説     教         イザヤ書537  ヨハネ黙示録5610

                「屠られたまいし神の小羊」 黙示録講解説教〔26

                2025・03・16(説教25112110

 

(6)わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。それに七つの角と七つの目とがあった。これらの目は、全世界につかわされた、神の七つの霊である。(7)小羊は進み出て、御座にいますかたの右の手から、巻物を受けとった。(8)巻物を受けとった時、四つの生き物と二十四人の長老とは、おのおの、立琴と、香の満ちている金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒の祈である。(9)彼らは新しい歌を歌って言った、『あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、(10)わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう』」。

 

 今朝の御言葉であるヨハネ黙示録第56節以下をひとつの音楽に譬えるならば(例えば交響曲になぞらえますならば)それはあたかも第4楽章のクライマックスに相当するのです。すなわち、全ての楽器が一斉に奏でられ、全てのパートが声高く歌い、高らかに、力強く、喜びと感謝をもって、全ての者たちが、主なる神を讃美する様子が、ここに描かれているのであります。それこそ「御座」の周囲にいて神に仕えている四つの生き物(ケルビム)も、二十四人の長老たちも、今朝の9節と10節にございますように「(9)あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、(10)わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」と声高く歌っているのです。

 

 では、この讃美の歌声はいったいどなたに献げられているのかと申しますと、それはまさに今朝の6節にあります「屠られたまいし神の小羊」に対してなのです。それは御自身の御身体と御血をもって、私たち全ての者たちの罪の贖いのために十字架に生命を献げて下さった神の小羊、主イエス・キリストの御姿です。ですからこの「神の小羊」はぼろぼろのお姿なのです。肉を切り裂かれ、血を滴らせ、今流の言葉で申しますなら「ずたぼろ」になって、私たちの罪の贖いを為しとげて下さった、十字架の主イエス・キリストのお姿です。まさにこの、十字架の主イエス・キリストに対してこそ、ケルビムも、二十四人の長老たちも、声高らかに讃美と感謝の歌声をもって、その十字架の御業を歌い上げているのです。それが今朝のこの56節から10節の御言葉でございます。

 

 よく「聖書が語っている罪とはどういうものなのか、私にはよく理解できません」とおっしゃるかたがいます。正直な言葉だと思います。実は、私たち人間には、聖書が語っている罪(私たち全ての者は神の前に立ち得ざる罪人であるという事実)が理解できなくて当然なのです。それは譬えて言うなら、真っ暗な部屋の中にいる人が自分の姿も見えないのと似ています。外から光がさしこんできて、初めて自分の(また他の人たちの)姿が見えるようになるわけです。私たち人間は罪の闇の中に閉じ込められているのと同じ存在でありますから、自分の罪が理解できないのは当然なのです。では、私たちはどのようにして自分の罪を知ることができるのでしょうか。それは主なる神が十字架の主イエス・キリストと聖霊という「まことの光」を私たちに与えて下さることによってなのです。

 

 そして、ここがさらに大切なことですが、私たちが十字架の主イエス・キリストと聖霊という「まことの光」を与えられて、自分の罪を知ることができる者とされるということは、同時に、救いを与えられた者とされていることなのです。どういうことかと申しますと、私たちの存在の奥深くまでも照らしたもう「まことの光」は十字架の主イエス・キリストと聖霊なのですから、それはいま、私たちと共にあり、私たちのために生きて現臨しておられる神の子イエス・キリストによる救いの御業に、私たちが与かることなのです。ですから17世紀のパスカルという人はパンセという本の中で「私たちはただ十字架と復活の主イエス・キリストによってのみ自分の罪を認識する。そして、それは同時に自分の救い主を知ることである。すなわち、主イエス・キリストという真の光において、私たちは罪と救いとを同時に知る者とされているのだ」と語っています。これがいちばん大切なことであります。

 

 だからこそ、いまここに集うている私たちもまた、ケルビムと二十四人の長老たちと共に、声を合わせて今朝の9節と10節の讃美の合唱に加わる者たちとされているのではないでしょうか。「(9)あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、(10)わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」。神の永遠の独子であられる主イエス・キリストのみが、その十字架による罪の贖いの御業によって、私たち全ての者たちのために「その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかた」となって下さいました。この「巻物」には、この歴史の中に完成されるべき真の聖なる公同の使徒的なる教会の設計図と、そのキリストの御身体なる教会を通して、その伝道のわざと働きを通して、全ての人を救わんとなさっておられる神の御業が(すなわち福音が)書き記されているのです。

 

 そして、この「屠られたまいし神の小羊」であられるキリストは、私たちのために、私たち全ての者を罪から贖い、永遠の生命を与えるために、みずからは十字架にかかられて死んで下さったおかたです。すなわち、私たちの救いのためにズタボロになって、肉を裂き、血を流したもうて、それこそ今朝の御言葉の6節にありましたように「ほふられたとみえる小羊」のお姿となられて、それこそ御自分の全てを献げ尽くして下さって、私たち全ての者を救うために、十字架に死んで下さったおかたなのです。神は、死なないからこそ神なのではないでしょうか?。神は不死なる存在、アリストテレス的に言うなら「Theos apathes=苦しまない神」それが古今東西変わらぬ「神」の定義です。死んでしまったり、苦しんだり、病気になったり、弱ったり、疲れたりするような存在を、私たちはもはや「神」とは呼ばない(呼びえない)のではないでしょうか?。

 

 それならば、神は十字架の主イエス・キリストというお姿において、神の外に出て下さった(神ではないものになって下さった)のです。それは、罪によって神の外に出てしまった私たちを救うためです。「神なき者=atheos」(エペソ書2:12)でしかなかった私たちを救い、私たちに復活の生命を与え、御国の民(天に国籍を持つ者)となして下さるために、神の永遠の御子なる主イエス・キリストが「神なき者」(神の外に出て下さった神、神ではなくなった神)となって下さったのです。それが聖書が私たち全ての者たちに語っている福音の本質なのです。だから聖書が(ヨハネ黙示録が)語る福音とは「神なき者にも救いがある」どころではなくて「神なき者にこそ救いがある」という逆説の救いなのです。真の神は「神なき者」たちのための神なのです。

 

今朝、あわせてお読みしたイザヤ書537節を心にとめましょう。「彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった」。神の永遠の御子であられる主イエス・キリストが(神と本質を同じくしたもうかたが)黙って、私たち全ての者の救いと自由と平安のために、十字架にかかって死んで下さったのです。そこに、まさに「屠られたまいし神の小羊」にこそ、私たちの。そして全世界と歴史そのものの、唯一の救いがあるのであります。祈りましょう。