説     教       創世記112節  ヨハネ黙示録4911

               「万物の創造主なる神」 ヨハネ黙示録講解〔24

                2025・02・23(説教25082107

 

(9)これらの生き物が、御座にいまし、かつ、世々限りなく生きておられるかたに、栄光とほまれとを帰し、また、感謝をささげている時、(10)二十四人の長老は、御座にいますかたのみまえにひれ伏し、世々限りなく生きておられるかたを拝み、彼らの冠を御座のまえに、投げ出して言った、(11)『われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります』」。

 

 今朝の御言葉の9節に「これらの生き物」とありますのは、神の御座に仕えるケルビム(聖なる生き物)のことです。旧約聖書のエゼキエル書126節以下に、御座に仕えるケルビムの姿が出て参ります。私は40年ほど前、東京の青山教会の牧師でありました時に、西麻布にあったユダヤ教の会堂(シナゴーグ)を訪ねたことがあります。かつて有名なラビ・トケイヤーがいたことで知られるシナゴーグです。そこで案内をしてくれたユダヤ人の神学生が申しますには、ケルビムというのは私たち人間がほんらい決して見てはならないもの、見ることができないもの、つまり聖なる神の御姿を示すために存在するのだと言うのです。私はそれを聴いていて「なるほど」と心に納得するものがありました。

 

 たとえば、ユダヤ教の会堂ではどこでもそうなのですけれども、神は不可視なるおかたである、ということを強調します。ですからもちろん、会堂の中に彫像のようなものを絶対に置きませんし、いわゆる聖壇(チャンセル)の正面には赤い垂れ幕が上から下までかかっていまして、そこには申命記5章の「イスラエルよ聴け」に始まる十戒の言葉などが金色の刺繍で綴られていたりします。そのような雰囲気に接するにつけ、やはり旧約聖書のイスラエルの宗教(ユダヤ教)というものは「言葉の宗教」なのだなあと強く感じさせられました。言い換えますならば、ケルビムは神の御言葉に仕え、それを預言者たちと共によに宣べ伝える存在(聖なる生き物)なのです。

 

 それならば、それはまさに、私たち教会の姿でもあるのではないでしょうか。私たちの教会は、否、私たちの教会こそ、生ける聖なる神の御言葉に仕え、神の御言葉を世に宣べ伝える務めを、神から委ねられている存在であり、まさにケルビムの姿そのものなのではないでしょうか。そしてそこでこそ、私たちは今朝の御言葉の10節以下に改めて心を留めたいのです。「(10)二十四人の長老は、御座にいますかたのみまえにひれ伏し、世々限りなく生きておられるかたを拝み、彼らの冠を御座のまえに、投げ出して言った、(11)『われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります』」。

 

 ここに「二十四人の長老」とありますのは、イスラエルの十二部族が地上にも(つまり歴史のただ中にも)そして天にも(永遠の御国にも)等しく存在するという意味の数字です。だから12の倍数になるのです。どういうことかと申しますと、主なる神の栄光は(全ての人を救う恵みの御業としての主イエス・キリストの十字架の御業は)永遠なる神の御心に基づいて、この目に見える世界の歴史のただ中に現わされたものなのだということなのです。ですから地上にいるイスラエルの十二部族と同様に、天にいるイスラエルの十二部族の長老たちも、等しく神の栄光を(つまり十字架の主イエス・キリストを)声高く讃美告白するのです。そして、まさにその讃美告白の言葉が続く11節に記されているわけであります。

 

 「(11) 『われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります』」。この最初にある「栄光とほまれと力」という言葉は、私たちが主の祈りのたびに唱える「国と力と栄光は、限りなく汝のものなればなり」という讃美頌栄の元になった言葉のひとつです。私たち全ての者たちを救う救いの主権、そして救いの御力、そして救いの栄光は、ただ主なる神にのみあるのだという告白であります。言い換えるなら、私たちは、自分自身の中に微塵も救いの根拠というものを持たないのです。その意味で、キリスト教は人間の力(人間の栄光)に対して絶望した宗教です。救いの可能性の全くないところに、救われるはずのない私たちに、神の救いの御業が現わされたのです。この恵みを知るとき、私たちは心から「国と力と栄光は、限りなく汝のものなればなり」と祈らざるをえないのではないでしょうか。

