説 教 詩篇84章1−12節 ヨハネ黙示録6章9−11節
「封印を解く小羊 (3)」ヨハネ黙示録講解説教〔30〕
2025・04・13(説教25152114)
「(9)小羊が第五の封印を解いた時、神の言のゆえに、また、そのあかしを立てたために、殺された人々の霊魂が、祭壇の下にいるのを、わたしは見た。(10)彼らは大声で叫んで言った、『聖なる、まことなる主よ。いつまであなたは、さばくことをなさらず、また地に住む者に対して、わたしたちの血の報復をなさらないのですか』。(11)すると、彼らのひとりびとりに白い衣が与えられ、それから、『彼らと同じく殺されようとする僕仲間や兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように』と言い渡された」。
いよいよ7つの封印のうち「第五の封印」までも解かれようとしています。それは「小羊」すなわち神の独子であられる主イエス・キリストが私たちのためになしたもう恵みと救いの御業です。そこで、まず最初に(と申しますか、改めてと申すべきでしょうが)確認しておきたいことがあります。いったい「小羊」(十字架と復活の主イエス・キリスト)は、何のために「封印」を解こうとなさっておられるのでしょうか?。それは、封印が一つずつ解かれるたびごとに、私たちとこの世界の歴史にとって「あらじもがな」の出来事が起こって参ります。私たちはそれを見て参りました。人を殺す権威、戦争、破壊、悪の支配、そういった、いわば「暗きの権威」が次から次へと、いろいろな色の馬に乗って飛び出して参りました。そのことを、私たちはどのように理解したらよいのでしょうか?。それは何を意味しているのでしょうか?。
なによりも私たちは、それら「七つの封印」を解くおかたが、十字架と復活の主イエス・キリストご自身であることに心を向けなければなりません。封印は必ず解かれなければならないのです。それはこの歴史的世界に真の神による救いが成就する道程において、私たち主の教会に連なる者たちが経なければならない(経験しなければならない)数々の苦難です。しかしそれは、私たちがそれに対して戦って勝利をせよと突き放されているのではないのです。そうではなくて、神の永遠の御子であられる十字架と復活の主イエス・キリストご自身が「きたれ=いざ尋常に勝負しろ」と呼びかけたまい、私たちのために、私たちに代わって戦って、必ず勝利して下さる、そのような数々の苦難なのであります。
いわばそれは、十字架と復活の主イエス・キリストによって、すでに戦われ、打ち勝たれ、解決され、勝利されたところの数々の苦難です。譬えるなら、安土桃山時代(いわゆる戦国時代)において、戦(合戦)というものは侍大将と、それに率いられた武士だけが行うものでした。一般民衆は弁当などを持って、山に登って、ただ見物していたのです。天下分け目の関ケ原の戦いにおいてもそうでした。最初は西軍が優勢に見えたけれども、結局は徳川家康が率いる東軍が勝利したのか、では明日からは天下は徳川様のものだ、われらは皆、新しい天下人に従っていこうじゃあないか。そういう感じでした。それと同じように、総大将であられる十字架と復活の主イエス・キリストが、七つの封印をお解きになって、その七つの封印の全てにおいて、私たちのために、私たちに代わって、大勝利をおさめて下さったのです。私たちはただその大勝利に連なっていさえすればよい、総大将であられる主イエス・キリストに繋がっていさえすればよい、十字架と復活の主イエス・キリストの御身体である教会に連なっていさえすればよいのです。そこに私たちの救いがあり、私たちの存在と生活が盤石の地盤を持つのです。
そこで、今朝の5章9節以下の御言葉です。そこに、このようにございました。「(9)小羊が第五の封印を解いた時、神の言のゆえに、また、そのあかしを立てたために、殺された人々の霊魂が、祭壇の下にいるのを、わたしは見た。(10)彼らは大声で叫んで言った、『聖なる、まことなる主よ。いつまであなたは、さばくことをなさらず、また地に住む者に対して、わたしたちの血の報復をなさらないのですか』。(11)すると、彼らのひとりびとりに白い衣が与えられ、それから、『彼らと同じく殺されようとする僕仲間や兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように』と言い渡された」。まず「霊魂」という言葉が聖書に出て来るのはとても珍しいことです。ただし、くれぐれも幽霊と混同しないでください。この「霊魂」というのは福音を証しして殉教の死を遂げた聖徒たちの信仰そのものをさしています。つまり、肉体は迫害の嵐の中で殺されても、彼らの信仰は生きてなお十字架と復活の主イエス・キリストを証しし続けているのです。
