説     教          詩篇2316節  ヨハネ黙示録1517

                 「主はわが牧者なり」ヨハネ黙示録講解〔35

                2025・05・25(説教25212120

 

(15)それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。(16)彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。(17)御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。

 

 昨年の九月以来、私たちはヨハネの黙示録を通して福音の御言葉(生命の御言葉)にあずかる者たちとされています。そこで、改めてこのヨハネ黙示録を読んで参りますとき、私たちの誰もが今更のごとくに気づかされることがあります。それは教会の長い歴史の中で定形化した祈りの言葉として受け継がれてきたものの中で、少なからぬ言葉がヨハネ黙示録に由来しているという事実であります。たとえば今朝の715節以下の御言葉などは、教会の葬儀(葬儀礼拝)のときによく読まれる(祈られる)言葉です。牧師が用いる式文の中にそのまま記されているものです。私は昔の連合長老会がまだ東京伝道局と呼ばれていた頃の文語の式文を(これはもう誰も持っていないと思われる貴重なものですが)葬儀では参考として用いていますけれども、そこにも文語訳でこの715節以下が記されているわけであります。

 

 そこで改めて、今朝の最初の15節の御言葉に心を留めましょう。「(15)それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう」。ここには実に驚くべき恵みが告げられているのです。ここで「彼ら」というのは主イエス・キリストの十字架の贖いによって罪が贖われ、主の教会に連なる者とされた人々のことです。つまり私たちのことなのです。誰あろうその私たちは、十字架と復活の主イエス・キリストの御身体なる教会の活きた枝とされていることによって「神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えている」者たちなのだと告げられているわけです。それだけではありません、続く御言葉には「御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう」と告げられているのです。

 

 私は説教の中でときどき語ることですけれども、聖書、特に口語の新約聖書において「…であろう」という表現は、もともとのギリシヤ語原文を見ますと「必ずそのようになる」という意味の言葉なのです。「…であろう」と申しますとなにか不確定的な印象を受けますがそうではないのでして、むしろ「必ずそのようになる」という断言的な(直説法的な)言葉なのです。ですから文語訳聖書では「この故に神の御座の前にありて昼も夜もその聖所にて神に事ふ。御座に坐したまふ者は彼らの上に幕屋を張り給ふべし」と訳されていますし、3年前に出版された最新の「共同訳聖書」を見ますと「それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜も神殿で神に仕える。玉座におられる方が、彼らの上に幕屋を張る」と断言的(直説法的)に訳しています。なるべくそのたびに「気をつけて読んで下さるように」と申しているのですが、あまりにも「…であろう」と訳された箇所が多いものですから、どうぞご記憶のうえ、気を付けて戴ければと思います。

 

 そこで、この驚くべき直説法はなにを私たちに語っているのかと申しますと、神が私たちと共にいて下さる恵みは、ただ単に「神は私たちの近くにおられる」ということではなくて、それ以上に「神は私たちと共にお住まいになる」つまり「神は私たちの全存在に徹底的に責任を持って下さるおかたである」という恵みの事実を物語っているのです。それが今朝の御言葉の「御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれる」です。この「幕屋」とは旧約聖書の出エジプト記や申命記に記されている「会見の幕屋」のことです。そこで神は必ず私たちと出会って下さる、例外はありえない、それほどの断言的な(確かな)救いの恵みをもって、神は私たちといつも共にいて下さるおかたなのです。

 

 ですから今朝の御言葉の続く16節以下にはこのようにございました。「(16)彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。(17)御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。特にこの17節に気を付けて戴きたいのですが、これをお読みになるとき、私たちはすぐに旧約聖書の詩篇23篇の御言葉を思い起こすのではないでしょうか。そこを文語訳で読んでみましょう。「(1)エホバはわが牧者なり、われ乏しきことあらじ。(2)エホバは我をみどりの野にふさせ、いこひの水濱にともないたまふ。(3)エホバはわが霊魂をいかし、御名のゆえをもて我をただしき路にみちびき給ふ。(4)たとひわれ死のかげの谷をあゆむとも禍害をおそれじ、なんぢ我とともに在せばなり」。

 

