説 教 エレミヤ書30章7節 ヨハネ黙示録6章12−17節
「封印を解く小羊(4)」ヨハネ黙示録講解〔31〕
2025・04・27(説教25172116)
「(12)小羊が第六の封印を解いた時、わたしが見ていると、大地震が起って、太陽は毛織の荒布のように黒くなり、月は全面、血のようになり、(13)天の星は、いちじくのまだ青い実が大風に揺られて振り落されるように、地に落ちた。(14)天は巻物が巻かれるように消えていき、すべての山と島はその場所から移されてしまった。(15)地の王たち、高官、千卒長、富める者、勇者、奴隷、自由人らはみな、ほら穴や山の岩かげに、身をかくした。(16)そして、山と岩とにむかって言った、『さあ、われわれをおおって、御座にいますかたの御顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ。(17)御怒りの大いなる日が、すでにきたのだ。だれが、その前に立つことができようか』」。
1989年の1月のことです。昭和天皇が崩御されまして、それこそ全国民がこぞって喪に服するという雰囲気になりました。そのころ私は東京の教会の牧師をしておりましたけれども、ある日のこと、新宿の地下街を歩いておりまして、そこは普段はかなり賑やかな商店街なのですけれども、多くの店では自粛ムードでシャッターを下ろしていまして、ただモーツァルトのレクイエムが地下道に流れていました。ご存じのかたもおられると思いますが、モーツァルトのレクイエムの中に、今朝のヨハネ黙示録6章17節の御言葉が出て参ります。「(神の)御怒りの大いなる日が、すでにきたのだ。だれが、その前に立つことができようか」。
この「神の御怒りの日が来たのだ」というのをラテン語では“dies irae Dei venit”と申します。この歌詞が繰り返し歌われるところがあるのですが、私が新宿の地下街を歩いておりますときも、ちょうどその部分がバリトンの歌声で流れていました。厳粛な気持ちがしたのを憶えています。たとえ天皇といえども「神の御怒りの日」をまぬかれることはできないのです。そこで改めて思わされたことでした。私たちはいつも、そのような思いで人間の死というもの(それは当然のことながら自分の死に次いでですが)を見つめているだろうか。また、同じく厳粛な思いでこの可視的な(現象的な)世界の歴史とその終末を見据えているだろうか。人生訓や哲学の話をしているのではありません。まさに今朝の御言葉に告げられているのです。「(神の)御怒りの大いなる日が、すでにきたのだ。だれが、その前に立つことができようか」。
事実として、今朝の御言葉の12節以下には実に戦慄すべきことが記されています。「(12)小羊が第六の封印を解いた時、わたしが見ていると、大地震が起って、太陽は毛織の荒布のように黒くなり、月は全面、血のようになり、(13)天の星は、いちじくのまだ青い実が大風に揺られて振り落されるように、地に落ちた。(14)天は巻物が巻かれるように消えていき、すべての山と島はその場所から移されてしまった」。讃美歌の520番に「しずけき河の岸辺を過ぎ行くときにも」というのがあります。その中に「大空は巻き去られて、地はくずるるとき、罪の子らは騒ぐとも、神による御民は、心やすし、神によりてやすし」と歌われておりましょう。まさにその讃美歌520番の歌詞の元になった御言葉がここにあるのです。だからこそ、そこでいつも私たちに問われていることは、わたしたちがいつも、どこででも「神による御民(キリストに贖われた者たち)とされているか否かではないでしょうか。
考えてもみて下さい、今朝の続く15節の御言葉です。「(15)地の王たち、高官、千卒長、富める者、勇者、奴隷、自由人らはみな、ほら穴や山の岩かげに、身をかくした。(16)そして、山と岩とにむかって言った、『さあ、われわれをおおって、御座にいますかたの御顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ』」。それこそ王であろうが奴隷であろうが、主なる神の御怒りの日に、神の御前に健やかに立ちうる者は一人もいないのです。だから人々はみな思いあまって、身を寄せている山や岩にむかって「さあ、我々を守ってくれ」と言うのです。しかし、山も岩も何の助けにもならないのです。隠れることはできないからです。それなら、私たちにはニーチェが言うように絶望しか残されていないのでしょうか?。
