に葬られて下さいました。ただこのかたのみが陰府にまで降って、罪の支配のもとにある私たちに真の自由と平安を与えて下さいました。このかたが、このかたのみが、私たちの永遠の主であられ、まことの神であられるのです。

 

バリンジャー隕石孔どころの話ではありません。ユカタン半島のチクシュルーブ・クレーターどころではない。歴史を呑みこもうとする陰府の力をも、十字架と復活の主イエス・キリストは完膚なきまでに打ち砕いて下さったのです。だから、いみじくもルターが語ったように「陰府の長もなど恐るべき」それが私たちの讃美の歌声となるのです。このことをいつも、喜びと感謝をもって憶えつつ、ただキリストの主権のみを現わすまことの教会形成のわざへと、真の伝道のわざへと、邁進してゆく私たち葉山教会員でありたいと思います。祈りましょう。