説     教           ヨエル書22829節  ヨハネ福音書1526

                「真理の御霊」 ペンテコステ礼拝

                2025・06・08(説教25232122

 

(26)わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについて あかしをするであろう」。私たちの主イエス・キリストは、私たちに「真理の御霊」をお遣わしになることを約束して下さいました。それは「わたしについてあかしをする」聖霊であると主ははっきりとおっしゃいました。すなわちそれは、私たち全ての者にキリストを知らしめて下さる「真理の御霊」です。復活の主イエス・キリストは御父なる神のみもとから「真理の御霊」である聖霊をお遣わし下さるのです。

 

 私たち現代人は「真理」という言葉に対して心が曖昧になっています。「真理と聞くとなにか胡散臭さのようなものを感じる」と言った人もいました。それはなぜかと申しますと、私たち現代人は良きにつけ悪しきにつけ、個人主義的なものの考えかたに慣れておりますから、人間の数だけ真理があるものだと漠然と考えている。つまり、ある人にとっては真理であるものが、他の人にとっては真理でも何でもない、ということがごく当然のようにあると考えているわけです。そうしますと100人の人間がいれば100通りの真理が存在することになりますし、その100通りの真理は融通性(普遍性)を持たない個別の価値観だということになるのです。

 

 しかし今朝のペンテコステ礼拝におきまして、私たちが聖書を通して受けている確かな音信は、そのような普遍性を持たない個別の(それこそ胡散臭い)真理ではなくて、唯一の絶対の真理が、あなたの救いのために存在するのだという福音の告知なのです。しかも、なぜそれが「真理」と呼ばれるかというと、それが「わたし(救い主イエス・キリスト)についてあかしをする」ものだからであると、主イエス・キリストははっきりと教えて下さるのです。言い換えるならば、福音が「真理」であると呼ばれるのは、それが十字架と復活の主イエス・キリストを証しするものだからです。さらに言うなら、その真理である福音によってのみ、私たちは罪の贖いと赦しと救い、そして永遠の生命へと導かれるわけでありまして、それは絶対的な唯一の「真理」でありますゆえに、今朝のヨハネ福音書1526節における「真理」は単数形で記されています。

 

それは英語で申しますなら“The only absolute truth”であり、ドイツ語で申しますなら“Die einzige, uneingeschränkte Wahrheit”です。ともに定冠詞がつくのです。他に類似のものなどどこにもない、あなたを救う唯一絶対の真理、それは十字架と復活の主イエス・キリストであると証ししているのです。それこそが聖霊であり、その聖霊のことを今朝の御言葉では「真理の御霊」と呼んでいるわけであります。そこで、聖霊とは一体なんでありましょうか?。ずいぶん以前のことですが、私はある女性のかたに「先生、聖霊というのは、森永のエンジェルのような姿をしているのでしょうか?」と訊かれたことがありました。私はすぐにそのかたに「いいえ、あれはローマ神話のニンフ(精霊)のことであって、聖霊とはそういうものではありません。聖霊はキリストの現在形ですよ」と答えました。この「聖霊とはキリストの現在形である」という言葉は、そのとき私が咄嗟に思いついた表現なのですけれども、これは最も正しく聖霊を説明している言葉であると自負しております。

 

 言い換えるならば、私たちはいったい、どの時制において、どのようなキリストに出会うのでしょうか?。もっと言うならば、私たちはどのようなキリストに出会うことによって救われるのでしょうか?。過去のキリストでしょうか?。それとも未来のキリストでしょうか?。もしも「過去のキリスト」に私たちが出会うとすれば、それは過去のキリストに思いを馳せて記念することにはなっても、いま現在の私たちの救いとはならないでしょう。また、もしも私たちが「未来のキリスト」に出会うのだとすれば、いまはまだそのキリストは私たちと共におられないことになるわけで、それも私たちの救いとはならないのです。そうではなくて、私たちは聖霊によって、いま現在のキリストに出会う者たちとされているのです。なぜならば、聖霊はキリストの現在形だからです。

 

 私たちの救いのために(私たちの測り知れぬ罪の贖いと赦しのために)あのゴルゴタの呪いの十字架にかかって生命を献げて下さった神の御子イエス・キリスト、そして私たちの救いのために墓から復活して父なる神のみもとに昇られた復活の主イエス・キリストは、いま聖霊によって現在形の救い主として、私たちといつも共にいて下さるのです。そしてこの私たちの教会は、まさにこの現在形のキリストが救いの御業を世に現わして下さっておられる場所です。だからこそ教会は(そしてそこに連なる私たち一人びとりもまた)「聖霊の宮」と呼ばれるのです。そのように改めて心にとめるならば、たとえば使徒信条において「われは聖霊を信ず」のすぐあとに「聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず」と続くことには大きな深い意味があるのではないでしょうか。

 

すなわち「聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず」これは、主なる神が聖霊によって現在形であられる十字架と復活の主イエス・キリストによって、いま現在のこの歴史的世界に現わし続けていて下さる救いの御業の全てを凝縮した言葉(信仰告白=Omologein)です。ですから1890年(明治23年)の「日本基督教会信仰の告白」も「我らもまた聖徒がかつて伝えられたる信仰の道を奉じ、讃美と感謝とをもってその告白に同意を表す」とあり、そののちに使徒信条が告白される構造になっています。大切なのはこの「同意を表す」という言葉です。私たちは「真理の御霊」である聖霊(すなわち現在形であられるキリスト)によってのみ、十字架と復活の主イエス・キリストの御業に「同意を表す」者たちとされるからです。そしてその「同意を表す=Omologein」という言葉がそのまま信仰告白を意味する言葉になりました。

 

今朝あわせてお読みした旧約聖書のヨエル書228節に改めて心を留めましょう。「その後、わたしはわが霊を、すべての肉なる者に注ぐ。あなたがたの息子、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る」。これは横浜海岸教会(私たち葉山教会のルーツになった教会です)の庭にある小さな石碑に刻まれている聖句です。もともとその場所には、オランダ改革派教会系のアメリカ人宣教師であったジェームス・ハミルトン・バラ(James Hamilton Ballagh 1832-1920)の家がありました。1872年(明治5年)の初週祈祷会(新年祈祷会)を発端として同年3月に、植村正久、井深梶之助、本多庸一、篠崎桂之助、押川方義、山本秀煌、熊野雄七、稲垣信、小川義綏、雨森信成、島田三郎の11名の青年たちがバラ宣教師から洗礼を受け、そこに日本基督横浜公会が設立されたのでした。この「横浜バンド」と呼ばれる改革長老教会の伝統を私たちの葉山教会はそのまま受け継いで今日に至っているわけです。

 

 そこで、いまここに集うている私たち一人びとりにも、神は「わたしはわが霊を、すべての肉なる者に注ぐ」と語り告げていて下さいます。私たちも初代教会の使徒たち、そして横浜バンドの青年たちと同様に「真理の御霊」によって生み出され、新たにされ、十字架と復活の主イエス・キリストによって救われ、主の御業の全てに「同意を表す」者たちとされたのではないでしょうか。そして主なる神は聖霊によって、まさに現在形のキリストを通して、私たちのこの葉山教会を「聖霊の宮」「キリストの御身体」なる聖なる公同の使徒的なる教会として、強め、導き、祝福して下さり、この葉山の地に救いの御業を現わす主の教会(Η Εκκλησία του ΚυρίουThe Church of the Lord)となして下さるのです。祈りましょう。