説     教          詩編7328節  ヨハネ黙示録18

                「教会を嵐から護る天使」講壇交換 浜北教会にて

                2025・06・22(説教25252124

 

(1)この後、わたしは大地の四隅に四人の天使が立っているのを見た。彼らは、大地の四隅から吹く風をしっかり押さえて、大地にも海にも、どんな木にも吹きつけないようにしていた。(2)わたしはまた、もう一人の天使が生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上って来るのを見た。この天使は、大地と海とを損なうことを許されている四人の天使に、大声で呼びかけて、(3)こう言った。『我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない』。(4)わたしは、刻印を押された人々の数を聞いた。それは十四万四千人で、イスラエルの子らの全部の部族の中から、刻印を押されていた」。

 

 葉山教会では昨年の91日より、ヨハネの黙示録を通して連続して福音の御言葉を聴いています。今朝この東海連合長老会の講壇交換日にあたりまして、浜北教会の主にある兄弟姉妹たちと共に、この第71節以下の御言葉を学びたいと願わされました。ご存じのとおり、ヨハネ黙示録はたいへんドラマチックな描写に満ちているものですが、これを映画や小説に譬えますならば「いよいよ佳境に入ってきた」という感じを受ける、それがこの第7章でございます。

 

ヨハネの黙示録は、西暦2世紀の終わりごろ、当時のローマ帝国アジア州にあった7つの教会(エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキア)これら7つの教会はローマ帝国による激しい迫害の嵐に晒されていたわけでありますが、まさにその迫害の嵐の渦中にあったこれら7つの教会に対しまして、キリストの使徒ヨハネが復活の主から天使を通じて聞いた慰めと励まし、そして救いの約束の成就の御言葉を書き記したものです。

 

そこで、このヨハネ黙示録の福音の御言葉において、今朝のこの第7章で私たちが与えられております御言葉は1節にございましたように「この後、わたしは大地の四隅に四人の天使が立っているのを見た。彼らは、大地の四隅から吹く風をしっかり押さえて、大地にも海にも、どんな木にも吹きつけないようにしていた」という御言葉です。これは、イメージとして実に明確な御言葉でありまして、ここではローマ帝国による迫害の嵐が「大地の四隅から吹く風」に譬えられているわけです。その激しい迫害の嵐から、主の教会を(そしてもちろん、主の教会に連なる全ての人々を)護るために「四人の天使」が「大地の四隅に立って」その嵐を身に引き受けている、自らが盾となり風除けとなって、自分を犠牲にして「大地の四隅から吹く風」を引き受け、7つの主の教会を激しい嵐から護っている、そういう明確なイメージがここでは明らかにされているわけです。

 

話は変わりますが、私は16歳から18歳までの3年間を上州(群馬県)前橋の農学校で過ごしました。ご存じのかたもおられるかと思いますが、上州というところは春から秋にかけてはまことに気候の良い過ごしやすい土地なのですが、11月の終わりから2月にかけて、冬になりますと「赤城おろしの空っ風」と申しまして、非常に冷たい、そして激しい風が毎日のように吹きます。いわゆるフェーン現象でして、日本海から谷川連峰を超えて来る乾燥した冷たい風が、関東平野の喉元にある赤城山の山すそに吹き荒れるわけです。風除けがありませんと農作物が凍って枯れてしまいます。寒さに強いはずの白菜やサヤエンドウでさえ凍って枯れてしまうのです。湿度があれば植物の表面に氷の被膜ができるのですが、乾燥した寒風は容赦なく植物を枯らしてしまうのです。そのような過酷な冬の嵐から、いかにして農作物や果樹園の木を護るか、それが上州の冬の農業の大きな課題でした。

 

 なにを申したかったかと言いますと、農学校で学んだことがある私には、ほとんど経験値として、今朝の御言葉の「大地の四隅に四人の天使が立っているのを見た。彼らは、大地の四隅から吹く風をしっかり押さえて、大地にも海にも、どんな木にも吹きつけないようにしていた」という状況が理解できるのです。ようするにこれら4人の天使たちは、主の教会を嵐から護るために、みずからが風除けとなって(激しい嵐を自分の身に引き受けて)「大地の四隅に立っていた」わけです。言い換えるなら、彼ら4人の天使たちが「大地の四隅に立っていた」理由は、いつ、どこから、激しい嵐が襲ってきても、すぐに反応して(すぐに立ち上がって)みずからが風除けとなり主の教会を護るためでした。だからこれら「四人の天使たち」は決して眠らないのです。申すまでもなく「天使」というのは神ではなく人間です。パスカルの言葉で申しますなら「神と人間との中間的存在であるが、決して神性を持たない存在」(つまり教会に仕える人間、もしくは主に使える教会の働きそのもの)を黙示録では「天使」と呼んでいるのです。神の御心を世に行い、救いの福音を歴史の中に宣べ伝えるために、眠ることなく働く奉仕者(アンゲロス=メッセンジャー)が天使なのです。

