説     教       イザヤ書615節  ヨハネ黙示録458

                 「聖なるかな」 ヨハネ黙示録講解〔23

                2025・02・16(説教25072106

 

(5)御座からは、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴とが、発していた。また、七つのともし火が、御座の前で燃えていた。これらは、神の七つの霊である。(6)御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座のそば近くそのまわりには、四つの生き物がいたが、その前にも後にも、一面に目がついていた。(7)第一の生き物はししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人のような顔をしており、第四の生き物は飛ぶわしのようであった。(8)この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼のまわりも内側も目で満ちていた。そして、昼も夜も、絶え間なくこう叫び続けていた。『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者』」。

 

 今朝のこれらの御言葉は、いよいよ「ヨハネ黙示録らしい御言葉」であると言えるかもしれません。宗教改革者ルターと同時代の画家であったアルプレヒト・デューラーは、ルターによって1545年にドイツ語に訳された聖書のこの部分に、今朝のこの御言葉に書かれている「四つの生き物」の絵を聖画として描いております。それを見ますと、いかにもグロテスクと申しますか、ちょっと私たちの日常の感覚では捉えきれない、そういう心象を持つのであります。特に8節などがそうです「この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼のまわりも内側も目で満ちていた」。

 

 たくさんの「目」によって、四つの生き物(第一は獅子のようであり、第二は雄牛、第三は人間、そして第四は鷲のような)の、それぞれ6つある翼の「周りも内側も」満たされていたというのです。デューラーはできる限り御言葉に忠実に、この四つの生き物たちの姿を描こうと努めています。そしてその結果は、私たちの日常的な感覚(普通の美的センス)からはかなり隔たった絵になっているのも事実なのです。では私たちは、これら「たくさんの目」を持つ「四つの生き物」というイメージを、どのようなものとして理解すべきなのでしょうか?。実は、この大切な問いを解く鍵は、今朝の御言葉の最後に記されているのです。すなわち8節の終わりに「(これら四つの生き物たちは)昼も夜も、絶え間なくこう叫び続けていた。『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者』」とあることです。

 

私たちは今朝のこの礼拝において、改めて讃美歌の66番を歌いました。その歌詞の元になっている御言葉こそ、このヨハネ黙示録第48節なのです。またこの讃美歌は同時に、今朝あわせて拝読しました旧約聖書イザヤ書第61節以下の御言葉にも基づいています。そしてこの讃美歌66番の呼び名として“Nicaea”つまり「ニカイア信条」と記されていますが、それは西暦325年のニカイア公会議(第一回目の世界教会会議)において制定されたニカイア信条において「イエス・キリストは神ではなく、神に最も近い人間である」というアリウス派の異端が退けられ、イエス・キリストが父なる神と本質を同じくしたもう永遠の神の唯一の御子であられること(正統的キリスト論)そして三位一体の教理が確認され告白されたこと、この大切なニカイア公会議の決定と今朝の御言葉とが深く関わっていることを示しているのです。

 

 そこで「四つの生き物」は一体なにを現わしているかでありますが、皆さんはマタイ伝、マルコ伝、ルカ伝、ヨハネ伝の、4つの福音書にそれぞれイメージがあることをご存じでしょうか?。マタイは獅子、マルコは人間、ルカは雄牛、そしてヨハネは鷲の姿に象徴されるのです。その根拠が今朝のこのヨハネ黙示録48節であるわけです。と言うことはつまり、これらの「四つの生き物」が現わしているものは神の言葉を宣べ伝える福音書記者たち、すなわち教会の宣教の務めそのものであります。そういたしますと、その翼(すなわち行為)にたくさんの目があったということは、私たちの葉山教会も含めまして、主イエス・キリストの御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会の働きは、いつも神の御姿を見続けている「たくさんの目」があるのだということです。

 

