説     教          イザヤ書486節   ヨハネ黙示録616

               「封印を解く小羊 (1)」ヨハネ黙示録講解説教〔28

                2025・03・30(説教25132112

 

(1)小羊がその七つの封印の一つを解いた時、わたしが見ていると、四つの生き物の一つが、雷のような声で『きたれ』と呼ぶのを聞いた。(2)そして見ていると、見よ、白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、弓を手に持っており、また冠を与えられて、勝利の上にもなお勝利を得ようとして出かけた。(3)小羊が第二の封印を解いた時、第二の生き物が『きたれ』と言うのを、わたしは聞いた。(4)すると今度は、赤い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、人々が互いに殺しあうようになるために、地上から平和を奪い取ることを許され、また、大きな剣を与えられた。(5)また、第三の封印を解いた時、第三の生き物が『きたれ』と言うのを、わたしは聞いた。そこで見ていると、見よ、黒い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、はかりを手に持っていた。(6)すると、わたしは四つの生き物の間から出て来ると思われる声が、こう言うのを聞いた、『小麦一ますは一デナリ。大麦三ますも一デナリ。オリブ油とぶどう酒とを、そこなうな』」。

 

いきなり私事で恐縮ですが、私が初めて教会に通うようになったのは高校2年生になったばかりの46()のことでした。今からちょうど50年前のことです。その日は雪が降っていました。同志社の創立者である新島襄の伝道によって誕生した上州の前橋教会でした。礼拝が終わって、牧師先生(森下徹造先生)が私に短い時間でしたが面談をして下さいました。そのとき、私は2つのことを教えられました。第一には、キリスト教の信仰をもって生きるということは戦いである、だから主日礼拝を休んではいけません、ということ。第二は、信仰がアクセサリーになってしまう人がいますが、君はそうであってはならない、ということでした。始めて礼拝に出席した、キリスト教の右も左もわからない高校生に、このような(ある意味で)厳しい言葉をかけて下さった森下先生というかたに、私はいまでも心からの敬意と感謝の念を抱いています。私は牧師として、そのような言葉を新来会者にかけえているだろうかと自問自答させられるのです。

 

 さて、この森下牧師の第二の教え「信仰がアクセサリーになってしまう人がいますが、君はそうであってはならない」ですが、私は牧師になってから、それこそずいぶん多くの「信仰がアクセサリーになってしまっている人」を見てきました。そうした人は例外なく、やがて教会から離れて行ってしまいました。ある意味で、牧師の牧会の最も大きな課題のひとつは「信仰のアクセサリー化に対する不断の戦いである」と定義することができるのではないかと思うのです。そこで「信仰のアクセサリー化」とは、ひと言で申しますなら「自分にとって利益である限りにおいてキリストを信じるが、ひとたび信仰が自分の不利益になるや否や、あたかもアクセサリーを取り去るように教会から離れて行ってしまう人、またはそのような姿勢のこと」であります。これはいささか厳しい言葉ですが、皆さんもぜひ、わが身に置き換えて受け止めて戴きたいと思うのです。私たちは今本当に、アクセサリーではない本物の信仰に生きる者になっているでしょうか?。自分にとって利益である(好ましく見える)限りにおいてのみ、キリストに従う人になってはいないでしょうか?。実はそのことはいつも私たち一人びとりに問われている大きな課題なのではないでしょうか。

 

 今朝の御言葉には封印(教会の設計図としての神の御言葉の封印)を解く小羊(すなわち屠られたまいし神の小羊なる十字架の主イエス・キリスト)が出て参ります。特に私たちが注目すべきことは、七つの封印が次々に小羊(十字架の主イエス・キリスト)によって解かれてゆくわけですが、そのたびに「四つの聖なる生き物=ケルビム」の「来たれ=出てこい」という(雷鳴のように轟く)呼びかけに応じて七つの色の馬が次々に現れることです。そこで、第一の封印に対応して現れた馬は「白い馬」でした。第二の封印に対応して現れた馬は「赤い馬」でした。そして(今朝はそこまでしかお読みしませんでしたが)第三の封印に対応して現れた馬は「黒い馬」でした。それらの馬とその乗り手(騎手)とを、私たちがどのように解釈すべきなのか、ということが最初の問題であります。

 

