説     教            詩篇12118節  ヨハネ黙示録912

                「救いは何処より来たるや」ヨハネ黙示録講解〔33

                2025・05・11(説教25192118

 

(9)その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、(10)大声で叫んで言った。『救は、御座にいますわれらの神と、小羊からきたる』。(11)御使たちはみな、御座と長老たちと四つの生き物とのまわりに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を拝して言った、(12)『アァメン、さんび、栄光、知恵、感謝、ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、われらの神にあるように、アァメン』」。

 

 神学校に入りますとその日からドイツ語漬けの毎日が始まります。もちろんドイツ語だけではなく、英語やフランス語も大事です。加えてギリシヤ語やラテン語やヘブライ語などの古典語学も習得しなければなりません。しかしとにかく、神学書というのは(特にプロテスタント教会の神学書は)約半数がドイツ語で書かれていますから、それが読めないことには図書館の本の大半は読むことができない、そういう切実な必要性があるわけです。私の同級生12名のうち4名は東大を卒業して神学校に入ってきた人たちでした。6年前に亡くなった大住雄一元学長などもその一人です。彼らはドイツ語をそれなりに習得してきた人たちでしたが、それでも「神学校というところがこんなにドイツ語漬けの毎日だとは思わなかった」と申していました。

 

 最初の半年間はとても苦しかった記憶しかありません。しかし半年ぐらい経ちますと、英語だけではなくドイツ語でも、いろいろな本が読めるようになります。読めるようになりますと、目の前に急に広い世界が開かれたような思いがしたものです。そうした中で私が夢中になって読んだ本に、スウェーデンの神学者ナタン・ゼーデルブロームが書いた「神信仰の生成=Entstehung des Gottesglaubens」というものがありました。その中の一節が私の心を強く捉えました。それは「人類の歴史は真の神と真の救いを求める魂の旅路である」(Die menschliche Geschichte ist die Reise der Seele auf der Suche nach dem wahren Gott und der wahren Rettung.というものです。この言葉に出会った時に、私はバルトの「時間は止まった」という言葉に出会った時とともに「ああ、神学校に入って本当に良かった」と思ったものでした。

 

 「人類の歴史は真の神と真の救いを求める魂の旅路である」まさにここにこそ、私たち人間が人間であることの最大の理由(最大の証拠)があるのではないでしょうか。「私は無神論です」「私は無宗教です」と言う人は珍しくありません。たぶん日本人の8割ぐらいが「私は無宗教ですから」と言うでしょう。しかしその人が無宗教であることは、その人が真の神(真の救い)を求めていないことと同じではないのです。いやむしろ「私は無神論ですから」「私は無宗教ですから」と言う人のほうが、普通の人よりもさらに熱心に真の神(真の救い)を求めているものなのです。まさにゼーデルブロームが語ったように「人類の歴史は真の神と真の救いを求める魂の旅路」なのです。この大切な事実を忘れて人間の歴史を物語ることはできないのです。

 

 今朝の御言葉であるヨハネ黙示録第79節と10節を改めて心に留めましょう。「(9)その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、(10)大声で叫んで言った。『救は、御座にいますわれらの神と、小羊からきたる』」。ここには国籍、民族、言語、文化の違いは無いんだとはっきり記されています。否、正確には歴史においては国籍、民族、言語、文化の違いは重要な位置づけを持つのですけれども、神の御国(天国)においてはそういうものは最終的な意味を持たないのだと告げられているのです。では、いったい何が最終的な(本質的かつ究極的な)意味を持つのかと申しますと、それは「数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身に纏い」つつ「救は、御座にいますわれらの神と、小羊からきたる」と大きな声で讃美告白していることにあるのです。

 

 この、全世界から集まったおびただしい群衆が来ていた「白い衣」は、十字架と復活の主イエス・キリストの御血によって洗われた衣であり、救われた者たちの喜びの衣服です。それこそ御国における礼拝者たちのサンデークローズです。すなわちそれは使徒パウロがローマ書1314節に記したように「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい」とあることとひとつのことです。私たちはいま、あるがままに「キリストを着る」者たちとされているのです。そして「キリストを着る」とは「キリストの義によって覆われること=十字架と復活の主イエス・キリストによって贖われ救われた者として生きること」なのです。私たちには既にその「白い衣」が与えられているではないか、そこにこそ、あなたが人生という名の歴史の中で(人類史における個人史の中で)探し求めていた真の神、真の救いがあるではないか、そのように今朝の御言葉は力強く告げているわけであります。