 

 そういたしますと、どういうことになるのでしょうか?。今朝の説教題を「教会を嵐から護る天使」といたしました。その「天使」とは、いったい誰のことなのでしょうか?。東京の四谷にエンデルレ書店という、ドイツ語のカトリックの神学書専門の書店があります。もう40年以上も前のことですが、私は当時、東京の青山教会の牧師をしておりまして、1時間ぐらい歩けば四谷に行けたものですから、エンデルレ書店にもよく通ったものです。そこに行きますと「天使学=Angelologie」と書いた書棚があります。そこの本を手に取ってみますと、天使にも階級があるんだとか、大天使はミカエル、ラファエル、ガブリエル等々だとか、堕落した天使は悪魔になるんだとか、そんなことが書いてある。カトリック神学というのはこんな無意味なことを学ぶものかと思いました。天使とはそういうものではないのです。天使とは端的に(そして聖書的に)申しますなら主の教会への奉仕者のことなのです。皆さんの浜北教会で申しますなら、牧師たる小林勉先生はもちろんですけれども、長老たち、執事の皆さん、そしてここに集っているみなさん全員が「天使」と呼ばれているのです。ですから12世紀の神学者トマス・アクィナスは「教会の職務は天使的職務である」と申しました。そしてトマス・アクィナスは亡くなった後で教会から「天使的博士=angelici doctoris」という称号で呼ばれるようになったのです。それは言い換えるなら「主の教会を嵐から護る天使の職務を果たした人」という意味です。

 

 それは、トマス・アクィナスだけが冠せられるべき称号なのでしょうか?。そうではないと思います。まさにいまここに集うている一人びとりこそが“天使的存在=servus domini angelici”として立てられているのではないでしょうか。つまり、ここに集うている皆さん全員が“servus domini angelici”(主の教会のために奉仕する天使的職務を担う人々)とされているのではないでしょうか。そして私が仕えております葉山教会もそうですが、この浜北教会の歴史を振り返ってみましても、たくさんの信仰の先達たちが、まさに「雲のごとき主の証人たち」が「主の教会のために奉仕する天使的職務を担う人々」として、信仰の生涯を歩み、永遠の御国へと召されました。いま地上における(歴史における)信仰の歩みをしている皆さん一人びとりもまた、その歩みを受け継いでゆくその一人とされているのです。

 

 「教会を嵐から護る天使」たちに求められていること、それは「決して持ち場から離れないこと」です。言い換えるなら、逃げないことです。主から受けた務めを放棄しないことです。もし風除けがそこから逃げてしまったら、もはや風除けにはなりません。そこに健やかに立ち続けるからこそ「教会を嵐から護る天使」になれるのです。そして、皆さんの浜北教会が、真の伝道を行う教会である唯一の道もまた、そこにあるのではないでしょうか。たとえ集まる人たちの数は少なくても、そこに生き生きとした「教会を嵐から護る天使」たちの祈りと志が満ち溢れているならば、この浜北教会は真の伝道教会であり続けることができるのではないでしょうか。なぜなら、教会員全体が「教会を嵐から護る天使たち」であり続けているとき、そこに初めて礼拝に出席した人にの心に「ここは世の中のどんな場所とも違う、素晴らしい何かがある場所だ」という印象を残すからです。そして、その「素晴らしい何か」こそ十字架と復活の主イエス・キリストとの出会いにほかなりません。

 

 ヨハネ黙示録が宛てられたローマ帝国アジア州にある7つの教会(エフェソ教会、スミルナ教会、ペルガモン教会、ティアテラ教会、サルディス教会、フィラデルフィア教会、ラオディキア教会)もまた、この世的に見るなら、とても小さな群れにすぎませんでした。しかし「教会を嵐から護る天使たち」がそこには満ち満ちていたのです。だから、迫害の嵐によっても教会は倒れませんでした。護られたのです。そこに真の礼拝が献げられ、御言葉の説教が生き生きと宣べ伝えられ、聖餐と洗礼の2つの聖礼典が、主のお命じになったとおりに行われたのです。救われる者の数がまし加えられてゆきました。御言葉に基づくキリスト者たちの新しい生活がそこに始まっていきました。それがやがて全ヨーロッパへと拡がり、2000年の後にこの浜北の地にも伝えられたのです。どうか改めて感謝と讃美とともに心に刻みましょう。ここに集う全ての人たちが「教会を嵐から護る天使」とされているのです。そこにこそ、私たちの変わらぬ喜びと感謝があるのです。祈りましょう。