説 教 エゼキエル書38章22−23節 ヨハネ黙示録8章7−13節
「四人の御使の告知」ヨハネ黙示録講解〔37〕
2025・06・15(説教25242123)
「(7)第一の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、血のまじった雹と火とがあらわれて、地上に降ってきた。そして、地の三分の一が焼け、木の三分の一が焼け、また、すべての青草も焼けてしまった。(8)第二の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えさかっている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして、海の三分の一は血となり、(9)海の中の造られた生き物の三分の一は死に、舟の三分の一がこわされてしまった。(10)第三の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が、空から落ちてきた。そしてそれは、川の三分の一とその水源との上に落ちた。(11)この星の名は『苦よもぎ』と言い、水の三分の一が『苦よもぎ』のように苦くなった。水が苦くなったので、そのために多くの人が死んだ」。
今日はペンテコステの次の主日で、教会暦の上で申しますなら「三位一体主日」と呼ばれる日曜日になります。今では知りませんが、かつてはドイツなどではこの日は国民的な祝日となっていました。ただの祝日ではありません。「今日は三位一体主日だから、みんな教会に行こうではないか」というような雰囲気があったのです。話は違いますが、熊野義孝先生の地上における最後の言葉(臨終の言葉)は「三位一体の神は素晴らしい」であったということを、先日天に召された鳥羽和雄先生から私は直接に伺って感銘を受けたことがあります。それはまことに熊野先生らしい臨終の言葉であったと思います。そこでこそ改めて問われていると思います。いまここに集うている私たちもまた「三位一体の神は素晴らしい」と心から言える、そのような信仰生活をしているかどうかということです。
今朝の御言葉であるヨハネ黙示録の第8章7節以下を見ますと、たいへん恐ろしいことが書かれています。七人の御使(天使たち)が次から次へとラッパを鳴らすたびに、この歴史的な世界のただ中に次から次へと恐ろしいことが起る、その具体的な様子が記されているのです。私が特に印象ぶかく読みましたのは11節です。「この星の名は『苦よもぎ』と言い、水の三分の一が『苦よもぎ』のように苦くなった。水が苦くなったので、そのために多くの人が死んだ」とあることです。この「苦よもぎ」とはロシア語で申しますならチェルノブイリです。
皆さんもご存じのように、1986年4月に起った大規模な原子力発電所の爆発により、現在のウクライナのキーウ州チェルノブイリ周辺の半径百キロの地域が文字どおり「死の街」(死の森)になりました。そればかりではありません。2011年の3月11日に東北地方を中心に起こった東日本大震災によって、津波や地震による被害はもとより、福島第二原子力発電所が全電源喪失状態となり、その結果として原子炉建屋が次から次へと水素爆発を引き起こし、広範囲な地域に住む人々が避難を余儀なくされた、そうした恐ろしい出来事の記憶は、まさに日本に住む私たちの心にも昨日のことのように残っているのではないでしょうか。
そういたしますと、今朝の説教題を「四人の御使の告知」としましたけれども、そしてまだ御使の告知は続くのですけれども、天使のラッパの音と共に引き起こされた数々の恐ろしい出来事は、これは決して他人事でも絵空事でもないのでありまして、まさに現代のこの世界に生きる私たち一人びとりへの告知そのものであると申さねばなりません。今朝の御言葉には繰り返し「三分の一」という言葉が出てきます。地の三分の一、木の三分の一、海の三分の一、水の三分の一、これはもう世界そのものと言ってよいでしょう。チェルノブイリ周辺の百キロ、福島第二原発周辺の20キロどころの話ではないのです。この世界の三分の一が損なわれてしまう、生存不可能なものになってしまう、つまり途方もない大苦難、大患難が私たちに降りかかってくる、そのような出来事がここには記されているわけです。