 

 そして、私たちはそこで何といって叫ぶのでしょうか?。私たちの「さけび」はなんでしょうか?。(宮崎豊文先生が創刊された教会誌「さけび」の起源はまさにここにあります)。私たちはそこでこそ、なんと言って讃美の歌を歌うのでしょうか?。それこそ「救は、御座にいますわれらの神と、小羊からきたる」なのです。まさにこの言葉(この信仰告白)こそ、天国の教会(勝利の教会・永遠の教会)に鳴り響く聖徒らの讃美の歌声なのです。だからどうか私たちは、今朝のこのヨハネ黙示録710節の歌詞を忘れないようにいたしましょう(もし忘れたら天国の勝利の教会の礼拝において、隣の人に讃美歌を借りなくてはならなくなりますから)。言い換えるならば、それほど具体的な喜びの讃美歌の歌詞が今朝のこの10節の御言葉なのです。私たちは今朝のこの礼拝でも使徒信条をともに歌いました。実は使徒信条の中には幾筋もの川の流れのように、いろいろな信仰告白の言葉が流れこみ、反映されているのですけれども、その中の大切なひとつがこの10節の御言葉なのです。「救は、御座にいますわれらの神と、小羊からきたる」。

 

オスカー・クルマンというアルザス出身の神学者は「このヨハネ黙示録710節は、あらゆる信仰告白の元になったものの一つである」と語っています。そして大切なことは、これは信仰告白(天の永遠の教会における讃美の歌声)なのですから、それは十字架と復活の主イエス・キリストが、私たち全ての者のために行って下さった(成就して下さった)救いの御業を物語っているのです。つまり、どういうことかと申しますと、私たち人間が「真の神・真の救い」を求めて魂の旅路を彷徨い続けている、その放浪の旅路が重要(主語)なのではなくて、その私たちにクリスマスと十字架と復活によって出会って下さった十字架と復活の主イエス・キリストこそが救いの主体(主語)なのです。だからこそ聖徒たちの歌声は「救は、御座にいますわれらの神と、小羊からきたる」なのです。「救は、真の神を求める我らの内に(旅路に)あり」ではないのです。ここがとても大切なことです。

 

 どうしてかと申しますと、バルトがはっきりと語っているように(もちろん聖書が明確に告げているように)私たちの救いの根拠は微塵も、私たち自身の中には無いからです。そうではなく、私たちの救いはただ「御座にいますわれらの神と、小羊からきたる」ものなのです。どうかここで単に「神より来たる」ではなく「われらの神と、小羊からきたる」と告げられていることにも心を向けましょう。私たちは罪の塊のような存在ですから、真の神の御前にはとうてい立ちえない存在なのです。しかし神の永遠の御子イエス・キリストは、そのような私たちの罪を全て担って、あのゴルゴタの呪いの十字架にかかって、死んで下さいました。私たちのために、私たちの身代わりとなって、滅びとしての永遠の死を、神の独子なるキリストが死んで下さったのです。ただその十字架と復活の主イエス・キリストによる罪の贖いによってのみ、私たちは真の救いを与えられた者たち(聖徒の交わり)とされているのです。

 

 終わりに、今朝あわせて拝読した旧約聖書・詩篇121篇の御言葉をお読みしましょう。「(1)わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。(2)わが助けは、天と地を造られた主から来る。(3)主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者はまどろむことがない。(4)見よ、イスラエルを守る者は、まどろむこともなく、眠ることもない。(5)主はあなたを守る者、主はあなたの右の手をおおう陰である。(6)昼は太陽があなたを撃つことなく、夜は月があなたを撃つことはない。(7)主はあなたを守って、すべての災を免れさせ、またあなたの命を守られる。(8)主は今からとこしえに至るまで、あなたの出ると入るとを守られるであろう」。祈りましょう。