説 教 イザヤ書9章6節 ヨハネ福音書1章1−14節
「恩恵と眞理」 クリスマス礼拝
2024・12・22(説教24512098)
我らの主イエス・キリストの御降誕せられたクリスマスを迎え、私たちは喜びと感謝に沸き立つような思いでここに集まって参りました。毎年の恒例のクリスマスとはいえ、やはり迎えますたびごとに新たな思いがいたします。そこで今朝は特に、新約聖書のヨハネによる福音書1章1節以下の御言葉を通して、クリスマスの福音をともに聴いて参りたいと思うのです。ここに、特に今朝の終わりの14節に注目して戴きたいのですが、そこに「(14)そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」とございます。
ヨハネ福音書、そして黙示録の著者でもある使徒ヨハネは、今朝のこの14節において3つの大切な言葉によって私たち全ての者にクリスマスの大きな喜びを宣べ伝えているのです。それは何かと申しますと、(1)恵み(恩恵)、(2)まこと(眞理)、そして(3)栄光、この3つの言葉です。そこで、私たちはともしますと、この14節の御言葉におけるこれら3つの御言葉を別々のものとして読みがちなのですけれども、実はこれら3つの御言葉は全て同じクリスマスの出来事(救い主イエス・キリストの御降誕の喜びの福音)を私たちに宣べ伝えているのでありまして、その意味では「恩恵と眞理、そして栄光」この3つの言葉は人となられた(受肉された)永遠の神の御子イエス・キリストにおいて一つの出来事(全世界の救いの出来事)となったものです。
そこで、まず「恵み=恩恵」についてです。この「恵み」と訳された元々のギリシヤ語はカリス( Χάρις, Charis)という言葉です。今日の礼拝に於いてこれから聖餐が献げられますが、この聖餐(式)のことをギリシヤ語で「エウカリスト=εὐχαριστία」と申します。つまり今朝の14節の「恵み=Χάρις,」がその語源なのです。聖餐において私たちはなにに与かるのでしょうか?。申すまでもなく、私たちの罪の贖いと救いのために裂かれた主イエス・キリストの御身体なるパン、そして流された御血であります。それならば、この「カリス」という言葉はなによりも、十字架の主イエス・キリストの恵みをあらわしているのです。端的に十字架そのものを示していると申してもよいでしょう。
次に「眞理」です。これも元々のギリシヤ語で申しますと「アレセイアaletheia」という言葉なのですが、使徒ヨハネはおそらくそれ以前の旧約聖書の言葉であるヘブライ語を想起しつつこれを書いています。それはヘブライ語の「ヘセド חֶסֶד Ḥeseḏ」という言葉です。実はこのヘセドというヘブライ語は驚くべき意味を持つ言葉でして、その語源は「私たちに対する神の熱烈な願い=私たちを救わんとする神の熱意」です。ですからヘセドは同時に「神の真実」と訳されます。神の真実とは、それは私たちを救わんとする神の熱意そのものだからです。それならば、それこそまさしく神の御子イエス・キリストの十字架の出来事において現わされた神の真実そのものなのではないでしょうか。つまりヘセドとは「十字架において現わされた、私たち全ての者を救わんとする神の熱意」であります。
そして最後に「栄光」について顧みて参りましょう。私たちは「栄光」と聞きますと、それは誰かが栄誉を受けることだと考えます。オリンピックの金メダル、国民栄誉賞、文化勲章、ノーベル賞、譬えるならそういうものを「栄光」の代表的な事例として思い浮かべるのではないでしょうか。しかし、新約聖書において「栄光」というとき、そういう事例と比較することはできないのです。なぜなら主イエス・キリストは、ご自分が十字架において死なれることを「私が受けるべき栄光」とお呼びになったからです。例外はありません。主イエス・キリストにおいて「栄光」とは例外なく十字架のことなのです。
そのようなことを、恵み、真理、栄光、この3つの御言葉について顧みて参りますとき、私たちは使徒ヨハネが、クリスマスの出来事を、まさに主イエス・キリストの十字架の御苦しみと死と葬りの出来事と直結させて捕らえていることに気づかされるのではないでしょうか。言い換えるなら、恵み、真理、栄光、この3つの御言葉は全て、十字架の主イエス・キリストの御姿を私たちに想起させるものなのです。これは、ある意味においてとても不思議なことではないでしょうか。クリスマスと十字架が結びついているのです。私たちがクリスマスの福音を聴くことは、十字架の主イエス・キリストの福音を聴くこととひとつのことなのです。
このことをカール・バルトという神学者はこのように語っています。「注意せよ!私たちは聖家族の美しい情景の背後に、十字架が立っていることを忘れてはならない」(Achtung! Wir dürfen nicht vergessen, dass hinter den schönen Szenen der Heiligen Familie das Kreuz steht.)「あたかも二重写しの写真のように」ともバルトは言いました。あたかも二重写しの写真のように、私たちはあのベツレヘムの馬小屋の美しく温かい情景の背後に、呪いの十字架が屹立している事実を見るのではないだろうか。
実に、神の永遠の御子イエス・キリストは、私たちの罪のただ中にお生まれ下さった救い主なのです。つまり、神は、最もふさわしくないところに、最も暗く、低く、絶望的な、罪の暗黒のただ中に、ご自身の御子イエス・キリストを与えて下さいました。それがクリスマスの出来事の意味なのです。だから私たちは、全世界の主にある兄弟姉妹らと共に「クリスマスおめでとう!」と喜びの祝福の挨拶を交わします。クリスマスおめでとう。まさに主イエス・キリストは、私たち全ての者のために、あなたの救いのために、あのベツレヘムの馬小屋にお生まれ下さり、そして、十字架において、唯一完全な救いを与えて下さいました。祈りましょう。