説     教       エゼキエル書934節  ヨハネ黙示録18

                「教会を嵐から護る天使」ヨハネ黙示録講解〔32

                2025・05・04(説教25182117

 

(1)この後、わたしは四人の御使が地の四すみに立っているのを見た。彼らは地の四方の風をひき止めて、地にも海にもすべての木にも、吹きつけないようにしていた。(2)また、もうひとりの御使が、生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た。彼は地と海とをそこなう権威を授かっている四人の御使にむかって、大声で叫んで言った、(3)『わたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない』。(4)わたしは印をおされた者の数を聞いたが、イスラエルの子らのすべての部族のうち、印をおされた者は十四万四千人であった」。

 

 私たちは昨年の91日より、このヨハネ黙示録を通して連続して福音の御言葉を聴いて参りました。そして今朝、この第7章の御言葉に至りまして、映画や小説に譬えますならば「いよいよ佳境に入ってきた」という感じを受けるのではないでしょうか。ヨハネの黙示録は、西暦2世紀の終わりごろ、当時のローマ帝国アジア州にあった7つの教会(それら7つの教会は激しい迫害の嵐に晒されていたわけでありますが)に対して、キリストの使徒ヨハネが復活の主から御使(天使)を通じて聞いた慰めと励まし、そして救いの成就の約束の御言葉を書き記したものです。この黙示録の福音の御言葉において、今朝のこの第7章で私たちが与えられております御言葉は1節にございましたように「この後、わたしは四人の御使が地の四すみに立っているのを見た。彼らは地の四方の風をひき止めて、地にも海にもすべての木にも、吹きつけないようにしていた」という御言葉です。

 

 これはイメージとしてまことに明確な御言葉でありまして、ここではローマ帝国による迫害の嵐が「地の四方の風」に譬えられているわけでありますが、その激しい迫害の嵐から、主の教会を(そしてもちろん、主の教会に連なる全ての人々を)護るために「御使」すなわち天使が「地の四すみに立って」その嵐を身に受けている、自らの身を犠牲にして風を引き受け、主の教会を激しい嵐から護っている、言うなればそういうイメージがここでは明らかにされているわけであります。

 

私は16歳から18歳までの3年間を上州(群馬県)は前橋の農学校で学びました。ご存じのかたもおられるかと思いますが、上州というところは春から秋にかけてはまことに気候の良い過ごしやすい土地なのですが、11月の終わりから2月にかけて、冬になりますと「赤城おろしの空っ風」と申しまして、非常に冷たい、そして激しい風が毎日のように吹き荒れます。いわゆるフェーン現象でして、日本海から谷川連峰を超えて来る、乾燥した冷たい風が吹き荒れるのです。風除けがありませんと農作物が凍って枯れてしまう。あの寒さに強いはずの白菜やサヤエンドウでさえ凍って枯れてしまう。湿度があれば植物の表面に氷の被膜ができるのですが、それができませんから容赦なく植物を枯らしてしまう。そのような過酷な冬の嵐から、いかにして農作物や果樹園の木を護るか、それが上州の冬の農業の大きな課題であるわけです。

 

 ですから私にはほとんど経験値として、今朝の御言葉の「四人の御使が地の四すみに立って…彼らは地の四方の風をひき止めて、地にも海にもすべての木にも、吹きつけないようにしていた」という状況が理解できます。ようするにこれら4人の天使たちは、主の教会を嵐から護るために自らが風除けとなって(激しい嵐を自分の身に引き受けて)「四隅に立っていた」わけです。すなわち「四隅に立っていた」理由は、いつ、どこから激しい風が吹いてきても、すぐに反応して(すぐに立ち上がって)自らが風除けとなり主の教会を護るためです。だからこれら「四人の御使たち」は決して眠らないのです。申すまでもなく「御使」(天使)というのは神ではなく人間です。パスカル的な言葉で申しますなら「神と人間との中間的存在であるが、決して神性を持たない存在」が天使です。神ではなく人間なのです。さらに言うなら、神の御心を世に行い、救いの福音を歴史の中に宣べ伝えるために、眠ることなく働く奉仕者(アンゲロス=メッセンジャー)が天使なのです。

