説     教           哀歌35558節  ヨハネ黙示録32022

               「汝の戸を叩きたもう主」ヨハネ黙示録講解〔21

                2025・02・02(説教25052104)

 

(20)見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。(21)勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。(22)耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」。

 

 ヨハネ黙示録は十字架と復活の主イエス・キリストが聖霊によって使徒ヨハネに与えたもうた説教の言葉であります。使徒ヨハネは主から受けた御言葉を忠実に、当時のローマ帝国アジア州にあった7つの教会に向けて語りました。私たちがその事実を改めて心に銘記いたしますとき、明らかに示されるひとつのことは、このヨハネ黙示録の御言葉は徹頭徹尾、私たちを真の救いへと導く福音の言葉(神の御言葉)であるという事実です。

 

 そこで、私たちが今朝、与えられております320節以下の御言葉において、私たちはいよいよその思いを(これらの御言葉は福音そのものであるという事実を)教えられているのではないでしょうか。なによりもそれは20節に「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」とあることです。これは、主イエス・キリスト御自身の御声です。ここで「戸の外に立って、たたいている」とだけ記されています。どこに、誰の家の扉か、ということは書かれていないのです。

 

ということは、それはまさに「それは(主イエスが叩いておられるのは)まさに、あなたの家の戸である」と明確に告げられていることではないでしょうか。それこそ、神からの福音のみが持つ限りない恵みの御力です。十字架と復活の主イエス・キリストがまさに、私たちの戸を(あなたの戸を)いま、叩いておられるのです。言い換えるなら、ここにはっきりと告げられている事実は「今、あなたを救うめに、主イエス・キリストが、あなたのもとに来ておられる」という恵みの出来事なのです。

 

 19世紀初めのイギリスの宗教画家(ラファエル派前期の画家)ウィリアム・ハント(William Holman Hunt)が描いた「世の光」という絵があります。この絵は現在、マンチェスター市立美術館というところに常設展示されているのですが、おそらく皆さんも一度ぐらいは、どこかでご覧になったことがあるのではないでしょうか。左手にランプを持ったキリストが、右手でどこかの家の扉を叩いておられる絵です。この絵には不思議なことがあります。それは、キリストが叩いておられるドアの外側にはドアノブが無いのです。つまり、そのドアはただ内側からのみ(つまり、私たちの側からのみ)開くことができるのです。つまり、この絵を通してウィリアム・ハントが伝えたかったことは「主はあなたが戸を開くのを待っておられる」ということでした。それはまさに、今朝の黙示録320節が語っているとおりであります。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」。

 

 どうぞ気を付けて下さい、ここで主は「だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」と仰って下さいます。この「食を共にする」という字は「かけがえのない友になる」「家族になる」という意味の言葉です。古代イスラエルでは、招かれた人がその家で食事を共にすることは、その家の家族同然の親しい関係になることを意味しました。そして事実、主イエス・キリストは、街で「罪人」とレッテルを張られていたパリサイ人、取税人、罪の女性、異邦人、いわば「救い無き人たち」と称せられていた人々とともに食事を共になさったのです。

 

あるときには主は、ルカ伝191節以下にその記述がありますが、エリコの街において、取税人ザアカイに御声をおかけになって言われますには「ザアカイよ、急いで降りてきなさい、きょう私は、あなたの家に泊まることにしているのだよ」。ザアカイは大喜びでイチジク桑の木から降りてきますと、主イエスを自分の家にお迎えしました。そこで主イエスはザアカイと食事を共になさり、その日から、ザアカイは主イエスの弟子になったのでした。

 

 そこで、この限りない恵みと喜びは、ただ取税人ザアカイだけに与えられたものなのでしょうか?。もちろん、そうではありません。今朝の御言葉において、主イエスははっきりとこのように仰っておられます。「だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」と。あなたこそその人なのだよと、主ははっきりと、私たち全ての者に告げていて下さいます。ザアカイに御声をおかけになったのと同じように、今ここに集うている私たち一人びとりにも、主は「今日、あなたの家に泊まることにしているよ」とおっしゃって下さるのです。だから、私たちはなにをなすべきなのでしょうか?。それこそ、戸の外に立って叩いておられる主イエス・キリストを、まさに私たちの家を訪ねておられる主イエス・キリストを、扉を開けてお迎えすることではないでしょうか。「主よ、どうぞお入りください」と。

 

 そして、今朝のこの御言葉には驚くべき続きがあるのです。どうぞ21節以下をご覧ください。「勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」。決して、私たちの読み間違いではありません。ここにはっきりと、主イエスご自身が、私たちのことを「わたしと共にわたしの座につかせよう」と仰っていて下さるのです。驚くべきことです。私たちがなしたことは、私たちの戸を叩いて下さる主イエスの御声を聞いて、ただその戸を開いただけのことにすぎません。当然なすべきことをしただけのことです。信仰によって主イエス・キリストを「わが主・救い主」と告白して、主の御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会に連なって、礼拝者として生きる新しい人生を歩む僕たちとされた私たちです。まさにその私たちのことを、主みずから「勝利を得る者たち」と呼んで下さるのです。

 

 この「勝利を得る者たち」とは、天国の永遠の祝福と幸いにあずかる者たちという意味です。そして、この地上における人生の旅路を(歴史の中を)主と共に、主の愛と祝福に支えられつつ、主の導きのもとに歩み続ける人々、という意味です。まさにそのような祝福と幸いを与えられている私たち一人びとりに、主イエスみずから「わたしと共にわたしの座につかせよう」と仰って下さるのです。これはなんという限りない恵みでありましょうか。キリストの勝利の御座、それは主があのゴルゴタの呪いの十字架を担われたことによる、私たちの罪の永遠の贖いの恵みを示すものです。まさにその十字架による永遠の勝利の御座に、主は、私たち一人びとりを座らせて下さるというのです。主イエスと共に、その恵みの御座に座る者とならせて下さるというのです。それこそまさに、まことに信じられないような、大きな、確かな、永遠に変わらない救いの恵みなのです。

 

 そして最後の22節において、ここにも7つの諸教会に共通して宣べ伝えられたあの御声が響き渡ります。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」。いままさに、この私たちの葉山教会にも(ローマ帝国アジア州ではなく、極東アジアにある日本の葉山教会に集う私たちにも)聖霊なる神は御子イエス・キリストの福音を確かに聴かせて下さいます。私たち全ての者に真の救いを与える福音の御言葉を聴かせていて下さいます。まさにその福音の御言葉に「アァメン、主よ、私は信じます」とお応えして、キリスト者の道を歩み続ける私たち一人びとりでありたいと思います。主はいま、私たちの戸を叩いておられるからです。祈りましょう。