説     教       出エジプト記323035節  ヨハネ黙示録316

                 「サルデスにある教会の御使に」 黙示録講解〔17

                 2025・01・05(説教25012100)

 

(1)サルデスにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『神の七つの霊と七つの星とを持つかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。(2)目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたのわざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない。(3)だから、あなたが、どのようにして受けたか、また聞いたかを思い起こして、それを守りとおし、かつ悔い改めなさい。もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。(4)しかし、サルデスには、その衣を汚さない人が、数人いる。彼らは白い衣を着て、わたしと共に歩みを続けるであろう。彼らは、それにふさわしい者である。(5)勝利を得る者は、このように白い衣を着せられるのである。わたしは、その名をいのちの書から消すようなことを、決してしない。また、わたしの父と御使たちの前で、その名を言いあらわそう。(6)耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』」。

 

 新しい主の年2025年を迎えました。この新年最初の礼拝におきまして、私たちに与えられた神の御言葉はヨハネ黙示録31節から6節でございます。いま、少し長いですけれど全部を口語訳でお読みいたしましたのは、これが新年を迎えた私たち一人びとりにとりまして、とても大切な福音の音信だからなのです。まず、十字架と復活の主イエス・キリストは、使徒ヨハネを通して、私たちにこのように言われます。「わたしはあなたのわざを知っている。すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる」。私はアニメというものをほとんど観ませんけれども(もっとも猪井長老の影響で、最近は少しずつ観るようにもなりましたが)たしか「北斗の拳」とかいう題名のアニメの中に「おまえはもう死んでいる」という有名なセリフが出てくるそうです。気になってインターネットで少し調べてみましたら、次のように書いてありました。「『お前はもう死んでいる』。これは一子相伝の暗殺拳「北斗神拳」の第64代伝承者であるケンシロウが、その奥義により、相手が自身の死に気付かぬ間に葬り去った際に使用する決め台詞で、ある種の「死の宣告」「死亡確認」のような意味が含まれています」。

 

 そういうわけで、私はこれは、今朝の御言葉とも関りがあると思いました。これは単にアニメのセリフである以上に、いまここで、私たち一人びとりに、教会の主がお訊ねになっておられることです。あなたたちはどうなのか?と、教会のかしらなる主イエス・キリストから、私たちはいつも問われているのではないでしょうか?。ですから、これはとても厳しい御言葉です。「わたしはあなたのわざを知っている。すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる」と、主は宣言なさるのです。そして、その現実においてこそ、主の御声がいっそう力強く私たちの心に響き渡ります。「いや、あなたは死んではならない。あなたは、私の前に、生きているのが名だけのキリスト者であってはならない。さきほどの北斗の拳のセリフで申しますならば「お前はもう死んでいる。しかしそのお前を生き返らせるのが私であることを、いまお前は信じるか?」。

 

 なによりも、今朝の御言葉の2節において、十字架と復活の主イエス・キリストは、このように私たち全ての者に言われます。「(2)目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたのわざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない。(3)だから、あなたが、どのようにして受けたか、また聞いたかを思い起こして、それを守りとおし、かつ悔い改めなさい」。4世紀の教父(Church Fathers)でありましたアウグスティヌスは「神の国」という著作の中でこのように語っています。「どうか気をつけなさい。良い小麦畑の中に独麦が混ざっているとき(それはとても困った事であるには違いないが)人々はその畑を『これは独麦畑である』とは呼ばない。そうではなくて『それは良い小麦畑であるが、毒麦もその中に混ざっている』と呼ぶ」。教会もそれと同じだとアウグスティヌスは語っています。なるほど教会も社会学的に見るなら人間の集合体ですから(現にドイツ語では教会のことをGemeinde=共同体と呼びます)そこに、いろいろな人間的な問題点も生じてくることがあるのです。しかし、そのような問題点があるからと言って、私たちはその教会のことを決して「これは毒麦畑である」とは呼ばないのです。そうではなくて「それは良い小麦畑であるが、毒麦もその中に混ざっている」と呼ぶのです。

 

 私たちの行うわざが、主なる神の御前に完全ではありえないのは、それは当然のことです。むしろ逆に、誰かが「私の行いは神の御前に完全なものだ」と思っているなら、その人は傲慢の罪を犯していると申さねばならないでしょう。主イエス・キリストは弟子たちに対して「あなたがなすべき奉仕を神の御前に献げたとき、あなたは『わたしはふつつかな僕にすぎません。なすべきことをしたまでのことです』と言いなさい」とお教えになりました。その謙遜さ(それこそアウグスティヌスが全てにまさって大切なキリスト者の美徳であると呼んでいますが)においてこそ、私たちはよりいっそう、自分ではなく(自分のわざではなく)ただ十字架と復活の主イエス・キリストの御業のみが、私たちと全世界の救いであることを、喜びと感謝をもって言いあらわす僕たちとされているのではないでしょうか。

