説     教            イザヤ書2222節   ヨハネ黙示録3710

               「ヒラデルヒヤにある教会の御使に」 黙示録講解〔18

                 2025・01・12(説教25022101)

 

(7)ヒラデルヒヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『聖なる者、まことなる者、ダビデの鍵を持つ者、開けばだれにも閉じられることのなく、閉じればだれにも開かれることのない者が、次のように言われる。(8)わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。』今朝私たちに与えられたヨハネ黙示録37節以下の御言葉は「ヒラデルヒヤにある教会の御使たちに」宛てて、十字架と復活の主イエス・キリストみずからが、愛する使徒ヨハネに書き留めさせたもうた福音の御言葉です。ここでまず使徒ヨハネは7節において「聖なる者、まことなる者、ダビデの鍵を持つ者、開けばだれにも閉じられることのなく、閉じればだれにも開かれることのない者が、次のように言われる」と語っています。

 

 この「聖なる者、まことなる者、ダビデの鍵を持つ者」とは、もちろん、十字架と復活の主イエス・キリストのことをさしています。そこで、「聖なる」とは、父なる神と本質を同じくしたもう、という意味であり、「まことなる」とは、「アーメン、すなわち神の永遠の真実そのものであられるおかた」という意味であり、そして「ダビデの鍵を持つ者」とは、この歴史の中に正しい審判を行われるかた、すなわち「まことの唯一の救い主」という意味の言葉です。なによりもこのおかたは、十字架と復活の主イエス・キリストなのです。私たち全ての者の救いのために、御自分の全てを十字架において献げ尽くして、尊い贖いの御業を成遂げて下さった救い主です。それならば「聖にして真(まこと)にしてダビデの鍵を持ちたもうおかた」こそ、唯一の救いの御名である主イエス・キリストのことです。まずこの大切なことを心に留めまして、続く御言葉をご一緒に読んで参りましょう。

 

 どうぞ続く8節をご覧ください。そこに「わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである」とあります。私たちには「(自分の救いのために)少しの力しかない」のです。このギリシヤ語をさらに直訳するなら「私たちには自分自身を救う力など微塵もない」という意味になります。ですから主イエス・キリストが「わたしは、あなたのわざを知っている」と言われるとき、それは「主イエス・キリストのみが、私たちの真の姿を余すところなくご存じでいて下さる」という意味なのです。私たちにとって何よりも大切なことは、自己認識の如何ではなく、ありのままの私たちが唯一の救い主であられる主イエス・キリストに余すところなく知られているという恵みの事実のみです。ただそれだけが重要なのです。

 

 そして、この恵みの事実においてこそ、私たち全ての者にいま、驚くべき福音が告げられているのです。それは8節の後半にある「あなたは…わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである」という御言葉です。これは言い換えるならば、私たちが救われるのは(私たちが天に国籍ある者とならせて戴けるのは)それは少しも私たち自身の力や資格や条件によるものではなく、ただ十字架と復活の主イエス・キリストの御名によるのだという音信なのです。そしてこの「主イエス・キリストの御名」には確かな実体があります。(名前は記号Symbolでありますが、記号は実体をさし示してこそはじめて本当の記号das Symbolとなりうるからです)。ではその実体とは何かと申しますと、それは十字架と復活の主イエス・キリストが、私たち全ての者の救いのために行って下さった全ての救いの御業のことなのです。すなわちそれは、使徒信条が告白している、主イエス・キリストの御降誕と、御生涯と、御業と、御言葉と、十字架における贖いと、死と葬りと、復活と昇天、その全てのことなのです。

 