 

 11節の御言葉の続きを読みましょう。「あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります」。今日の説教題を「万物の創造主なる神」といたしました。英語で申しますなら“God, the Creator of all things”となります。この“all things”には文字どおり「全ての被造物」が含まれるのです。だから主なる真の神は「万物の創造主なる神」なのです。これは単純なようですが、実はとても大切なことです。このことを理解するために、私たちは今朝、旧約聖書の創世記11節と2節の御言葉を拝読しました。文語訳聖書ではこのような言葉です「元始に神天地を創造(つくり)たまえへり。地は定形(かたち)なく曠空(むなし)くして黒暗(やみ)淵の面にあり神の霊水の面を覆たりき」。

 

 これはどういう御言葉かと申しますと「地は定形(かたち)なく曠空(むなし)くして黒暗(やみ)淵の面にあり」というのは、徹底的な混沌(カオス)という意味なのです。つまり、果てしのない暗黒(虚無)のみがそこにあったということです。無と申しましてもいわゆる仏教的な静的(スタティック)な無ではなくて、ブラックホールのように全ての意味と秩序と生命を呑み込んで破壊してしまう、そのような恐ろしい無こそが、創世記1章が語っている「地は定形(かたち)なく曠空(むなし)くして黒暗(やみ)淵の面にあり」なのです。まさにそのような破壊的な虚無(カオス)を打ち破るようにして「神の霊水の面を覆たりき」という事実が存在した、ということなのです。神の霊が、神の聖霊が、聖霊なる神が、苦難のただ中にあるイスラエルの民を救うために、歴史の中に介入してきて下さった。聖なる永遠なる神が、歴史のただ中に御自身を現わして下さった。そこで私たち全ての者のために、救いの御業を現わして下さった。それが「神の霊水の面を覆たりき」なのです。

 

ですから、創世記が書かれたのは紀元前6世紀、まさにバビロン捕囚という途方もない民族的苦難の中にあったイスラエルの歴史の中で書かれたのですが、「元始に神天地を創造(つくり)たまえへり」まさにこの御言葉によって、この世界は、この歴史は、たとえどんなに大きな矛盾や苦難に覆われていたとしても、究極的には神の栄光が勝利する世界なのだ、神の救いの御業が全ての人を救う世界なのだ、神の愛こそが歴史における究極の、完全な、失われえない勝利なのだ、この大切な福音を宣べ伝えるために書かれたものが創世記1章の御言葉なのであります。この世界は罪の偶然性が支配する混沌(カオス)の世界などではない。そうではなくて、この世界は十字架の主イエス・キリストに現わされた、神の永遠の恵みの御力が支配する世界なのだ。この最も大切なことを声高く宣べ伝えているのが創世記112節なのです。

 

 それならば、この栄光を(十字架の主イエス・キリストによる歴史全体の救いを)ケルビムが、そして天と地にある二十四人の長老たちが、つまり、私たちの教会とそこに連なる私たちが、讃美告白するのは当然のことではないでしょうか。むしろ、この音信を宣べ伝えずして、私たちはいったい何を宣べ伝えるのでありましょうか。それこそ使徒パウロが語ったように「もし福音を宣べ伝えないのなら、わたしは災いである」(Tコリント書9:16)のです。この生命の御言葉、全ての人を救いに導く福音の御言葉を、生命の限りに宣べ伝えたいと願うのが、私たちの教会なのです。それこそ私たちの教会は今朝のケルビムや二十四人の長老たちと共に、ただ神にのみ仕え、福音の御言葉のみを世に宣べ伝えるのです。そこに、私たちの変わらぬ喜びがあり、誇りがあり、幸いがあり、使命があるということを、今朝のヨハネ黙示録49節以下の御言葉は、力強く宣べ伝えているわけであります。祈りましょう。