説     教        出エジプト記30710節  ヨハネ黙示録816

                「天使と聖徒たちの祈り」ヨハネ黙示録講解〔36

                2025・06・01(説教25222121

 

(1)小羊が第七の封印を解いた時、半時間ばかり天に静けさがあった。(2)それからわたしは、神のみまえに立っている七人の御使を見た。そして、七つのラッパが彼らに与えられた。(3)また、別の御使が出てきて、金の香炉を手に持って祭壇の前に立った。たくさんの香が彼に与えられていたが、これは、すべての聖徒の祈に加えて、御座の前の金の祭壇の上にささげるためのものであった。(4)香の煙は、御使の手から、聖徒たちの祈と共に神のみまえに立ちのぼった。(5)御使はその香炉をとり、これに祭壇の火を満たして、地に投げつけた。すると、多くの雷鳴と、もろもろの声と、いなずまと、地震とが起った。(6)そこで、七つのラッパを持っている七人の御使が、それを吹く用意をした」。

 

 今朝の説教題を「天使と聖徒たちの祈り」といたしました。なにか私らしくないと申しますか、むしろ葉山教会らしくないと申しますか、そこはかとなき違和感を感じさせられる説教題になったかもしれません。しかし、いままでの黙示録の連続講解説教で幾度となく確認して参りましたように、黙示録に現れてくる「御使」すなわち天使とは、実は主イエス・キリストの御身体なる教会、しかも特に教会の働き(教会において歴史の中に現わされたキリストによる救いの御業)のことをさしている言葉なのです。この大切な事実を改めて確認した上で、どうぞもう一度、今朝の説教題を見て戴きますなら、それはすなわち「教会において歴史の中に現わされたキリストによる救いの御業と聖徒たち(すなわちここに集うている私たち一人びとり)の祈り」という意味であることがお分かり戴けるのではないでしょうか。

 

 そのように改めて心に留めますなら「天使と聖徒たちの祈り」これこそまことに、カルヴァンやジョン・ノックス以来の改革長老教会の伝統に立つ私たち葉山教会の礼拝説教にふさわしい説教題であろうと思うのです。そこで早速、最初の1節をご覧ください。「(1)小羊が第七の封印を解いた時、半時間ばかり天に静けさがあった」。いよいよ最後の「第七の封印」が、神の小羊なる主イエス・キリストの御手によって解かれたのでした。そのとき「半時間ばかり天に静けさがあった」と告げられています。こういう静けさは実に不気味な静けさです。幼い子供が大声で泣くとき「半時間」とは申しませんが、10秒ぐらい静けさがありますでしょう。なにか途轍もない出来事(歴史的世界に対する苦難の出来事)が起らんとするその直前に「半時間ばかり天に静けさがあった」というのはまことに意味深長だと思います。

 

 まさにその「半時間ばかりの静けさ」の間に、いったいなにが起こっていたのでしょうか。どうぞ続く2節以下をご覧ください。「(2)それからわたしは、神のみまえに立っている七人の御使を見た。そして、七つのラッパが彼らに与えられた。(3)また、別の御使が出てきて、金の香炉を手に持って祭壇の前に立った。たくさんの香が彼に与えられていたが、これは、すべての聖徒の祈に加えて、御座の前の金の祭壇の上にささげるためのものであった」。これから、私たちが生きているこの歴史的世界(目に見える世界)のただ中に、大変な出来事が現れようとしているのです。それは世界が(そして私たちが)根底から揺さぶられるような、数々の大きな苦難(試練)の出来事です。そしてまさに、その大きな苦難と試練の出来事の中でこそ、主なる神は御子イエス・キリストと聖霊によって、この歴史的世界のただ中に、確かな永遠の救いの御業を現わして下さる、それを確かなものにして下さるのです。言い換えるなら、神は私たちを苦難を通して鍛え、御言葉によって、決して動かされることのない者たちにして下さるのです。

 

 17世紀のイギリスの詩人ジョン・ミルトンは(ミルトンは偉大な詩人であったと同時に、改革長老教会の長老として敬虔な信仰の生涯を送った人でした)あるソネットの中でこう語っています。「私たちは、激しい嵐が起るとき、大きな波が私たちに向かって押し寄せてくる恐ろしい様子を見て恐れおののく。しかし安心せよ。心を安んぜよ。たとえどんなに大きな波風があなたを襲おうとも、あなたが立っているキリストという岩は決して揺らぐことはない。あなたが寄り頼む千歳の岩なる十字架の主イエス・キリストこそ、決して変わることなきあなたの救いである」。それは同時に、現代というこの時代にこそ語られている音信です。世界各地で戦争や混乱や紛争、または信じられないような自然災害が起こり、わが国でも令和の米騒動や、政治の混乱や、留まることなき物価高や年金問題、不法移民による治安の悪化など、それこそ様々な歴史的苦難の事実に直面している現代ですけれども、そのような困難な時代においてこそ、私たちキリスト者がなにを、いかに為すべきかということが、歴史の主キリストの御前に改めて問われているのではないでしょうか。