私たちがここですぐに思い起こすのは、ヘブル書の11章4節の御言葉「彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている」ではないでしょうか。これは直接的には創世記4章のアベルの死のことをさしていますが、同時に「主にありて死んだ」全ての主の証し人たちについて言われていることです。そこで私たち一人びとりにいま、封印を解きたもうた「小羊=十字架と復活の主イエス・キリスト」ご自身がお訊ねになっておられることは「では、あなたはどうなのか?」ということではないでしょうか。すなわち「あなたは『彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている』と言われるような、そのようなキリストの証し人たる信仰の生涯を生きる人になっているか?」ということであります。なによりも、聖徒たちの「霊魂」は「祭壇の下にいる」と書いてあるのです。この「祭壇」とは聖餐卓のことですよ。
主イエス・キリストが、御自身の御身体をお裂きになり、御自身の御血を流したもうて、私たちの贖い(唯一のたしかな救い)となって下さったことを記念する(アナムネーシスする)主の聖餐卓から片時も離れない(主の御身体なる教会から片時も離れない)そのような忠実な主の僕として、十字架と復活の主イエス・キリストの証し人として、いま私たちが健やかな信仰に生きる者となっているかどうかが、まさに十字架の主によって問われているのではないでしょうか。余談めいたことかもしれませんが、30年前に、私がこの葉山教会の牧師として就任いたしました時の「牧師任職式」に、来賓として、東京神学大学の当時の学長であられた熊沢義宣先生が来て下さり、こういう祝辞を語って下さいました。「どうか末永く、この葉山教会で牧師としての務めを担って下さい。そしてどうか、ここが、この葉山教会が、あなたの死に場所であると心得て下さい」。私は30年経った今でも、熊沢先生のこの言葉を、私に対する新しいはなむけの言葉として心に刻み続けているのです。
それは、牧師に対してだけの祝辞なのでしょうか?。この春、東海連合長老会では2つの教会が牧師の異動を経験しました。特に焼津教会では、川ア先生が清水教会に転任されましたが、まだ後任牧師が決まっておりませんので、無牧を経験せざるをえない状況になりました。しかし、本当に焼津教会は「無牧=教会の牧者がいない状態」なのでしょうか?。私は、そうではないし、また、そうであってはならない、そのためにこそ中会(東海連合長老会というプレスビテリー)が存在しているのだと確信しています。牧師が異動しても、長老は(そして教会員は)異動しないのです。その教会に残り続けて教会を支えてゆくのです。大牧者なる「小羊」すなわち十字架と復活の主イエス・キリストのもと、苦しい時にこそ長老会は、そして教会員は、御言葉と信仰告白のもと、一致団結して主の教会に仕えてゆく、それが真の教会の姿であり、それが最も輝くのが改革長老教会なのではないでしょうか。私は(中村牧師は)もう30年も葉山教会にいるし、辞めることもなさそうだから安心だ、ではなくて、御言葉と信仰告白のもと、一致団結して主の教会に仕えてゆく、その責務がますます、私たち一人びとりに委ねられているのではないでしょうか。
なぜなら、私たち一人びとりにも、今朝の10節にございました「白い衣」が与えられているからです。この「白い衣」とは「十字架と復活の主イエス・キリストによる唯一永遠の救いにあずからせて戴いた僕たちの信仰の晴れ着」であります。主が私たちに与えて下さった義の衣(主の聖徒たる晴れ着)です。それを私たちはいま身に纏わせて戴いている。その「キリストの義の衣」という唯一の晴れ着を着て、生きるときも、死ぬときも、変わることなく、主の僕(主の弟子たち)であり続けてゆく、そのような信仰の生きた生活を、私たちは続けて参らなければなりません。そして11節の最後になんと書いてありましたか?。主の聖徒たちは、私たちは「『彼らと同じく殺されようとする僕仲間や兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように』と言い渡された」のです。
復活の日が来るのです。死を超えた永遠の生命に、死に勝利したキリストの復活の生命に、いま私たち一人びとりが連なる僕たちとならせて戴いているのです。このことを感謝をもって覚えつつ、いよいよ教会生活に熱心な主の僕へと、成長して参りたいと思います。祈りましょう。