説 教 詩篇19篇12節 ヨハネ黙示録2章18−29節
「テアテラにある教会の御使に」 黙示録講解〔16〕
2024・12・29(説教24522099)
「(18)テアテラにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『燃える炎のような目と光り輝く真鍮のような足とを持った神の子が、次のように言われる。(19)わたしは、あなたのわざと、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐とを知っている。また、あなたの後のわざが、初めのよりもまさっていることを知っている。(20)しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている。(21)わたしは、この女に悔い改めるおりを与えたが、悔い改めてその不品行をやめようとはしない』」。
私たちはここに2024年最後の主日礼拝へと集うて参りました。今朝、この礼拝において私たちに与えられた御言葉は、ヨハネ黙示録の2章18節以下の御言葉です。これは十字架と復活の主イエス・キリスト御自ら、使徒ヨハネを通して「テアテラにある教会の御使に」宛てて宣べ伝えさせたもうた御言葉です。私たちはテアテラという地名を聞きますと、すぐに使徒行伝の16章14節以下に記された「テアテラの紫布の商人で、神を敬うルデヤという婦人」のことを思い起こすのではないでしょうか。このルデヤは使徒パウロの語る説教を聴いて回心し、主イエス・キリストを信ずる人となった女性であり、彼女だけではなく彼女の家族も全員が使徒パウロから洗礼を受けてキリスト者となったのでした。
そういうことを思いますとき、おそらく、と言いますよりも確実に、今朝の御言葉に出てくる「テアテラにある教会」というのは、ルデヤの家における家庭集会から始まった教会であったに違いありません。私たちのこの葉山教会も1919年(大正8年)に、それこそ6畳ひと間の家庭集会から始まりました。当時の週報を見ますと「日本基督鎌倉教会葉山講義所」と書かれています。この「日本基督鎌倉教会」というのは現在の鎌倉雪ノ下教会のことです。それから5年後の1924年(大正13年)に「日本基督葉山教会」として自給独立するわけです。そこで、こうした家庭集会から始まった教会というのは、私が知り、また実際に経験した限りにおいてですけれども、信仰生活に非常に熱心である(敬虔な雰囲気を持っている)半面、人治的と申しましょうか、特定の人物の影響というものを強く受けやすい、特定の人物の言葉や思想に動かされやすい、そういう弱点も併せ持っていることが少なくないのです。
まず、葉山教会のことを申しますならば、家庭集会時代(つまり「日本基督鎌倉教会葉山講義所」の時代に)当時の鎌倉教会から通ってきて聖書の講義をして下さった吉岡弘毅という先生は、神学教育を受けた正式な牧師ではありませんでした。むしろ、のちに帝国議会議員(国会議員)となり、国務大臣として、政治の世界において名を成した人でした。そうしたポリティカルな吉岡先生の雰囲気が影響したのでしょうか、いわゆる世俗主義的なものの考え方、世俗的な価値判断の基準というものが、どこかに遺った形のまま、初代牧師の築山左門牧師、2代目牧師の杉田虎獅狼牧師へと引き継がれてしまいました。そのため、特に杉田虎獅狼牧師は非常にご苦労なさったようです。なかなか本物の教会(キリストの主権のみを現わす教会)にならないというディレンマを抱えたまま、しかし全力で御言葉のみを宣べ伝え、丁寧な、しかし妥協のない牧会をなさって下さったのが杉田虎獅狼先生でした。
そして、実を申しますと、この杉田先生の12年間の苦闘、それに続く宮崎豊文先生の30年間の苦闘にもかかわらず、私が葉山教会に赴任いたしました30年前にも、なお世俗主義の影響はかなり色濃く残っていました。長老会においてさえしばしば私に対する批判の声が上がりました。あるとき一人の長老から「先生、キリストの主権だけでは教会は成り立たないんですよ」と言われた時には本当に驚きました。そうした発言によって私が批判されるたびごとに、天に召された石塚康子長老などは、身を挺して私を擁護弁護して下さったものです。私は人治主義的価値観に染まった葉山教会を「キリストの主権のみを現わす真の教会」に変えようとして苦闘してきました。しかしそのような私を追放しようとして、全教会員に私についての根拠なき誹謗中傷の電話をかけ続け、東海連合長老会や全国連合長老会にも、神奈川教区にさえも、裏口から執拗に働きかけた人物さえいたのであります。
そのような悪しき雰囲気が、ほぼ完全に払拭できたと思いましたのは、ようやく最近の15年間のことです。ですから実に90年もの長きにわたって、私たちの葉山教会は、キリストの主権だけではなく、人間的な主権を併せ持った群れとして、いわば福音主義と人治主義とがせめぎあうシンクレティックな教会として、歪な苦しい歩みを続けてきたわけであります。そういう意味におきましては、今朝の御言葉における「テアテラにある主の教会」の問題というものは、決して私たちにとっても対岸の火事のごときものとは言えないのではないでしょうか。
