説 教 ダニエル書12章1−4節 ヨハネ黙示録5章1−5節
「封印を解く者は誰ぞ」 ヨハネ黙示録講解〔25〕
2025・03・02(説教25092108)
「(1)わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。(2)また、ひとりの強い御使が、大声で、『その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか』と呼ばわっているのを見た。(3)しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。(4)巻物を開いてそれを見るのにふさわしい者が見当らないので、わたしは激しく泣いていた。(5)すると、長老のひとりがわたしに言った、『泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる』」。
私たちは「天使」と聞くとき、どのようなイメージを心に抱くでしょうか?。天使は文語訳でも口語訳の聖書でもともに「御使」と訳されています。今朝の御言葉であるヨハネ黙示録第5章の2節をご覧になりますと「また、ひとりの強い御使が、大声で、『その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか』と呼ばわっているのを見た」とございます。この「ひとりの強い御使が」というのはルター訳のドイツ語の聖書では“einen starken Engel”すなわち「一人の力強く逞しい天使が」と訳されています。また 欽定訳(King James Bible)というのを見ますと“Then I saw a strong angel proclaiming with a loud voice”と訳されていまして、これもまた非常に力強さを感じさせる訳であるわけです。なぜ天使は力強く逞しくある必要があるのでしょうか?。それは、天使の務め(天使的職務)はこの世界の全ての人々に神の言葉を宣べ伝えることだからです。
神の言葉(十字架と復活の主イエス・キリストによる、全世界に対する真の救いの福音)を正しく力強く宣べ伝えるためには、天使的職務を担う主の教会は「力強く逞しく」あらねばならないのです。それは御言葉に堅く立ち、御言葉のみを正しく真実に全ての人々に宣べ伝える「力強さ」であり「逞しさ」であります。ですから天使はその本質においてジェンダー(性別)のない存在ですが、描かれるときにはそれこそ「ひとりの強い御使=einen starken Engel」として描かれるのです。はかなげにひらひらとそこいらを飛び回っている天使というものは聖書には存在しないのです。それはいつでも「ひとりの強い御使」としての姿を持つのであります。
そこで今朝、私たちはこの「ひとりの強い御使」が「呼ばわった言葉」の前に心新たに呼び集められ、立たしめられています。それは「その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、誰か?」という問いかけです。そこで改めて今朝の1節を見ますと、そこにはこう記されています「わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった」。そして3節と4節にはこうもございます「しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。(4)巻物を開いてそれを見るのにふさわしい者が見当らないので、わたしは激しく泣いていた」。
この「わたし」というのはもちろん、このヨハネ黙示録の著者である使徒ヨハネのことでありますけれども、主なる神が地上の教会に解かしめようとなさっておられる七つの封印によって封じられた「巻物」を、誰一人として地上にある人間たち(神の御前に罪ある存在)は解くことができなかった。読むことができなかった。それゆえに使徒ヨハネは、悲しみというよりも絶望のあまり「激しく泣いていた」わけであります。それこそ今朝の説教の題としましたように「封印を解く者は誰ぞ」という深刻な問いの前に立つ者とされたわけですね。
そこで、ごく単純な問いです。この「七つの封印によって封じられた巻物」には、いったい何が書いてあるのでしょうか?。それこそ、そこには十字架と復活の主イエス・キリストによる全世界の救いの御業(救いの約束とその実現の出来事)が記されているわけですけれども、それを別の角度から見るならば、地上の諸教会に与えられた「真の教会形成のための設計図」がそこに書かれていたと見ることができるのではないでしょうか。だからこそ、それを(その設計図面を)読み取れるかどうかということに、全世界の救いの実現という出来事全体がかかっているわけでして、それこそ天使的職務を委ねられた教会にとって、本質的な(きわめて神学的な)神からの要請であると申さねばなりません。つまり、その設計図面を正しく読み取れるか否か(その七つの封印を解くことができるか否か)こそが、地上にある私たちの教会の最も大きな務めだということができるのではないでしょうか。
