説     教         箴言31112節  ヨハネ黙示録31419

             「ラオデキヤにある教会の御使に」ヨハネ黙示録講解〔20

                2025・01・26(説教25042103)

 

(14)ラオテヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。(15)わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。(16)このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。(17)あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もない、と言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。(18)そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。(19)すべてわたしの愛しているものを、わたしは叱ったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい』」。

 

 今朝、私たちに与えられた御言葉は「ラオデキヤにある教会の御使に」使徒ヨハネを通して書き送られた十字架と復活の主イエス・キリストの御言葉です。まず最初から、いささか厳しい主の御言葉が私たちに臨みます。15節と16節です。「わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう」。これは、とてもより理解できる表現ではないでしょうか。どんな食べ物でも(あるいは飲み物であったらなおさら)「熱くもなく、冷たくもない」生ぬるい状態のものほど、気持ち悪いものはありません。それでは、なぜ、教会が「なまぬるい」ものになるのでしょうか?。それは、かしらなる主イエス・キリストではなく、結局のところ、自分自身を(つまり人間の力や功績を)頼みとしているからだと、十字架と復活の主は私たちに語っておられるのです。

 

 それが、まさに続く17節の御言葉です。「あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もない、と言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない」。古代ギリシャの哲学者ソクラテスは「汝自身を知れ」と申しました。つまり、自分自身を正しく認識することこそ哲学の最重要課題であると語ったのです。しかしソクラテスは人間の罪の問題を見失っていました。私たちにとって自己認識が困難である理由は、知恵や力が不足しているからというよりも、罪が私たちの目を眩ませ、正しい自己認識から遠ざけているからです。譬えて申しますなら、真っ暗闇の中にいる人は自分の姿さえ見ることはできません。それと同じように、私たちは罪によって理性的認識というまなざしが閉ざされてしまっていますゆえに、どんなにあがいても他人の姿はおろか、自分自身の真の姿さえ正しく知ることはできないのです。それこそまさに、今朝の17背の御言葉が語るとおりなのではないでしょうか。「あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もない、と言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない」。

 

 私が神学校におりました頃、日高君という同級生がいました。九州のバプテスト教会の出身でして、高校を出てすぐに神学校にやってきました。ちょっと気難しい男でしたけれども、私とは不思議に気が合って仲良くしていました。神学校を卒業後は彼はドイツに留学してさらに旧約聖書学の研究を積み重ね、現在は牧会のかたわら、ある大学で教授をしております。この日高君が、私がまだ神学校にいた時ですが、この黙示録311節以下の御言葉を私に示しまして「ここに私たち人間の本当の姿があるのではないだろうか」と語ったことを昨日のことのように鮮明に覚えています。私は彼が面白いことを言うやつだと思いました。つまり、熱くもなく、冷たくもなく、生ぬるい、中途半端な状態にこそ、私たち人間の本当の姿があると彼は言ったわけです。いわば「どっちつかずの状態」つまり、どっちに転んでも自分が傷つかない、自己防衛本能に基づいた生活のスタイル(それはある意味において洗練されたライフスタイルとも言えますが)そのことを日高君は「ここに私たち人間の本当の姿(つまり罪の姿)がある」と語ったのです。

 

 では、そうした「生ぬるい、どっちつかずの状態」と正反対の生きかた(対極にある新しい生きかた)とは何かと申すなら、それこそ信仰による新しい生活なのではないでしょうか。すなわち、自分自身を主とすることを辞めて、十字架と復活の主イエス・キリストのみを唯一の「わが主・救い主」と信じ告白して、キリストに自分の身を投げかけて(明け渡して)生きる新しい信仰の生活であります。これを言い換えるなら、私たちが「生ぬるく」なるのは、私たちが自分自身を主としようとしているからなのです。それこそが「ラオデキヤにある教会の御使に」十字架と復活の主イエス・キリストが語りたもうた人間の罪の本当の姿なのです。そして主は、そのような罪を犯しつつあるラオデキヤの教会に、否、ここに集うている私たち一人びとりに「あなたはそのような者であってはならない」と言われるのです。どうぞ18節をご覧ください。「(18)そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。(19)すべてわたしの愛しているものを、わたしは叱ったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい」。