そこで、今朝の御言葉の19節と20節には、このようにございました。「(19)わたしは、あなたのわざと、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐とを知っている。また、あなたの後のわざが、初めのよりもまさっていることを知っている。(20)しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている」。ここにイゼベルという「女預言者と自称していた女性」のことが出てきます。このイゼベルとは、彼女の本名であったというよりも、旧約聖書の列王記下9章に出てくる、イスラエルの王アハブの妻で、アハブを唆して罪を犯させたイゼベルという女性のことを指していて、まさにその列王記下のイゼベルのような女性が、自分のことを「女預言者」だと自称して、テアテラにある主の教会を扇動し、自分の思い通りに動かそうとしていた、そのような事実があったものと思われるのです。
しかし、教会の唯一のかしらにいましたもう主イエス・キリストは、そのようなシンクレティズム(人治主義と神の主権との並立)をお許しになるかたではないのです。主は「あなたがたは二人の主人に兼ね使えることはできない」とおっしゃいました。なによりも私たちは、今朝の御言葉の25節以下に心を留めましょう。「(25)ただ、わたしが来る時まで、自分の持っているものを堅く保っていなさい。(26)勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。(27)彼は鉄の杖をもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。それは、わたし自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。(28)わたしはまた、彼に明けの明星を与える。(29)耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」。
ここに、十字架と復活の主イエス・キリストは「ただ、わたしが来る時まで、自分の持っているものを堅く保っていなさい」と私たち全ての者に告げておられるのです。この「自分の持っているもの」というのは、第一コリント書の15章1節で使徒パウロが語っている「あなたがたが受け入れ、それによって立ってきたあの福音」のことです。そこでは使徒パウロは同時に「もし、あなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を堅く守っておれば、この福音によって救われるのである」と語っています。この「いたずらに信じないで」とは「あなたが信仰を捻じ曲げないで」という意味の言葉です。信仰を捻じ曲げるとは、キリスト以外の者に依り頼むこと、キリスト以外のものを「主」とすることです。そういうことをしないで、あなたの信仰を捻じ曲げないで「(あなたが)わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を堅く守っておれば、この福音によって救われるのである」とはっきりと告げられているわけであります。
それこそ、今朝の御言葉の25節に「ただ、わたしが来る時まで、自分の持っているものを堅く保っていなさい」と告げられていることと同じことであります。あたかも陶工が鉄の杖で窯から出した(捻じ曲がった)陶器を打ち砕くように、教会の唯一のかしらにして、全世界の唯一の救い主にいましたもう十字架と復活の主イエス・キリストは、福音に堅く立つ私たちを、そしてこの歴史的世界を、必ず救いの完成へと導いて下さるのです。「諸国民を支配する権威」をさえ「明けの明星」をさえ、主は御自身の御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会に与えて下さるのです。私たち全ての者の救いのために、御自身の御子をさえお与え下さった父なる神は、万物をも添えて与えて下さるおかたなのです。本当の幸いと自由、真の豊かさと平和、そして永遠に変わらぬ義と愛は、十字架と復活の主イエス・キリストにのみあるのです。
私たちは今、まさにその十字架と復活の主イエス・キリストの御身体なる教会に連なる者たちとされています。主が与えて下さる復活の生命にあずかる僕たちとされているのです。私たちが神の御前で、人間として生きていくうえで最も必要ないっさいのものを、主は必ず豊かに、私たち全ての者に与えて下さるのです。テアテラにある主の教会も、私たちのこの葉山教会もまた、ただキリストの主権のみを現わす真の教会として歩んでゆく祝福と幸いを与えられています。この変わらざる恵みと祝福のうちに、私たちはともに、新しき主の年2025年を迎えようとしているわけであります。祈りましょう。