説     教         列王記上72022節  ヨハネ黙示録31113

                  「天のエルサレム」 ヨハネ黙示録講解〔19

                2025・01・19(説教25032102)

 

(11)わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。(12)勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。(13)耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」。

 

 私たちは新年2025年の3回目のこの主日礼拝において、先週に引き続いてヒラデルヒヤにある教会の御使に宛てて告げられた十字架と復活の主イエス・キリスト御自身の御言葉を与えられました。そこで、まず、最初の11節を見ますと「わたしは、すぐに来る」と告げられています。そういえば、このヨハネ黙示録の最後の2220節にも、このように記されています「これらのことを証しするかたが仰せになる、『しかり、わたしはすぐに来る』。アァメン、主イエスよ、来たりませ」。そのように考えますと、実にこのヨハネ黙示録の全体が、すぐに来たりたもう十字架と復活の主イエス・キリストの現臨の恵みにおいて、私たち全ての者に告げられている救いの福音そのものなのではないでしょうか。

 

 十字架と復活の主イエス・キリストは「すぐに」再びこの歴史の中に来たりたもうおかたなのです。なぜか?この世界と歴史全体を救うためです。私たち全ての者を救うためです。神学的な言葉で申しますなら「救済論的パースペクティヴ」と申します。パースペクティヴとは、普通「展望」とか「視点」などとも訳されますが、実はそれは、いま私たちが生きている現在、私たちの生活の場そのものを含む展望なのです。どういうことかと申しますと、私たちはすぐにも来たりたもう十字架と復活の主イエス・キリストの現臨の恵みによって「今を生きる者たち」とされているのです。それはまさに、主イエス・キリストによる救いの恵みが満ち溢れている「今」です。

 

まさにその「今」を救済論的パースペクティヴ(すでに救いの恵みを戴いたキリスト者たちの新しいまなざし)において回顧しつつ、使徒ヨハネは、聖霊によっていまここに現臨したもう十字架と復活の主イエス・キリストの御声を、御言葉を、愛するヒラデルヒヤの教会の人々に向けて、このように告げているのです。「あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい」と。それならば、大切なことは、この「冠」とはいったい何のことを指しているのかということです。ここで私たちがすぐに思い起こすのは、同じ新約聖書の第二テモテ46節以下の御言葉ではないでしょうか。「(6)わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。(7)わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。(8)今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう」。

 

 それならば、この「義の冠」とは、私たちのために御自身の全てを献げ尽くして贖いとなって下さった十字架の主イエス・キリスト御自身です。(義という漢字もまた、我の上に神の小羊を戴くという字です)。徹頭徹尾、ただキリストの贖いの恵みのみが私たちの確かな唯一の救いなのです。十字架と復活の主イエス・キリスト以外に、私たちの真の救いはありえないのです。ですから大切なことは、今朝の御言葉の11節に「あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい」とあることを忠実に守ることです。それは主イエス・キリストを「わが主、救い主」と信じ告白する信仰のことです。言い換えるなら、主の御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会の信仰告白に、私たちがいつもしっかりと繋がって生きることです。さらに言うならば、私たちがいつも、主の御身体の肢体となって生きることです。

 

 そこで、今朝の御言葉は12節にこのように続きます。「勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう」。あなたの生涯の最後の日まで、信仰を堅く守りとおしなさいと、十字架と復活の主イエス・キリストは言われます。そうしたならば、私はその人を「わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない」とさえ言われているのです。これはとても意味深い表現です。私は奈良が好きでして、奈良に行く機会があるたびに、ほとんど必ずと言ってよいほど斑鳩の法隆寺を訪れます。法隆寺の西院伽藍の周囲を美しい木の回廊が四角形に取り囲んでいます。エンタシスと申しまして、柔らかい膨らみを持った木の柱が並んでいます。1450年前に造られたものです。歌人の会津八一が「おほてらのまろきはしらのつきかげをつちにふみつつものをこそおもへ」と歌った回廊です。その美しさに接するたびに、私は牧師ですから、いつも決まって、今朝のこのヨハネ黙示録312節の御言葉を思い起こすのです。

 

 神の聖所の回廊の柱とならせて戴ける、これはもちろん、ひとつの比喩的表現ですけれども、そこには私たちキリスト者の限りない喜びがあるのではないでしょうか。それこそ今朝の御言葉に告げられているとおり「彼は決して二度と(救いの庭の)外へ出ることはない」喜びと幸いです。そしてそれこそ、まさしく、いまここに集うている私たち全ての者たちに告げられている福音の音信そのものなのではないでしょうか。十字架と復活の主イエス・キリストはいま、私たち全ての者にはっきりと告げていて下さるのです「あなたは二度と、私の救いの恵みの外に出ることはないのだ」と。これは主の御約束ですから絶対に確実なもの、私たちが心から「アーメン」と応答すべき福音なのです。

 

 あまつさえ、今朝のこの12節には驚くべき続きがあります。「そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう」と主が語っておられることです。今朝併せてお読みした旧約聖書の列王記上720節に出てくる、主の新しい神殿の柱の上には「二百の柘榴(の彫刻)が二並びになっていた」と記されていましたが「天のエルサレム(新しいエルサレム)」そのものである永遠の勝利の教会、主イエス・キリストの御身体なる真の教会の柱には、主は「わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう」と仰るのです。その柱こそ、もちろん私たち一人びとりのことです。

 

 1890年(明治23年)123日に同志社の創立者でありました新島襄が大磯で天に召されました。47歳でした。新島の遺体は開通したばかりの東海道線の汽車で京都に運ばれ、3日後に葬儀が執り行われました。そのときの様子を新島の弟子の一人であった徳富蘇峰が詳しく書き記しています。それによりますと、霙交じりの冷たい雨が降りしきる中を、数百人の同志社の学生たちが涙を流しながら新島襄の棺を乗せた荷車を引きながら京都の町中を練り歩き、最後に東山の若王子山の山頂に設けられた墓に新島の遺体を葬りました。そのとき、同志社の学生たちが掲げた昇旗に大きく、英語と日本語で「Jerusalem in Heaven 天のエルサレム」と書かれていたそうです。エルサレムとはもともとはヘブライ語で「神の永遠の恵みの御支配」という意味です。神の永遠の恵みの御支配が、この歴史のただ中に現わされるんだ。いや、今その御支配は私たちのもとに来ているんだ。御心が天になるごとく、地にも行われる救いの時が、いま来ているんだ。まさにその救済論的パースペクティヴを、今ここにおける恵みの出来事を、新島の教え子たちは京都の人々に告げたかったのでありましょう。

 

 私たちは今、どうでありましょうか?。どうか私たちはいま、今朝の12節の御言葉を、そして13節を、改めて心に銘記したいと存じます。「勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」。そうです、聖霊によって現臨しておられる十字架と復活の主イエス・キリスト御自身が、いま、私たち全ての者にはっきりと告げていて下さるのです。「天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを(あなたというかけがえのない柱に)書きつけよう」と。「彼は決して二度と外へ出ることはない」と。ここに、私たちの変わらぬ喜びと幸い、光栄と感謝があることを覚えるものであります。祈りましょう。