 

 そういたしますと、どういうことになるのでしょうか?。今朝の説教題を「教会を嵐から護る天使」といたしました。その「天使」というのはいったい誰のことなのでしょうか?。四谷にエンデルレ書店という、ドイツ語のカトリックの神学書専門の書店がありまして、そこに行きますと「天使学=Angelologie」と書いた書棚があります。そこの本を取ってみますと、天使にも階級があるんだとか、大天使はミカエル、ラファエル、ガブリエル等々だとか、堕落した天使は悪魔になるんだとか、そんなことが書いてある。カトリック神学というのはこんな無意味なことを学ぶものかと思いました。そういうことではないのであります。天使とは端的に(そして聖書的に)申しますなら主の教会への奉仕者のことです。私たちの葉山教会で申しますなら、牧師たる私はもちろんですけれども、長老たち、執事の皆さん、そしてここに集うている全員がみな「御使」(天使)と呼ばれているのです。ですから12世紀の神学者トマス・アクィナスは「教会の職務は天使的職務である」と申しました。そしてトマス・アクィナスは亡くなった後で教会から「天使的博士=angelici doctoris」という称号で呼ばれるようになったのです。それは言い換えるなら「主の教会を嵐から護る天使の職務を果たした人」という意味です。

 

 それは、トマス・アクィナスだけが冠せられるべき称号なのでしょうか?。そうではないと思います。まさにいまここに集うている一人びとりこそが“天使的博士=angelici doctoris”として立てられているのではないでしょうか。博士という言葉が場違いならば「主への奉仕者=servus domini」というもっと素晴らしいラテン語があります。つまり、ここに集うている私たち全員が“servus domini angelici”(主の教会のために奉仕する天使的職務を担う人々)なのではないでしょうか。そして私たちの葉山教会はたくさんの信仰の先達たちが、まさに「主の教会のために奉仕する天使的職務を担う人々」としての信仰の生涯を歩み、永遠の御国に召されました。いま地上における(歴史における)信仰の歩みをしている私たち一人びとりもまた、その歩みを受け継いでゆく者たちとされているのです。

 

 「教会を嵐から護る天使」たちに求められていること、それは「決して持ち場から離れないこと」です。逃げないことです。職務を放棄しないことです。もしも風除けがそこから逃げてしまったら風除けにはなりません。そこに健やかに立ち続けるからこそ「教会を嵐から護る天使」になれるのです。そして、私たちの葉山教会が真の伝道を行う教会である唯一の道はそこにあるのではないでしょうか。たとえ集まる者の数は少なくても、そこに生き生きとした「教会を嵐から護る天使」たちの祈りと志とが満ち溢れているならば、私たちの葉山教会は真の伝道教会であり続けることができるのではないでしょうか。なぜなら、教会員全体が「教会を嵐から護る天使たち」であり続けているならば、そこに初めて礼拝に出席した人にの心に「ここは世の中のどんな場所とも違う、素晴らしい何かがある場所だ」という印象を残すからです。そして、その「素晴らしい何か」こそ十字架と復活の主イエス・キリストとの出会いにほかなりません。

 

 ヨハネ黙示録が宛てられたローマ帝国アジア州にある7つの教会(エペソ教会、スミルナ教会、ペルガモ教会、テアテラ教会、サルデス教会、ヒラデルヒヤ教会、ラエデキヤ教会)もまた、この世的に見るならとても小さな群れにすぎませんでした。しかし「教会を嵐から護る天使たち」がそこには満ち満ちていたのです。だから、迫害の嵐によっても教会は倒れなかったのです。護られたのです。真の礼拝が献げられ、御言葉の説教が生き生きと語られ、聖餐と洗礼の2つの聖礼典が主のお命じになったとおりに行われたのです。救われる者の数がまし加えられていきました。御言葉に基づくキリスト者たちの新しい生活がそこにありました。それがやがて全ヨーロッパへと拡がり、2000年の後にこの葉山のピスガ台にも伝えられたのです。どうか改めて感謝と讃美とともに心に刻みましょう。ここに集う全ての人たちが「教会を嵐から護る天使」とされているのです。祈りましょう。