説 教 エゼキエル書1章26−28節 ヨハネ黙示録4章1−4節
「天の御座」 ヨハネ黙示録講解〔22〕
2025・02・09(説教25062105)
「(1)その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあった。そして、さきにラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が、「ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起るべきことを、見せてあげよう」と言った。(2)すると、たちまち、わたしは御霊に感じた。見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。(3)その座にいますかたは、碧玉や赤めのうのように見え、また、御座のまわりには、緑玉のように見えるにじが現れていた。(4)また、御座のまわりには二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた」。
私たちは今日からヨハネ黙示録の第4章に入って参ります。3章までのところには当時のローマ帝国アジア州にあった7つの教会に対する主の御言葉が書き記されていたのですけれども、この4章からはそれら7つの諸教会だけではなく、これから後に起るべき、十字架と復活の主イエス・キリストによる全世界の救いの出来事が、この歴史の中にある全ての「聖なる、公同の、使徒的なる教会」に対して宣べ伝えられているのです。
そこで、今朝のこの4章1節以下でありますが、その出だしからして素晴らしい御言葉が私たちの心に響くのです。それは1節に「その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあった。そして、さきにラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が、「ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起るべきことを、見せてあげよう」と言った」とあることです。なによりもここに「開いた門」という言葉が出てきます。それは天国の門(神の永遠の御国への招きの門)であり、それが今や「開かれたままになっている」と言うのです。もちろん、それを開いて下さったかたは、十字架と復活の主イエス・キリスト御自身です。
十字架と復活の主イエス・キリストは、私たちの測り知れぬ罪を贖うために、あのゴルゴタの呪いの十字架におかかり下さり、御自身の生命を献げ尽くされて、私たちのために贖いを成し遂げて下さり、尊い救いを与えて下さいました。なんの値もなき私たち罪人のかしらなる者たちを、その値なきがゆえにこそ率先してお救い下さり、無償の恵みをもって御国の民(天に国籍を持つ僕たち)となして下さったのです。
そして「さきにラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声」が、使徒ヨハネに語りかけたのでした。それこそ懐かしい、優しい、そして力強い、主イエス・キリストの御声であります。使徒ヨハネはそこで感激のあまり涙を流したことでしょう。かつてガリラヤ湖の湖畔において、自分を弟子として招いて下さった主の御声が、ここでもヨハネの耳に届き、その心に鳴り響いたからです。ですから続く2節を見ますと「すると、たちまち、わたしは御霊に感じた。見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった」と記されています。十字架と復活の主イエス・キリストの御声を聞いた者たちは、必ず「御霊(聖霊)に感じる」のではないでしょうか。それは、神の御言葉の宣教者(福音の説教者)とされることです。それならば、それこそ、私たちの教会に与えられた務めです。
それは、それこそ、今まで幾度も出て参りました「〇〇教会の御使に(書き送りなさい)」という不思議な御言葉に呼応する恵みの事実なのです。12世紀のトマス・アクィナスという神学者は、私たちの教会の務めは「天使的職務」であると申しました。これはどういうことかと言いますと、私たちが十字架と復活の主イエス・キリストの御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会に結ばれて生きるとき、私たち一人びとりが「天使的職務=天使のわざ」に生きる幸いと喜びを与えられているということです。そして、天使の語源であるギリシヤ語の“άγγελος=angelos”は本来「遣わされた者」という意味です。つまり、私たちは主の御身体なる教会に連なって礼拝者として生きるとき、日々の生活を(それが何気ない日常でありましても)「主から遣わされた者」として生きる幸いと喜びを与えられているのです。
だからこそ、今朝の御言葉の2節以下には、驚くべき恵みの事実が告げられているのです。それは「見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。その座にいますかたは、碧玉や赤めのうのように見え、また、御座のまわりには、緑玉のように見えるにじが現れていた」とあることです。「御座」というのは「みくら」と読むのが正しい読みかたです。なぜなら、永遠にして聖なる神の玉座(恵みの主権の御座)は唯一のものだからです。それこそヘンデルのメサイアの中にも歌われておりますように「王の王、主の主=King of kings and Lord of lords」なる唯一まことの神の玉座こそ、私たち全ての者を救う恵みの主権の輝く「御座」そのものだからです。それに並立しうる権威など存在しえないのです。
「碧玉」「赤めのう」「緑玉」「虹」これら全ては、主なる神の恵みの主権の美しさとその栄光の輝きを表現しています。碧玉というのはイスラエルなどで産出されるラピスラズリのことですが、宝石については私はよくわかりません。とまれ、それらは金と並んで、いやそれ以上に非常に貴重な宝石類でした。そこで、ここに宣べ伝えられておりますことは、その失われえぬ輝きにも比すべき神の栄光の輝きが、その御座から私たちに向かって放たれていて、その輝きによって私たちの全存在が照らし出されている、そのようなイメージの御言葉であります。それならば、それはただ単に、神は尊くて聖なるおかただから、そのような栄光の輝きに包まれているんだ、ということではなくて、その栄光の輝きはすなわち、私たち罪人のかしらなる者たち(救われざる者たち)をその救われざる罪の壁を打ち砕いて救いに導いて下さる、神の救いの御業という栄光の輝きであります。
ここでどうか、思い出して頂きたいのですが、主イエス・キリストは「栄光」という言葉をご自分のためにお用いになりませんでした。そうでなくて、主イエスが「父なる神からたまわる栄光」または「私が受けるべき栄光」とおっしゃるとき、それは常に、御自身の十字架による私たちの罪の贖いと救いを意味していたのです。つまり、主イエス・キリストは、御自分の十字架による私たちの救いのことを「栄光」とお呼びになったわけであります。ということは、今朝のこの御言葉に現わされている神の御座の栄光の輝きもまた、それと同じなのではないでしょうか。言い換えるなら、真の神は「救われるべき者たちだけを救いたもう神」なのではなくて「救われえざる者たちを、その救いの不可能性にもかかわらず、否、その救いの不可能であるゆえにこそ、救いに入れて下さる神」なのです。真の神の栄光の輝きとは、まさにのようなものなのです。
そこで4節に、このように記されていました。「また、御座のまわりには二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた」。私たちはこの「二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって」とあることを、どのように読みますでしょうか?。これは救いに値する立派な人間たち、いわば、完全無欠な人々だけが受けるべき栄光の姿を現しているのでしょうか?。もちろん、そうではないのです。むしろその逆なのです。救いについて言うなら、自分自身の中に些かも救いの根拠を(相応しさや功績や資格などを)持ちえない私たちです。その私たちが「白い衣を身にまとい、頭に金の冠を」戴けるのはいかなる理由においてでしょうか?。それは徹頭徹尾、十字架と復活の主イエス・キリストの満ち溢れる救いの恵みによるのです。
言い換えるなら、私たちは、私たちの救いそのものである「神の栄光」を受けることによってのみ救われる者たちなのです。だからこそ「御座」が大切なのです。その御座の栄光の輝きによって、本来は救われえざる私たちが、その救いの不可能性にもかかわらず、否、その救いの不可能性のゆえにこそ、何の値もなきままに、御国の民とならせて戴けるのです。それが福音の本質なのです。それこそが、十字架と復活の主イエス・キリストによる真の救いの御業なのです。そして今、ここに集うている私たち全ての者たちが、その救いの御業に豊かに与かる者たちとされています。ここに、私たちの変わらぬ感謝があり、誇りがあり、喜びがあり、幸いがあり、希望があることを覚えて、新しい一週間の日々へと、天使的職務へと、遣わされてゆく私たちでありたいと思います。祈りましょう。