そこで、この大苦難、大患難とは、いったい何を意味しているのでしょうか?。端的にはっきりと申しますなら、それは私たち人間の、主なる神に対する罪の姿(罪の本質)を現しているのです。1944年6月6日に有名な「ノルマンディー上陸作戦」がありました。連合軍とドイツ軍がノルマンディーの5つの海岸で激突した戦闘ですが、最も大きな被害を出したオマハ海岸では米軍の約三分の一の死傷者が出たそうです。そしてこの「三分の一の死傷者」というのは、生き残った兵士たちの実感としては「ほとんど全滅に近い損害」であったそうです。このような戦争もまた、人間の罪の結果として生じます。それと同じように、今朝のヨハネ黙示録の第8章7節以下においても、そこに明確に現わされておりますのは、私たち人間が例外なく、主なる神に対して罪人であり、その罪の支配(罪と死の猛威)に対しては、私たち人間はまったく無力でしかないという事実ではないでしょうか。
そこで、先ほどの熊野義孝先生の臨終の言葉「三位一体の神は素晴らしい」に戻ります。なぜ「三位一体の神は素晴らしい」のでしょうか。それは4世紀の教父アタナシウスが語っておりますように「神は、父なる神として世界と私たちとを創造され、御子なる神(主イエス・キリスト)として常に私たちと共にいまし、聖霊なる神としてこの世界を救いへと導きたもう」おかただからです。これを言い換えますならば、創造主であられる神は同時に救い主でもあられるということです。これはひとつの例えですけれども、ここに2台の車があるとします。一台はAという自動車メーカーが作ったもので、もう一台はBという自動車メーカーが作ったものです。Aの車は故障してもアフターケアがしっかりしているので何の心配もありません。すぐに修理してくれます。しかしBの車はどうかと言いますと、作りっぱなし、売りっぱなしで、なんのアフターケアもしてくれません。みなさんなら、どちらの車を信用するでしょうか?。もちろんAの車ではないでしょうか。
それと同じように、主なる神は創造主であられると同時に、私たちの救い主であられるのです。神は私たちを創造されて、放り出してしまわれるようなかたではないのです。最後の最後までアフターケアをして下さいます。もっと言うなら、私たちの全存在、全生活に対して、最後の最後まで責任を取って下さいます。さらに言うならば、主なる神は三位一体なる神でありますから、私たちとこの世界を、その罪のゆえにお見捨てになることは絶対になさらないのです。むしろ逆に、私たちが罪深ければ罪深いほど(そして事実、私たちは誰もが『罪人のかしら』なのですけれども)主なる神は三位一体なる神として、私たちとこの世界を必ず救いへと導いて下さるおかたなのです。
今日の御言葉の中に繰り返し「三分の一」の滅びが出て参ります。私たちは単純に思います「三分の一、三分の一と、繰返しているうちに、それは全ての者の滅びになるのではないだろうか」。そのとおりかもしれません。もし実感的に言うなら、たとえ三分の一であっても「ほとんど全滅に近い」のですから、それが幾度も繰返されるとき、この世界の文字通りの全滅になるのではないか、そういう危惧を私たちが抱くのは当然なのです。しかし、そこでこそ私たちは思い起こしたいのです。今朝の告知は誰が告げましたか?。それは「四人の御使(天使)の告知」です。そして天使とはいったい何かと言うなら、それはヨハネ黙示録においてはキリストの御身体なる真の教会は働きのことなのです。そして、キリストの御身体なる真の教会(聖なる公同の使徒的なる教会)における働きとは何かと言うなら、それは十字架と復活の主イエス・キリストによる救いの御業なのです。
それこそ繰返し思い起こしましょう。「四人の御使の告知」はいったいなにを告げるのか?。それこそ「十字架と復活の主イエス・キリストによる救いの御業」の確かさを私たち全ての者に告げるのです。言い換えるならば、どんなことが起ろうとも、あなたたちは恐れる必要はない。私はいつも、いかなる時にも、あなたと共にいて、あなたを救うからだ。私はあなたの救いと生命のために、あのゴルゴタにおいて、十字架にかかって、墓に葬られたではないか。あなたは、私が贖い取った、かけがえのない大切な人ではないか。そのように主は、三位一体の神は、はっきりと語り告げていて下さるのです。
そこにこそ、そこにのみ、私たち全ての者の真の救いがあります。だからこそ「三位一体の神は素晴らしい」のです。「四人の御使の告知」もまた、その恵みの事実を私たち全ての者に宣べ伝えているのです。祈りましょう。