(ちなみにエホバという神名はエホバの証人とはなんの関係もありません。ヘブライ語の神名ヤハヴェに母音記号をつけて読むとイェホーヴァ=エホバとなるわけでして、ルターやカルヴァンなどの宗教改革者たちもエホバという表記を用いていますし、ティンダル訳や欽定訳などの英語の聖書、ルター訳のドイツ語の聖書でもエホバが用いられています)。

 

 ともあれ、私たちに十字架と復活の主イエス・キリストによって尊き救い(罪の贖いと赦しと永遠の生命)を与えて下さり、真の自由を与えて下さった主なる神(エホバ)は、まさにその御子イエス・キリストの測り知れない贖いの恵みによって、神の外に出てしまった私たちを救うために、みずから神の外に出てきて下さり、私たちを救って下さったおかたなのです。だからこそ「太陽も炎暑も、彼らを(私たちを)侵すことはない」し、また「御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さる」のですし、同時に「神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さる」のです。ここでも生命の御言葉である福音は常に断言的直説法で私たちの心に迫ってきます。つまり「私を信じる者は生命の光のうちを歩み、永遠に死ぬことはない(罪と死は永遠にあなたを支配しえない=あなたは永遠に神の愛と祝福の内に生きるものとされている)。あなたはこれを信じるか?」と、十字架と復活の主イエス・キリストによって私たちは問われているのです。

 

 今朝の御言葉の最後に記されている言葉も、私たちの心に強く迫ってくるものです。すなわち「神は、彼らの目から(私たちの目から)涙をことごとくぬぐいとって下さる」とあることです。宗教改革者マルティン・ルターは人生を「涙の谷」に譬えました。ケンブリッジの淑女と言われた詩人ジョン・ミルトンも「我らの生涯は果てしなき涙の谷を行くがごとし」と語っています。万葉集には山上憶良が愛する妻に先立たれたときに詠った「妹が見しあふちの花は散りぬへしわが泣く涙いまだ干なくも」「慰むる心はなしに雲隠り鳴き行く鳥の音のみし泣かゆ」という歌があります。もしも「笑いと涙、どちらが私たちの人生の主流であったか」と問われたなら、少なからぬ人が「それは涙です。涙こそ、私の人生の主流でした」と答えるのではないでしょうか。そして、私たちが涙を流す理由は、それこそ無数に存在するに違いありません。しかしながら、神は、私たちが涙を流す、その涙の一滴さえも、慈愛の御手にことごとく受け止めて下さるおかたなのです。そればかりではありません、神は私たちの目から「涙をことごとくぬぐいとって下さる」のです。

 

ガリラヤ湖にほど近いナインという村で、あるやもめ暮らしの婦人のたった一人の息子が死にました。時あたかもその葬儀の最中に、主イエスはそのナインの村を訪れて下さいました。ルカ伝711節以下に記された出来事です。村の大ぜいの人々が死んだ若者の棺を担いで墓地に向かおうとしていたところでした。主イエスはさめざめと泣いていたやもめの婦人に「もう泣かなくてもよい」とおっしゃいました。そして主イエスは棺に御手を触れたまいました。そこで「墓地への弔いの行進」が止まりました。人類の歴史上、ただの一度も起ったことがないことが起ろうとしています。主イエスが棺に御手を置いて「若者よ、さあ、起きなさい」と命じたもうと、青年は起き上がって神を讃美しました。まさしく神は、涙を流す者の目から、涙をことごとく拭い取って下さったのです。

 

 そして、それは、私たちの人生にも起こることです。私たちの人生にも、まったく同じ救いの御業を主は現わして下さいます。罪によって死んでいたはずの私たちが、主が教会を通して賜わる復活の永遠の生命に甦らせられ、まさに「涙の果てしなき谷を歩む」私たちの人生から、神ご自身が「涙をことごとくぬぐいとって下さる」のです。キリストの復活の生命が、私たちの全存在を覆って下さるのです。私たちはキリストを着た者とされているのです。もはや罪と死は私たちを支配なしえず、私たちの存在の根拠は偶然性などではなく、神の変わらぬ恵みと御計画、そして極み無き愛こそが、私たちの存在の唯一の根拠なのです。その人生は死に勝利したもうた復活のキリストに結ばれた人生です。だからこそ、私たち葉山教会の墓地の墓石にはこう記されています。「夜は夜もすがら泣き悲しむとも、朝には喜びうたはん」(詩篇305節)。祈りましょう。