説 教 ゼカリヤ書3章1−5節 ヨハネ黙示録7章13−14節
「キリストの血によりて」ヨハネ黙示録講解〔34〕
2025・05・18(説教25202119)
「(13)長老たちのひとりが、わたしにむかって言った、『この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか』。(14)わたしは彼に答えた、『わたしの主よ、それはあなたがご存じです』。すると、彼はわたしに言った、『彼らは大きな患難をとおってきた人たちである』」。なんと素晴らしい場面、そして恵みに満ちた言葉の数々が、ここには記されていることでありましょう。13節にある「長老たちのひとり」とは、イスラエル十二部族の長老12人に対応する神の国の12人の長老たちのうちの一人のことです。それならばその「長老」とは主なる神にお仕えするために召し出された僕(神の御使)の一人であり、さらに言い換えるならば、神の御言葉のみを全ての人々に宣べ伝える務めを委ねられている群れである、まさしく私たちの教会の務めを現わしているのです。
まさにその主の教会が「わたし」すなわち使徒ヨハネに対してこう尋ねたというのです。「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか?」と。この「白い衣を身にまとっている人々」は既に7章の9節と10節に出て参りました。すなわち「(9)その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、(10)大声で叫んで言った、『救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる』」と記されていたことです。そのことを改めて心に留めますならば、今朝の御言葉の13節に出てくる「この白い衣を身にまとっている人々」というのは礼拝者たち(神の御業を大きな声で讃美する人々)であるということがわかるのです。
さて、神の国の長老から「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」と訊ねられた使徒ヨハネは、今朝の14節にありますように「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」と答えました。これは「私たち人間の救いに関わる全ての正しい答えは、ただ神の御言葉の中にあります」という意味の答えです。つまりそれはそれは信仰告白の言葉(讃美の歌声)です。だから私たちが自分自身の知恵や力を駆使して答える言葉ではないのです。それはただ神の御言葉と神の御業をさし示すものなのです。それこそ私たちの教会が告白している1890年(明治23年)の「日本基督教会信仰の告白」に「新旧両約の聖書のうちに語りたもう聖霊は宗教上のことにつき誤りなき最上の審判者なり」と告白されていることを思い起こしたいのです。この「宗教上のこと=Religious Matters」とは「私たちの真の救いに関わる全ての事柄」という意味だからです。
つまり「私たちの真の救いに関わる全ての事柄」はことごとく、ただ「新旧両約の聖書のうちに語りたもう聖霊」すなわち今ここに現臨したもう十字架と復活の主イエス・キリスト(私たち全ての者のために十字架にかかって死んで下さり、復活された主イエス・キリスト)にのみあるのです。十字架と復活の主イエス・キリストのみが、私たち全ての者の救いと自由と幸い、言い換えるなら、人間が人間として絶えず求め続けている全ての最重要課題(私たちの生と死に関わる本質的な問題)に対する唯一かつ最終的かつ完全な解決者であられるということです。だからこそ使徒パウロは第二コリント書5章17節でこのように語りました「だれでもキリストにあるならば(結ばれているならば=贖われた者ならば)その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」。まさにこの「新しさ」こそ、キリストの血によりて救われた者たち(贖われた者たち)のみが持ちうる本当の「新しさ」です。私たちの生きる限り、死を超えてまでも、キリストが常に共にいて下さることです。ただそこにのみ本当の「新しさ」があるのです。