たしかに、ニーチェは絶望しました。彼は人間が神になること(超人=Übermensch=Supermannになること)だけが、人間と歴史が救われる唯一の道だと言いました。しかしそれはもちろん不可能ですから、ニーチェは「我々に残された道はただひとつ、絶望だけである」と語るほかはなかったのです。「落ち度=Ochido」という言葉の原意は「限界線を越えること」です。人間としての限界線(つまりÜbermenschになること)を超えようとするとき、私たち人間は絶望に身を委ねる以外にないのです。では、私たちにはどこにも救いはないのでしょうか?。それこそ今朝の御言葉の15節の人々のように、山や岩にむかって「さあ、われわれをおおって、御座にいますかたの御顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ」と叫ぶほかないのでしょうか?。
そうではありません、そうではないのであります。聖書が私たちに告げている真の救いとは「救いのない者にも救いがある」どころの話ではなくて「救いのない者にこそ救いがある」という喜びの告知(福音)なのです。私たちは「落ち度」に身を委ねる必要はないのです。みずから超人たらんとする必要はないのです。その結果としての絶望に捕らわれる必要もないのです。そうではなくて、今朝の御言葉にはなんとございますか?。第六の封印を解いたおかたは誰ですか?。それこそ私たちのために十字架におかかり下さり、御自身の死をもって私たちを罪の支配から贖って下さり、私たちに復活の生命を与えて下さった神の小羊(十字架と復活の主イエス・キリスト)なのではないでしょうか。
このおかたが、このおかたのみが、私たちに代わって、私たちの「落ち度」を担って下さったのです。つまり、ニーチェが言うように「人間が神=Übermenschになる道」ではなく「神が人間(ナザレ人イエス=十字架の主イエス・キリスト)になる道」を歩んで下さったのです。罪とは定義するなら「私たちが神の外に出てしまうこと」ですが、れならば、まさに神の外に出てしまった私たちを救うために、神みずからが神の外に出て下さったのです。それが十字架の主イエス・キリストのお姿なのです。もっと言うなら、私たちを救い、私たちに永遠の生命を与えるために、神みずから神ではないものになって下さったのです。それが十字架の死の真相です。ただこの十字架の主イエス・キリストに信仰によって結ばれることによってのみ、私たちはニーチェの言う絶望から救われるのです。
今朝の17節の御言葉をもう一度心に留めましょう。「(神の)御怒りの大いなる日が、すでにきたのだ(dies irae Dei venit)。だれが、その前に立つことができようか」。はい、私たちは自分自身の力では「その御前に立つ」ことなど絶対にできません。私たちには測り知れぬ「落ち度(罪)」が残るのみです。自分の力で罪による死と滅びという限界線を突破することなど到底できない私たちです。しかし、そのような私たちのために、まさに「救いのない私たちのために」その限界線を打ち砕いて下さったただ一人のおかたがおられるのです。十字架の主イエス・キリストが、私たちのために、私たちに代わって「神の大いなる御怒り」を引き受けて下さったのです。私たちの身代わりになって神の御怒りに撃たれて下さったのです。それがあのゴルゴタの十字架です。ただそこにのみ、十字架と復活の主イエス・キリストにのみ、私たちの唯一の真の救いがあるのです。
小羊が(十字架と復活の主イエス・キリストが)第六の封印を解いたのは、まさにこの福音を私たちに告げ知らせて下さるためでした。まさにこのおかたが、いまも、私たち一人びとりに力強く語っていて下さるのです。「安心しなさい、私があなたと共にいる」と。「あなたの罪は、私が身代わりになって担った」と。それゆえに「わが子よ、汝の罪ゆるされたり」と。「あなたは、永遠に私から離れることはない」と。十字架と復活の主イエス・キリストが、いま、私たち全ての者に告げていて下さるのです。祈りましょう。