私たちのこの葉山教会の新会堂が献堂されてから早くも四半世紀(25年)の年月が経ちました。その頃の長老会は礼拝直後から夜の7時、あるいは8時頃まで続くことも珍しくありませんでした。様々な紆余曲折があり、計画段階で頓挫しかけたこともありました。しかし最終的に折田慶信さんという最もふさわしい設計者が与えられたことは、本当に感謝すべき導きでありました。基本設計に入ってからが大変でした。折田さんはA案に始まってG案まで、実に8つの基本設計図をほとんど月に一度のペースで私たちの長老会に提示してくれました。その最終的なG案に基づいてこの礼拝堂、そして牧師館が設計されたわけであります。
設計図面は100ページ以上もある大きなものになりました。私は折田さんの指導のもと、長老会と共に、文字通り穴のあくほどその設計図面を見、それを理解しようと努めましたけれども、本当に難しいものだと思いました。こうした建物の設計図面というものは一朝一夕には読み解くことはできないものたと痛感しました。それこそ「この七つの封印を解く者は誰か?」と問われているような気がしたものであります。
それだけではありません。教会堂の建築においては、最も大切なことは「いかにして真の教会、つまり、キリストの御身体なる真の教会を建てるか」が大事なのです。ですから単なる建物の問題ですらないのです。むしろそれは、きわめて本質的な、神学的な問題なのです。言い換えるなら、私たちはここに、主なる神が与えて下さった神学的な教会の設計図面を、いかに正しく読み解き、その設計図どおりの教会をここに形成してゆくか、このことに全力を傾注しなければならないのであって、それはただ単に「礼拝堂をどういう形にしようか」とか「階段をどのような構造にしようか」とか「トイレをどこにどのように作ろうか」とかいうような問題ではないということです。そうではなく、繰返し申しますが、十字架と復活の主イエス・キリストの御身体なる聖なる公同の使徒的なる真の教会を、この葉山のピスガ台の上に、いかにして形成してゆくか(建設してゆくか)という問いであります。そのためにこそ、長老会は文字どおり「七つの封印」を解く課題を与えられたわけです。
私は折田建築事務所に毎週のように通って、折田さんに使徒信条とニカイア信条の講義をしました。そしてサマーリトリートとウィンターリトリートにおいて第二スイス信条とスコットランド信条を学びました。そして最も大切なことは、今朝の御言葉の中に見事な解決者のお姿が示されているということです。どうぞ5節をご覧ください。「すると、長老のひとりがわたしに言った、『泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる』」。悲しみ、絶望のあまり、激しく泣くことしかできなかった使徒ヨハネの姿は、同時に私たちの姿でもあるのではないでしょうか。しかし、そこでこそ私たちの絶望を超えて、主なる神ご自身が、唯一の完全な解決者を与えて下さった。七つの封印を解いて、真の教会の設計図を地上の教会にお示し下さるかたを与えて下さったということです。そのかたこそ、十字架と復活の主イエス・キリスト御自身なのです。
「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」と、主なる神は私たちに語って下さいました。まさにその御声によって、まさにその唯一の解決者(救い主)であられる十字架と復活の主イエス・キリストによって、真の教会の設計図の七つの封印は解かれたのです。それならば、私たちにとって最も大切なことは、私たちがその、封印の解かれた真の教会の設計図を正しく読み取り、そのとおりに忠実に主の御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会を形成してゆくことではないでしょうか。この目に見える新会堂の建設のわざは25年前に終わったのですけれども、この葉山の地に、ピスガ台に、ただ神の栄光のみを現わす真の教会、十字架と復活の主イエス・キリストの主権のみが現れる聖なる公同の使徒的なる教会を形成してゆくためのわざは、今もなお継続中なのです。
そして、主が再びこの歴史の中に来られ、全世界と歴史そのものに永遠の救いを実現して下さる(完成して下さる)そのときに至るまで、私たちの教会形成のわざは終わることはありません。(Tコリント3:10-13)その日、その時を待ち望みつつ、喜び勇んで主の御業にお仕えしてゆく、真の教会であり続けて参りたいと思います。救い主なる十字架と復活の主イエス・キリストみずから、私たちの救いのため、この日本の救いのために、七つの封印を解いて下さったのです。祈りましょう。