 具体的に申しますなら、この「たくさんの目」は、主なる神を見、主なる神を仰ぎ、主なる神を讃美するための目なのです。それが夥しい数あるというのは、私たちの教会、そしてそこに連なっている私たち自身も、いつも主なる神のみを見つめ、仰ぎ、讃美告白し続ける群れであり続けることに、教会が真の教会であり続けることの最も大切な要件と申しますか、本質的な要因があるのだということなのです。ですから繰返し申しますが、今朝の御言葉の「四つの生き物たち」にある「たくさんの目」とは、私たちの教会を真の教会たらしめる本質的なわざ(働き)を現わしているのです。それは、常に主なる神のみを見つめ、主なる神のみを仰ぎ、主なる神のみを讃美告白し続ける教会のわざ(それこそ教会の天使的職務)であります。

 

 当然のことですが、目は自分の外にあるものだけを観るものです。それなら、天使的職務を授けられた私たちの教会もまた、自分の外にあるものだけを見つめ続けるのです。言い換えるなら、私たちの教会は自分の栄光を少しも求めません。そこに連なる私たちもそうです。自分自身の栄光を微塵も求めません。そんなものは最初から微塵もありません。そうではなく、私たちの教会は、そしてここに連なる私たち自身は、私たちの外なる唯一のおかたの御業のみを見つめ、それのみを仰ぎ、それのみを讃美告白し、それのみを世の全ての人々に宣べ伝えるのです。それが教会の天使的職務なのです。

 

 カール・バルトという神学者が、教会教義学の中で素晴らしいことを語っています。それは宗教改革の原理についてです。私たちは普通「宗教改革」と聞きますと、それは中世のローマ・カトリック教会の腐敗堕落に対して抗議した(プロテストした)ルターやカルヴァンといった人たちが、新しい教会を建てた運動のことだと理解しています。高校の世界史の授業などでもそのように教えられています。そういたしますと、宗教改革運動というものは、ようするに「カトリック対プロテスタントの対立」という図式に収められてしまうわけですね。それは違うのだとバルトは言っているわけです。どういうことかと申しますと、なによりも、私たちの教会の「天使的職務」のことを考えてみるとわかるというのです。そこには「たくさんの目があって、絶えず主なる神のみを見続けている」それこそが真の教会の姿なのだとバルトは語っているわけです。

 

 そうすると、どうなるかと申しますと、宗教改革の原理は、私たちの内側にあるのではなく、ただ私たちの外側にあるものなのです。それは神の御言葉です。神ご自身であるとも言ってよいでしょう。主なる神が、真の教会を建てるための設計図を歴史的教会(可視的教会)に与えておられる。それを正しく読み取って、神の御心のままにキリストの御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会を建てること、そこに宗教改革という教会刷新運動の根本原理があったわけでありまして、それは決して「カトリック対プロテスタントの対立」などという狭い図式に収まるものではなく、この歴史の中に真の「聖なる、公同の、使徒的なる教会」を形成してゆくための唯一の原理を明らかにしたものだと言わねばなりません。だからそれは、この地上の(歴史上の)全ての教会が、それによって新たにされるべき(真のキリストの御身体へと成長してゆくべき)唯一の原理なのです。それこそ「神の御言葉」であります。

 

 それを見るための目が、私たちの教会にたくさんあると言うのです。言い換えるなら、私たちの教会の天使的職務には死角というものが存在しないのです。「ここだけは神の御言葉の支配の外にあっても良い」という死角は存在しないのです。私たちの教会の隅々までも、神の御言葉の御支配をうけることによってのみ、そこに本当の「キリストの御身体なる、聖なる、公同の、使徒的なる教会」が形成されてゆくからです。そして、私たちは世々の生徒らと共に絶えず讃美を歌います。今朝の終わりの8節の御言葉にもう一度心を向けましょう。「(8)この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼のまわりも内側も目で満ちていた。そして、昼も夜も、絶え間なくこう叫び続けていた。『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者』」。祈りましょう。