 この3つの馬とその騎手には共通点があります。まず第一の白い馬の騎手は「弓を手に持っており、また冠を与えられて、勝利の上にもなお勝利を得ようとして出かけた」のでした。第二の赤い馬の騎手は「人々が互いに殺しあうようになるために、地上から平和を奪い取ることを許され、また、大きな剣を与えられ」ていました。そして第三の黒い馬の騎手は「秤を手に持っていた」のでした。そのいずれにも共通していることは「信仰のゆえの大きな戦いや試練に対して、最後まで勇敢に戦い抜き、そして勝利するキリスト者たちの姿」です。何よりも大切なことは、彼らは(激しい迫害に晒されていた小アジアの7つの教会の人々は)今朝の2節にございましたように「(2) そして見ていると、見よ、白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、弓を手に持っており、また冠を与えられて、勝利の上にもなお勝利を得ようとして出かけた」とあることです。どうかこの「勝利の上にもなお勝利を得ようとして出かけた」とあることに心を留めたいのです。

 

 カール・バルトというスイスの神学者は(彼は私たちと同じ改革派教会の神学者でした)教会教義学という著書の中でこういうことを語っています。「気をつけなさい。戦いは既に勝利しているのだ。私たちのために、総大将であられる十字架の主イエス・キリストが(屠られたまいし神の小羊が)御自身の死によって死を撃ち滅ぼし、永遠の勝利をおさめて下さったのだ。振り子はなお2,3回揺れるであろう。しかし注意せよ、時は既に決したのだ(止まったのだ)。永遠が時間に突入したのだ。歴史が御言葉によって救済されたのだ。私たちの戦いは勝利がすでに確定した戦い(残敵掃討戦)にすぎない。キリストが永遠の勝利者にいましたもうからだ」。ここで語られていることこそ「勝利の上にもなお勝利を得ようとして出かけた」教会と、そこに連なる私たちキリスト者の日々の信仰の戦いの姿です。

 

 十字架と復活の主イエス・キリストが、私たちのために、罪と死に決定的に、永遠に、勝利して下さったのです。私たちに救いの喜びと永遠の生命(神との生きた新しい関係)を与えて下さったのです。このことを知った私たちは、もはや信仰をアクセサリーにすることはできなくなるのです。自分にとって利益であり、好ましく見える時にだけキリストに従う、そういうことができなくなるのです。なによりも使徒パウロがピリピ書129節で語っておりますね「(29)あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも、賜わっている」。そして122節においてはパウロは「(22)わしにっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である」と語っているのです。

 

 このヨハネ黙示録は、西暦2世紀初めにおいて、ローマ帝国による激しい迫害の嵐に晒されていた小アジア(ローマ帝国アジア州=今日のトルコ南西部)にあった7つの教会に向けて語られたものです。エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤ、以上の7つの諸教会に宛てて書かれたものです。これら7つの教会の信徒たちは、イエス・キリストを信ずる信仰のゆえに、ある者たちは職を奪われ、学校を中退させられ、またある者たちは家を焼かれ、地域社会から追放され、またある者たちは家族を引き離され、投獄され、ある者たちは拷問を受けたり、殺された人々も少なくありませんでした。しかしそのような激しい苦難のただ中にありまして、このヨハネ黙示録によって、七つの諸教会の人々は、この世界は神の愛が最終的に、そして永遠に勝利する世界であること、いま自分たちを迫害して苦しめている人々のためにも主は十字架で死んで下さったこと、そして主によっていま勝利の喜びを先取りさせて戴いていることを知る者とされたのです。

 

だから、祈り続けようではないか。赦しの祈りに生き続けようではないか。信仰をアクセサリーのように捨てないで、真のキリスト信仰に生きる群れへと成長しようではないか。屠られたまいし神の小羊なる十字架の主イエス・キリストみずから、真の教会の設計図の封印を解いて、それを私たちにお示し下さったのだから、私たちはその設計図のさし示すままに(神の言葉がさし示すままに)真の教会(キリストの御身体なる、聖なる公同の使徒的なる教会)をここに建ててゆこうではないか。まさにその主にある祈りと志とに満たされて、励まされて、奮い立たしめられて、真のキリスト者の群れへと成長していったのであります。そして、いまここに集うている、小アジアならぬ極東アジアの日本の葉山にある私たち一人びとりにも、同じ恵みと励ましが、祝福と祈りと御言葉による展望が、豊かに与えられているのです。祈りましょう。