 

 主は今朝の3節において「だから、あなたが、どのようにして受けたか、また聞いたかを思い起こして、それを守りとおし、かつ悔い改めなさい」と私たちに語っておられます。仏教の、特に禅の教の中に「教外別伝」というものがあります。これは「あなたを救う真の教えはただ仏の中にのみあるのだから、その仏に(釈迦の教えに)直接に繋がりなさい」という意味です。始祖を、オリジナルを、大切にするのですね。私は、キリスト教においては、それはなおさら重要だと思っています。「あなたを救う真の教えは(福音は)ただ十字架と復活のキリストの中にのみあるのだから、その十字架と復活のキリストに直接に繋がりなさい」。それこそこれがキリスト教の「教外別伝」であります。単純に言い換えるなら「あなたの救い、そして全世界の救いは、ただ十字架と復活の主イエス・キリストにのみあるのだ」ということです。逆に申しますなら、私たちは、たとえいかなるわざに生きましょうとも、自分自身の中に微塵も救いの根拠(救いの条件や資格)というものを持たないということです。だから私たちは始祖を、オリジナルを、いつも大切にしなければならない。それこそ教会の唯一のかしらなる主イエス・キリスト御自身であります。

 

 今朝の3節の「悔い改め」という言葉もまた、まさにその「キリスト教の教外別伝」に深くかかわることです。自分自身に救いの根拠を全く持たない(持ちえない)私たちは、ただひたすらに十字架と復活のキリストに自らを委ねまつるほかないのです。十字架と復活のキリストに、自分を投げかける(明け渡す)ことが悔改めです。自分を離れてキリストに立ち帰ることです。私たちがそのような悔改めたキリスト者として生きる時、そのとき、もはや「お前はもう死んでいる」ではなくなるのです。「お前は(罪のゆえに)もう死んでいる。しかしそのお前の罪を贖い、死から生命へと甦らせ、永遠の生命を与え、御国の民とならせるのが私であることを、いまお前は信じるか?」そのように十字架と復活のキリストは、私たちは一人びとりに語りかけていて下さるのです。そして、まさにその主の御声に「アーメン、主よ、信じます。ただあなたのみが、永遠に変わらぬ私の救い主・全世界の贖い主なるキリストであります」と信じ告白するのが私たちなのではないでしょうか。

 

 今朝の御言葉の4節以下をご覧ください。「(4)しかし、サルデスには、その衣を汚さない人が、数人いる。彼らは白い衣を着て、わたしと共に歩みを続けるであろう。彼らは、それにふさわしい者である。(5)勝利を得る者は、このように白い衣を着せられるのである。わたしは、その名をいのちの書から消すようなことを、決してしない。また、わたしの父と御使たちの前で、その名を言いあらわそう。(6)耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」。ここに「しかし、サルデスには、その衣を汚さない人が、数人いる。彼らは白い衣を着て、わたしと共に歩みを続けるであろう」とありますが、この「数人」というのは、古典ギリシヤ語で申しますところの不確定数なのです。つまり、まさにその「数人」の一人として、あなたも数えられているではないかという音信なのです。そして「白い衣」というのはサンデークローズですね。礼拝の晴れ着のことです。主が与えて下さる義の衣です。あるがままの私たちが、キリストの義を纏わせて戴いて、キリストの義の衣を着せて戴いて、真の礼拝を献げ続ける群れとして、贖われたるゲマインデとして、キリストの教会として、主に贖われた群れとして、歩み続けてゆく幸いと喜びを与えられているのです。

 

 だから、私たちは今朝の御言葉の5節を心に留めましょう。「(5)勝利を得る者は、このように白い衣を着せられるのである。わたしは、その名をいのちの書から消すようなことを、決してしない。また、わたしの父と御使たちの前で、その名を言いあらわそう」。主は私たち一人びとりのかけがえのない名をお呼びになって「わたしは、その名をいのちの書から消すようなことを、決してしない」と宣言して下さいます。あなたの名は、天国の生命の書にしっかりと書き記されている。あなたは、私が十字架の血をもって贖い取った、私の愛する大切な、かけがえのない人である。そのように主は、今も、いつも、いつまでも、語っていて下さるのです。祈りましょう。