今朝あわせてお読みした旧約聖書のゼカリヤ書3章1節以下にも、まさにこの本当に新しさに生かされた人(大祭司ヨシュア)のことが出てきます。ヨシュアは大祭司とはいえ私たちと同じ人間ですから、神の御前に「汚れた衣」しか着ていませんでした。だからサタン(悪魔)はただその衣を見て、主なる神に対してヨシュアのことを「彼は…火の中から取り出した燃えさしにすぎない=何の価値もない人間である」と讒言したのです。つまりヨシュアを滅ぼそうとしたのです。しかし主なる神はそのようなヨシュアに新しい「祭服」(清い衣=白い衣)を着せて下さいました。この「白い衣」こそ、十字架と復活の主イエス・キリストが私たち全ての者に与えて下さる救いの徴(洗礼の喜びと幸い)にほかなりません。大切なことは、これは少しも私たちの力や相応しさによるものではないということです。私たちも大祭司ヨシュアと同様に、肉なる者としては「汚れた衣」しか着ていない者たちでした。いわば救いの無い者たち(救いとは全く無縁な者たち)でした。
エペソ書2章11節以下にはこの「救とは全く無縁な者たち」としての私たちの姿が次のように記されています。「(11)だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、(12)またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった」。この「神もない者=神無き者」という言葉はギリシヤ語では“atheos”と言います。これは無神論者を意味する“atheist”の語源ともなりました。大切なことは、この「神無き者」という言葉はマルキシストが語るはるか以前に聖書が語っているという事実です。だからこそ「希望もなく神もない者」とありますように「希望なき存在」としての人間の姿が明確に告げられています。神を失った結果(それこそニーチェが“神は死んだ”と語ったのと同じように)私たちの存在の根拠は偶然性のみとなり、パスカルが言う「宇宙の孤児」としての「希望なき存在」とならざるをえないからです。そして、ここがさらに大切なことですが、この事実を聖書が語っているということは、そこからの人間の救いが語られいることです。私たちの唯一の真の救い、それは十字架の主イエス・キリストの御血による罪の贖いにあるのです。
今朝のヨハネ黙示録7章14節の答えを改めて心に留めましょう。「彼らは大きな患難をとおってきた人たちである」。どうか気を付けて下さい。これた単なる人生の患難試練のことではありません。そうではなくて、ローマ帝国アジア州にあった7つの教会が大きな迫害を(患難試練を)受けたのは、それは十字架と復活の主イエス・キリストにのみ全ての人間の唯一の真の救いがあると告白する群れだったからです。言い換えるなら7章10節にありましたように「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」と告白する主の群れ(キリストの御身体なる聖なる公同の使徒的な教会)であり続けたからです。唯一の「主=キュリオス」は十字架と復活の主イエス・キリストのみであると告白し続けたからです。だから迫害を受けたのです。患難試練が降り注いだのです。
私たちの測り知れない罪(神から離れたまま、そこに自分の自由があるのだと妄想して生きること)を贖い、私たちを救い、永遠の生命を与えて下さるために、主イエス・キリストはあのゴルゴタの呪いの十字架におかかり下さり、御自身の御血をもって私たちの罪の贖いを成し遂げて下さいました。そこに現れた測り知れない救いの恵みを、先ほどお読みしたエペソ書2章の13節以下、特に14節には「(あなたがたは)今ではキリスト・イエスにあって(結ばれて)キリストの血によって近いものとなった…(14)キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つ(atonement)にし…」と告げられています。罪によって神の外に出てしまった私たち、「希望もなく神もない者」となっていた私たちの救いのために、神みずからが神の外に出て下さり、十字架という非常手段を通して、御自身の御血によって、私たちの全存在を贖い、何の値もなきままに、私たちを御国の民(天に国籍を持つ者たち)として下さったのです。
そこに、私たちに与えられたたしかな唯一の真の救いがあります。人間はただ十字架の主イエス・キリストによってのみ救われるのです。人間の救いは十字架の主イエス・キリスト以外にありえないのです。それは、十字架の主イエス・キリストのみが、神の外に出てしまった私たちを救うために、神の外に出て下さった(さらに言うなら、神ではない者となって下さった)唯一の救い主だからです。私たちの救いのために血を流して生命を献げて下さった唯一のおかただからです。ただそこにのみ、私たちの確かな唯一の本当の救いがあるのです。祈りましょう。