 この「御名を否まない」とは、どういうことでしょうか。それは、私たちが、この唯一の救いの御名がさし示している、私たちのためになされた十字架と復活の主イエス・キリストの全ての御業を信じることです。もっと言うならば「主イエス・キリストという御名を信じ告白すること」なのです。私は洗礼志願者のための準備の学びのときにときどき言うことがあるのですが、それは「主イエス・キリストという御名の中に、聖書の全てが凝縮されているのですよ」ということです。それはつまり「主イエス・キリストという御名の中に、神があなたの救いのためになして下さった全ての御業が現れているのですよ」ということです。そのために私はときどき「弁当箱の譬え」というのを持ち出します。「主イエス・キリストの御名という弁当箱の蓋を開けると、そこには私たちの救いのために必要な救いの御業の全てが入っているのだ」ということです。つまり、聖書が私たちに告げている全ての恵みの御業が、主イエス・キリストという唯一の御名に凝縮されているのだということです。

 

 そういたしますと、どうなるのでしょうか?。私たちはそれこそ、日常生活のあらゆる場面において、それこそ寝ても覚めても、歩いていても立ち止まっていても、主イエス・キリストという唯一の救いの御名によって、守られ、支えられ、満たされ、養われ、そして導かれているのではないでしょうか。それこそ、私たちがこの唯一の救いの御名を「否まない」ことであります。さらに申すなら「私たちはこの唯一の救いの御名を否みえない」のです。なぜなら、この御名にのみ、私たちの救いのために必要ないっさいの実体が(神の御子主イエス・キリストによる救いの御業の数々が)凝縮されているからです。このことを深く考えたある神学者が、求道者向けに「キリスト教入門」という本を書きました。しかし、すぐにこの先生は思い直して、その本のタイトルを「キリスト入門」に変えました。「キリスト教入門」ではなくて「キリスト入門」。このことは、私たちにとって、とても大事なことではないでしょうか。

 

私たちは主イエス・キリストという御名に固着する(告白する)ことによって、キリスト御自身に堅く結ばれた者たちとされるからです。もうそうなりますと、この御名を否むとか、否まないかという、私たちを主語とした話でさえなくなるのです。そうではなくて、私たちの救いの主語(主体)は、ただ十字架と復活の主イエス・キリストなのです。言い換えるならば、主イエス・キリストという御名そのものが、私たちの救いの主体なのです。だから、私たち自身の力は微塵も問われていないのです。「あなたは弱いままで良いのだよ」と、十字架と復活の主イエス・キリストは私たち全ての者に語っていて下さるのです。まさにその、あるがままの無力なあなたを、罪人のかしらなるあなたを、救って御国の民となすために、私は十字架にかかったのだ。そのように、この唯一の御名のおかたが、はっきりと宣言していて下さるからです。それこそが、この御名の実体なのです。

 

 もう一度、今朝の8節の御言葉を思い起こしましょう。「わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである」。ここに「誰も閉じることのできない門を開いておいた」とございます。この御言葉を聴いて私たちがすぐに思い起こすのは、マタイ伝1112節ではないでしょうか。「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく奪う者たちがそれを奪い取っている」。とても生き生きとした躍動感のある表現ですね。いま、私たちの歴史の中に何が起こっているか、それは、主イエス・キリストが来られて、私たち全ての者の救いのためにあのゴルゴタの呪いの十字架におかかり下さった。そして死んで墓に葬られて、三日目に復活して下さった。

 

 その全ての救いの御業によって、天国の門が大きく開かれているのです。だから、そこにあなたも喜び勇んで入る者となりなさい。天国を激しく奪う人になりなさい。その門は「誰も閉じることのできない門」です。開かれ放しになった門です。逆に言うなら、私たちはそれを開き、あるいは閉ざすことのできる唯一のおかたを、主なる神のみを畏れなければなりません。この世のいかなる権威や力も、私たちが御国の民とされる恵みから、私たちを遠ざけることはできません。十字架と復活の主イエス・キリスト御自身が、その十字架と復活の恵みをもって「さあ、私はあなたのために天国の門を開いた。あなたこそ、救われるべきそのかけがえのない人である」と、はっきりと語り告げていて下さるのです。ここに、ヒラデルヒヤの教会が聴いた福音がありました。同じように、ここにいま、私たちが聴いて活かされている福音の真理があります。この福音のゆえに、主の御名を讃美しつつ、その御名を生活の中心として、心を高く上げて歩んでゆく、私たちであり続けたいと思います。祈りましょう。