 

 まさに、その歴史の主キリストの恵みの問いかけに対しまして、今朝の御言葉は素晴らしい答えを私たちにさし示しているのです。それは今朝の3節と4節にこう記されていることです。「(3)また、別の御使が出てきて、金の香炉を手に持って祭壇の前に立った。たくさんの香が彼に与えられていたが、これは、すべての聖徒の祈に加えて、御座の前の金の祭壇の上にささげるためのものであった。(4)香の煙は、御使の手から、聖徒たちの祈と共に神のみまえに立ちのぼった」。どうぞここで、改めて思い起こして下さい。黙示録において「御使=天使」とは「教会において歴史の中に現わされたキリストによる救いの御業」のことです。まさにそのような主の教会の御業に奉仕する群れとして(つまり十字架と復活の主イエス・キリストに仕える群れとして)私たち一人びとりがここに集められ立てられているのです。金の香炉を手に持った天使は「たくさんの香」を与えられていました。その「たくさんの香」こそなにあろう、私たちの祈りなのです。私たちは主の御身体なる教会に、天使に「たくさんの香」(たくさんの祈り)を献げる群れになっているでしょうか?。

 

 私の同級生に川島堅二君という人がいます。3年ほど前まで恵泉女学園大学の学長を務めていました。日本におけるシュライエルマッハー研究の第一人者でして、10年ほど前からドイツで順次出版されているシュライエルマッハー全集の編集に日本の神学者としてただ一人参加している人です。特に彼は、従来は主観説として片付けられていたシュライエルマッハーの贖罪論が実存説であることを見抜き、そのことを詳しく研究している学者です。この川島君がドイツのキール大学の大学院に留学しておりました40数年前、私に「日頃の友情に感謝して」として、ドイツ改革派教会の「礼拝規定」(Gottesdienstordnung)を贈ってくれました。そこには正しい礼拝が献げられるための指針が事細かく記されていたわけですが、私がとても興味ぶかいと思いましたのは「礼拝における祈り」(Gebet im Gottesdienst)の項目がかなり詳しく設けられていることでした。そしてその項目にルブリック(欄外注rubric)がありまして、そこには今朝のヨハネ黙示録83節と4節が引用されているのです。

 

 そして、このように記されています。「私たちが真の礼拝者であり続けることこそ、主の天使に『たくさんの香』を与えることである」(Nur wenn wir wahre Anbeter sind, geben wir dem Engel des Herrn “viel Duft”)そのとおりではないでしょうか。まさにドイツ改革派教会の「礼拝規定」が語るように「私たちが真の礼拝者であり続けることこそ、主の天使に『たくさんの香』を与えること」なのではないでしょうか。そして、私が感心しましたもうひとつのことは、ドイツ改革派教会の「礼拝規定」の中では、私たちの祈りの生活が礼拝と一体化した、主に対する奉仕のわざとして位置づけられていることです。ともすると私たちは「祈り」を個人的なもの、教会とは別個のものだと思い違いをするのです。しかし初代教会でペンテコステのとき、弟子たち全員が心を合わせて祈りを献げていたときに聖霊降臨が起ったように、ほんらい私たちの祈りの生活は「礼拝者としての生活」とひとつのものなのです。

 

 宗教改革者マルティン・ルターは「卓上語録」(Tischreden)のある日の項目の中で「私は今日、2時間は祈らなければならなかったほど忙しかった」と語っています。私たちは逆のことが多いのです。むしろ逆のことばかりなのが私たちなのです。忙しければ祈りの時間を省いてしまうのです。しかしルターはそうではなかった。忙しければ忙しいほど、祈りの時を大切にしたのです。礼拝を大切にしたのです。祈りを、礼拝を、生活の中心軸に据えていたのです。これは、ルターばかりではありません。カルヴァンも、メランヒトンも、エコランパディウスも、ブリンガーも、ノックスも、宗教改革者と呼ばれる人たちは皆、礼拝とひとつである祈りの生活を重んじた人たちでした。そしてそれは、私たち葉山教会が受け継いできた教会的伝統です。それこそ「御言三昧・只管礼拝」の生活です。この大切なことを、今朝のヨハネ黙示録81節以下の御言葉は、私たち全ての者たちに力強く告げているのです。祈りましょう。