 

 私が東京の教会におりました頃、35年ほど前のことですが、一人の男性が求道者として休まず礼拝に出席しておられました。そのかたの奥様は教会員でしたが、不慮の交通事故に遭って亡くなりまして、その葬儀を私が司式したのですが、その葬儀がきっかけになって休まずに礼拝に出席するようになった、そういうかたでした。ある日曜日、礼拝の後でこのかたが私のところに来られて「相談したいことがあります」と言われるのです。どんなことかと思いましたら「私は洗礼を受けたいと思っているのですが、どうしても心に引っかかるひとつの疑問点があるのです。それが解決できたら洗礼を受けたいのです」と言われた。どういうことかとお訊きしましたら、このかたはこういうことを私におっしゃいました。「イエス・キリストは私たち全ての人間の罪のために十字架にかかられたと先生は説教の中でよくおっしゃいますが、しかし、考えてみれば、イエス・キリストは2000年前に、いわば勝手に、十字架におかかりになったのですよね。その、勝手に十字架におかかりになったイエス・キリストが、どうして今のこの私の罪の救い主なのか、そこがどうしてもわからないのです」と言われた。私は、この質問の意味は深いと感じました。こういう時にこそ、牧師たる者は正しい答えをしなければなりません。

 

 私はしばらく考えまして、咄嗟にこのようにお答えしました。それこそ聖霊の導きであったと思うのですが「勝手に十字架にかかって下さったからこそ、有難いんじゃありませんか?」。「たとえば、キリストが、誰かから熱心に頼まれて、仕方なく、嫌々ながら、十字架にかかって下さったとしても、それは十分に有難いことでしょう。しかし、主イエス・キリストは、あなたの罪のために、あなたを救うために、あなたを御国の民となすために、それこそ2000年も前に、黙って、勝手に、十字架にかかって、御自分の全てを献げて、贖いを成し遂げて下さった。だからこそ、なおさら、キリストの十字架は有難く、信じるべきことなのではないですか?」。このように申しましたら、そのかたは目を閉じて3分、いや5分ぐらい無言でした。そしておもむろに私に言われますには「先生、よくわかりました。私は洗礼を受けさせて頂きます」。

 

 今朝の御言葉の19節に「悔改め」という言葉が出てきます。これは「主なる真の神に立ち帰ること」を意味する言葉です。神への立ち帰りなのですから、そこにこそ、私たち全ての者の本当の幸い、本当の喜び、本当の慰め、そして本当の平安があるのではないでしょうか。十字架と復活の主イエス・キリストは、愛する使徒ヨハネを通して、いまラオデキヤの教会に人々に、否、ここに集うている私たち葉山教会の一人びとりに、はっきりと告げていて下さいます。「あなたこそ、その人である」と。あなたこそ、悔改めて私に立ち帰る、そのかけがえのない人である。私はあなたを抜きにして神の国を考えていないと主は言われるのです。あなたのいない神の国は虚しいではないかと言われるのです。私はあなたのためにこそ、あなたの救いと自由と幸いのためにこそ、あのゴルゴタの十字架にかかったのだと言われるのです。それこそ、私たちの思いや計画ではなく、そのようなものを遥かに超えて、勝手に、主は十字架にかかって下さった。だからこそ、その十字架は全ての人間を救うものなのです。

 

 まさにこの十字架の主を「わが主・救い主」と信じ告白するとき、もはや私たちは「生ぬるい」存在ではなくなるのです。神の恵みと隣人の救いに対しては熱くなり、罪とその支配に対しては徹底的に冷たくなる、そのような新しい信仰者(キリスト者)として、私たちはそれぞれに与えられた人生を、日々に新たな主の恵みに満たされ、支えられ、導かれつつ、歩む幸いを与えられているのです。ここに、私たちの感謝は尽きず、私たちは日々、キリストのみを唯一の主として歩む、キリストの真の弟子たちとされているのです。祈りましょう。