説     教      イザヤ書1236節  ローマ人への手紙51721

                 「復活の主キリスト」イースター

                2025・04・20(説教25162115

 

(17)もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか。(18)このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。(19)すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。(20)律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。(21)それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである」。

 

 使徒パウロはここで、十字架の主イエス・キリストによる私たちに現わされた救いの出来事を、創世記2章と3章に記されたアダムとエバによる「不従順」の出来事に対比させて論じています。すなわち、かつてアダムとエバは神に対する罪のゆえに不従順によって「罪人」の起源となりましたが、十字架の主イエス・キリストはその十字架の死と復活とによって、神に対する全き「従順」のゆえに「多くの人(全ての人)が義とされる」ための「義人」の初穂となって下さいました。その十字架の主キリストによる恵みの出来事の結果、なにが起こったかと申しますと、今朝のローマ書521節にございますように「(21)それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである」この救いの出来事が、私たち全ての者にいま与えられているのであります。

 

 そこで、今朝のこのローマ書第5章の御言葉は、まさにこの「わたしたちの主イエス・キリストにより=復活の主キリストの恵みによって」実に驚くべきことを私たちに告げているのではないでしょうか。それは、今朝は復活日(イースター)主日礼拝でありますけれども、主イエス・キリストの復活の出来事は、ただ単に2000年前に、イエス・キリストというかたが「死んで葬られたのに三日目に墓から復活した」という不思議な出来事を告げているのみならず、それはまさに、いまここに集うている私たち全ての者に与えられている救いの出来事そのものの「初穂」(さきがけ)なのだという事実であります。端的に申しますならば、主イエス・キリストの復活の出来事は、主イエス・キリストの復活の出来事は、主イエス・キリストに連なる私たち全ての者たちの復活の出来事なのです。だからこそイースターは「全ての主日礼拝の基軸」であり、全ての教会のわざの始発点なのであります。

 

 ごく単純なことを改めて心に留めましょう。どうして礼拝は日曜日なのでしょうか?。土曜日や月曜日では、どうしていけなかったのでしょうか?。日曜日が公休日だからでしょうか?。しかし、日本において日曜日が公休日になったのは明治20年代以降のことです。ではなぜ、礼拝は2000年間ずっと、日曜日に献げられ続けてきたのでしょうか?。答えはただひとつです。日曜日はイースター(主イエス・キリストの復活の日)だからです。ですから、実は全ての主日礼拝がイースター礼拝(もしくはイースター礼拝の連続)なのです。そして、それは同時に、私たち全ての者たちにいまここで与えられている復活の生命の恵みを憶えて感謝することでもあります。主イエス・キリストの復活の出来事は、主イエス・キリストに連なる私たち全ての者たちの復活の出来事だからです。私たち全ての者の救いのために、神の永遠の御子であられる主イエス・キリストが、あのゴルゴタの丘において呪いの十字架におかかり下さり、死んで墓に葬られ、三日目に(日曜日の朝に)復活して下さったからです。

 

 すでに幾度もお話したことかもしれませんが、繰返しになりますことをお許し下さい。私は35年前にイスラエルのエルサレムにある聖墳墓教会(Church of the Holy Sepulchre)を訪ねたことがあります。その教会はまさにもとゴルゴタの丘で主イエス・キリストが十字架にかけられたその場所、そして主の御身体が葬られた墓のあった場所に建てられたものです。2000年間の間、増築に次ぐ増築を施されて参りましたので、聖墳墓教会の内部はとても複雑な迷路のようになっています。しかしその中心部分、巨大なドームのあるところに、主イエス・キリストの御身体が葬られた洞窟状の墓があるわけです。そこに参りますと、たくさんの人たちが行列をして入る順番を待っていました。私はもともと行列というのが嫌いでして(短気な江戸っ子ですから)あまり気乗りがしなかったのですが、せっかくはるばるエルサレムまで来たことだし、と思い直して巡礼者たちの行列に加わりました。

 

 聖墳墓(洞窟状のキリストの墓)には5人ずつ5分間だけ入れることになっていました。5分経ったら係りの人が中にいる5人に「はい時間です出て下さい」と呼びかけ、入れ替わりに新しい5人が入るという仕組みでした。私のすぐ前にはドイツのミュンヘンから来たという4人の修道女が並んでおりまして、私はどうやら、この修道女たちと一緒に聖墳墓に入る羽目になりそうだとわかったものですから、自己紹介を兼ねてドイツ語でいろいろな話をしながら順番を待っていました。たぶん“Woher kommen Sie? Ich komme aus Japan. Ich bin Pfarrer der reformierten Kirche. Ich freue mich, Sie kennenzulernen.”なんて会話をしたんだと思います。1時間近くも待ったでしょうか、私は4人の修道女たちと一緒に聖墳墓の中に入りました。入るとすぐに6畳間位の石室がありまして、そこからさらに屈まなければ通れないほどの狭い入口の先に、主イエスの御身体を葬ったと伝えられる埋葬室がありました。埋葬室には主イエスの御身体を安置したと伝えられる岩棚(岩のテーブル)があり、そのにはランプやら金色の飾りやら、いろいろなものがあったのですけれども、私の目を引いたのは、その岩棚の上の壁に長さ30センチほどの真鍮製のプレートがありまして、そこにギリシヤ語でルカによる福音書2456節の御言葉が刻まれていたことでした。「あなたがたは、なぜ生きたかたを死人の中に訪ねているのか(訪ねようとしているのか?)。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ」ギリシヤ語で申しますとこういう表現です“τι ζητειτε τον ζωντα μετα των νεκρων ουκ εστιν ωδε αλλα ηγερθη

 

 私がそのプレートを見ていますと、たちまち4人の修道女たちの質問の十字砲火を浴びました。「ねえ、なんて書いてあるの?。あなたは読めるんでしょう?。どうか私たちのために、その言葉の意味を翻訳して下さい=Was bedeutet dieses Wort?  Sie können doch lesen, oder?  Bitte, übersetze das Wort für uns.」。そこで私は彼女たちのために、そのギリシヤ語の聖句をドイツ語に翻訳してあげました。そして彼女たちに言いました「ほらね、だから言ったでしょう?イエス様はここにはおられない。復活されたからです=Sie sehen, Jesus ist nicht hier. Weil Er auferstanden ist.」私は35年経った今でもその時のことを懐かしく思い起こします。そしてなによりも、そのような恵みの経験を与えて下さった神に感謝するものであります。

 

 どうか私たちは忘れないようにいたしましょう。私たちの主イエス・キリストは、私たちを罪と死から贖われるために、十字架において死んで下さり、墓に葬られて下さり、陰府にまで下って下さり、私たちの救いの初穂となって下さったのです。この復活の主イエス・キリストに繋がる私たちは全て、主の御手から復活の生命(永遠の生命)を戴いているのです。その確たる証拠がこの教会です。教会は十字架と復活の主イエス・キリストの御身体だからです。だからこそ、主の御墓(聖墳墓)に響いた天使の声は、いま私たちにも同じ音信を告げています。「あなたがたは、なぜ生きたかたを死人の中に訪ねているのか(訪ねようとしているのか?)。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ」。この「ここにはおられない」とは、主キリストを墓の中に訪ねる必要はない、という意味です。キリストの墓はないからです。主は復活なさって、聖霊によって現在形の救い主として、いまも、のちも、永遠までも、私たちと共にいて下さり、救いの御業を現わして下さるおかたなのです。まさにこのおかたが、十字架と復活の主イエス・キリストが甦られた日を、私たちはここにともに迎え、喜び祝い、感謝し、讃美するのです。祈りましょう。